2018年1月15日 (月)

なぜ没論理がまかり通るのか

日本人は論理を忌避し、共同体的恣意性に頼る場面がとても多い(しかもそれを美徳とする)から、プログラミングの理解と多少の作成能力をベースとするコンピューター科学(CS, Computer Science)の普及浸透は無理ではないか、と思う機会が多い。

今回は、女性の隠れ家の住所をストーカーに教えてしまい、女性が殺された事件で、その市役所は「殺されることは想定しなかったので無罪(or罪が軽い)」と主張している。

“殺されることは想定できたけど情報を教えた”は、まずありえないことだから、まさに、「想定すべきことを想定しなかった」迂闊怠慢が、市役所の罪の中核ではないのか。

(プログラミングの設計構造は、事実をベースとするのではなく、一般的な論理をベースにしなければならない。事実は、あらゆる可能性をカバーしていない。)
ついでに:
(プログラミングの企画は、起きたことへの対処(救助など)ではなく、それが絶対にorなるべく、起きないことを目的としなければならない。)

いかにも日本的に、「まあ、そこまで想定しなかったんだから、しょうがないね」で済まされるとしたら、今後の日本はますますコンピューター三等国、四等国、五等国となり、やがて、あらゆる海岸が原発事故に汚染されるだろう。

「だって、大きな津波が来るなんて、想定しなかったんだもん!!!」

【追記】今日(1/15)、横浜地裁の、慰謝料110万円(請求額1000万円)の判決が出たらしいけど、お金やその額について考えることも言うことも無意味だ。閲覧制限がかかっているのは、一般公開したら危険があるから、に決まっている。だから市の主張:「情報漏洩によって被害者の死亡まで予測することは難しい」は、完全にナンセンスで非論理的な詭弁だ。しかし裁判官も、この詭弁を納得してしまったのだろうか※。おとろしいなぁ、ニッポンジンの非論理性は!

※: 判決理由の報道では、(閲覧の)「目的を特定できなかったから…」となっている。すなわち裁判官も没論理の同じ穴の狢(むじな)だ。(単純な一般論理では、特定できない==あらゆる危険の可能性がある、となる。)


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2018年1月 5日 (金)

「天然」の本質

天然という形容は、なぜか男性にはなかなかつかないようだ。

女性には、よくつく。三船美佳さん、ヒラリー・クリントン。さとう珠緒さん、ちょっと名前をど忘れした、あの往年の人気タレント、などなど。

その、天然と呼ばれる部分は、脳や心の、ふつうの人間にはない部分である。たいへん気になるので、天然な人には惹かれる。

しかし、天然とは何か、を説明しようとすると、最初から行き詰まる。

非常に図式的な説明をすると、たとえばこうなる:

ふつうの人: 何かの物や労力の提供に代価を求めたり与えたりする。
天然の人: 物や労力は、その場その時の自他の必要に応じて授受するのみである。代価のやり取りは意識にのぼらない。

もしこの図式が正しいとすると、天然は、人類の進化の兆候を表しているのかもしれない。
交換価値ではなく、コミュニケーションによって生きていく新人類の。

(しっかり書くヒマがないので、今回はこの辺で。)


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2017年12月25日 (月)

消費者という他者不在

他者不在という、コミュニケーション学/コミュニケーション理論の重要概念を理解するためには、動物園をその例として考えるのが、いちばん分かりやすいのでは、とかねてから思っているのだが、果たしてどうだろうか。

いずれにしても、たとえば昨今の、パンダの赤ちゃん騒動も、消費者的==他者不在的ひどさに満ち満ちている。

・パンダという動物は、動物園という環境へ拉致されて、毎日見世物(という任意消費財)にされて、その人生は本当に幸福なのか?

という問いはどこにもなく、(かんじんの、パンダ本人への思いやりはゼロ!!)

・パンダを観光資源や外交資源(?)とする中国の、いや各国の姿勢は、生息地の自然環境に長期的にどんな(負の)インパクトを与えているのか?

という問いもない。

現代世界の三大惨事、四大惨事を、五大惨事にまで拡大すれば、その5番目の大惨事は、十億総消費者化、消費者と呼ばれる醜い人塊の圧倒的な肥大化だ。消費者は(その‘合計’としてはすげえ金持ちだから)ときに“王様”と呼ばれ、その本質の無力無学さや貨幣に支配される惨めさは、欺瞞の背後へ覆い隠される。

そして世界はますます荒廃する。格差は広がり、放置され固着される。

人類のコミュニケーション有能化のためには、多くの人たちのまず意識の脱消費者化が絶対に必要である。とりあえず、子どもたちを動物園という消費財の消費者という位置から、救出しよう。そしてさらに、子どもの全人格として、消費者というクソ地獄からの救出を。パンダへの見方(など)をきっかけに。

※: キリスト教とその構成物(クリスマスなど)の多くも、明らかに、何かの、消費者的隠蔽だわ。


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2017年12月 8日 (金)

猫 is much much better than us idiotese human (1)ひげ

(idioteseという英語はないらしいが、idioticが持つ特称指示性を避けたい。idioteseは少なくとも私の語感では、全称的なのだ。)

猫が、ひげ(whisker)というシンプルで優れたナビゲーション・システムをいつ発明し、何万年かけて完成させてきたかについては詳らかでないが、内燃機関によって車輪を高速回転させるあの凶器のような高速移動機械が最初から実装していれば、それら同士の衝突事故や、いわゆる人身事故、そして対物事故も、皆無であったろう。

人間は、万物の霊長を自称しているが、その実態は誰が見ても、万物の霊短である。

みな、自分と自分の家族だけは無事、と想定するから、未完成で危険な技術を社会内に平気で実装してきた。

次回予告:「肛門」
次々回予告:「四肢のばね」...shock absorber

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2017年11月 6日 (月)

シリアルキラーと被害者、双方のすごい孤独

人類という生き物はこれまでウン万ウン十万年という長い期間、ローカル共同体(統一国家のことをグローバル共同体と呼ぶなら)に依存して生きてきたので、共同体性の名残というやつは、まるで尻尾(しっぽ)の名残の尾てい骨のように、あちこちにしぶとく残っている。

そしてそれら共同体性の残滓というやつは、いじめに代表されるような悪質なものも多いのだけど、なんでそれらを悪質と感じるかというと、被害者が共同体を脱した「個」になりつつあって、共同体の規範から自由な個は良い(善い)ものであるという、観念があるからだ。いじめは、そんな‘異質な’個体を排除しようとする。

だが現実は、自由な個は善と良であるだけでなく、悪をはたらく自由を持つ個であったりもする。また、共同体を破壊し空洞化し、人間を個へと分断しつつあるものは、何を隠そう、貨幣経済のグローバル化、のより大々的な進展であるので、そこに共同体のそれぞれローカルな規範に代わるグローバルな規範が共有されないかぎり、貨幣社会は過酷な差異の階層であるので、往々にしてそれは差別の階層ともなり、悪の温床となりやすい。

昔(前世紀前半まで)も、共同体を排除されて共同体に恨みを持つ者が大量殺人を犯す、といったことはまれにあったけれども、概して共同体時代の人類社会は、悪や犯罪が少ない。そのころの民話やお伽話に、悪人はあまり出てこない(盗賊や鬼はよく出てくるが、いずれも共同体外からの侵入者だ)。人類がばらばらの個になり、しかもそれらは各人が貨幣を稼がなければならない、しかし稼げない人の方が多い(階層は下の層ほど多く上へいくほど少数となる)。したがって、現代までの粗放な貨幣経済社会は、もろ、悪の温床である。

学問的動機のない、単なる受験競争への参加も、犯罪の卵と呼べるかもしれない。逆の本当の学問的動機のある人なら、必ずしも特定大学の入学にはこだわらないだろう。

で、現代の粗放的貨幣経済社会は、人間一人々々をものすごーく孤独にするのである。そして片方では、そんな孤独者をかもにする犯罪者(そいつもまた孤独者!)も、あちこちに毒キノコのように生えてくる。

悪をはたらくことは一種の自殺行為、自滅行為なので「得」ではない「損」である、という認識をたまたま持っていることも含め、この私はたまたま運が良かった孤独者であるにすぎない。

それで貨幣経済が人間をばらばらな(そして自由な!)孤独者にし、多くの人の貨幣経済的困窮を生んでいる現代社会では、今の警察の仕事…発生した犯罪への対応…は、law enforcementないし防犯という仕事の全体の、20%ぐらいに位置づけなければならない。そして残る80%は、まだまだ、その真の芽生えがない。

大量の孤独者困窮者を放置する‘粗放な’貨幣経済社会を早急に終わらせることが、政治等の最上位課題にならないと、あかんわ。

たとえば、メディアをもっとメディアの名にふさわしいものに!

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語注: シリアルキラー, serial killer, 連続殺人者


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2017年10月29日 (日)

オトコの脳の成熟と充実について

> この現実世界では関係が存在に先行し

これは、このブログの比較的最近のコメント対話の中で私が述べた(ずっと前からえんえん述べている!)「存在==関係」説への、応答の一部だ。

このような構造を非常にオトコ的と感じるのは、わざわざ、存在(純粋存在、単独存在)はない、関係あるのみ、うかつに存在と捉えているものは実は関係である、と私が主張しているにもかかわらず、上記引用文では関係と存在が別離し、存在が単独で純粋存在になっているところだ。

この、ここは下足禁止ですからスリッパに履き替えてください、となってるところに泥靴でずかずかあがり込むようなうかつ乱暴性は、ほかにn,s氏の脳構造にも(トートロジーの頻発として)よく見受けられる。

人類のコミュニケーション有能化という未着手課題の達成に向けての、必要な最初の二三步のひとつが、男の凸性の自己否定、がんばって自己凹化を達成することだと思われるが、

(分かりやすい例でいうと、ストーカー殺人、強姦、幼女性虐待などがなくなること。)

凹化ということは、この文字の形を見ても分かるとおり、広い、感度の良い、感受面が自己上に形成されることである。単一存在(と見える)オブジェクトへの、突進性がなくなること。たとえば、あらゆる(最広義の)メディアに批判的相対的に接しられるようになること。

ナショナリズムなどの宗教と、その盲信はなくなる。

そして今度は、同じ記事上のbad氏のコメントであるが:

> 個体、他者不在、コミュニケーションの問題、とかは
> 論理の問題というより、ある種生まれつきというか、
> 直感で分かってないとアレではないか?

ここで私が正しいと思うのは、「直感で分かってないと」という部分だ。感性が、論理をコントロールしたりしなかったりする。その逆ではない。残念ながら。…当然ながら、と言うべきかな。

あの、核ミサイル立てこもりオトコを懐柔するのも、広範な凹型努力の積み重ねしか、ないのではないか。アメリカ政権の上部が凸型オトコばっかしなら、とてもやばいことになりかねない。

やや関係するけど、EU離脱を主唱したイギリスの政治家やカタルーニャ独立をわめく人びとは、どうしてみな、あんなにバカ面(づら)なのか。

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凹化のためのオクスリとしては、T-REXなんかのグラム系ロックの音が、人によってはよく効くと思うのだが…。

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2017年10月 4日 (水)

ごみの山にすぎないディスクール

人気沸騰中のQ&AサイトQuoraで、各国の義務教育の主要科目にコミュニケーションがあるか、きいてみた。

Does your country have major courses on Communication and/or Relation Building in its compulsory education subjects? Japan does not have it unfortunately. 訳: あなたの国では義務教育の主要科目にコミュニケーションや関係構築があるか? 残念ながら日本にはない。

完全にirrelevantなアンサー。しかも唯一のアンサー:

Check out the Toastmasters Clubs in Japan. They specialize in communication and leadership. They hold meetings in both Japanese and English. Google them to find a meeting that will match your schedule.
大人向けのリーダーシップ育成講座?

Quoraにしては珍しくアンサーがひとつしかなく、しかもそれは、まったく見当はずれの回答である。もうこの質問自体、大量の新しい質問の下に埋もれてしまっていて、これ以上待ってアンサーが来る期待は持てない。

さて、上は、義務教育におけるコミュニケーション教科の有無だが、場所をもっとでかくして、全世界の全思想史(ただし影響力が大きかったメジャーなやつ、有力宗教の教義も含む)、としよう。そしてテーマをやや広げて、他者、複数性、関係性、コミュニケーション、としよう。

その思想の重要な考察(〜〜執筆)テーマとして、上記のテーマがあった思想家、コミュニケーションのあり方について人びとに強い大きな影響をもたらした、あるいはもたらそうとした、思想家は、いただろうか? わりと書物等の公刊点数の多い西欧哲学の人たちも含め、そんな人は一人もいない。

そこで、今日までの人類の全思想史は、その全体が、ごみである(見てのとおり、たいへん有害なごみも多い)。どこかにまとめて山積みにして、焼却した方がよい。

(このブログのコメンターの中にも、その焼却物に加わるのがふさわしい者が、いるかもしれない。今後のその人たちの、言動にもよるが。)

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2017年9月18日 (月)

小説という言語表現物

私は小説というものが好きでないし、自分が小説を好きでないこと自体に対しても、さほど関心がないのだけど、このブログの前回で他者不在==自家化という視点を示したので、その視点の補足として取り上げる意味があるかもしれない。

小説は、言葉の自家化の典型的な営みのひとつであるが、しかも同一のテクストが、ある種の病原菌のように複数者に広まり、かつ、その複数者の各個の孤散の状態は、小説がある前と、あるときと、あったあとで、まったく変わらない。小説は、言葉の孤独な消費、孤独な自家化営為、言葉の自慰行為である。

したがって小説というディスクール・エコシステムは、その総体が、コミュニケーションにとって犯罪的である。ものによっては(人数的に)相当大規模なエコシステムでありながら、どんなに大きくても小さくても、そこにはコミュニケーションがゼロである。

そこに100%あるものは、脳天気な自家化のオンパレード。“言葉の自慰的大ドラッグ・パーティー”と書きたいところだが、パーティーにはコミュニケーションのコの字ぐらいはあるので、パーティーという語は、小説という汚穢な社会現象&&言語現象を言い表すのにはふさわしくない。

それは完全に無コミュニケーションで、コミュニケーションの“幻想”やそれに向けてのメッセージ性、アジテーションすらないから、小説はロック音楽などに代表される現代アートの仲間入りをすることがない。

恣意的な自家化が(恣意的でない自家化は言語矛盾だが)、作者→登場人物→読者という階層の上で拡散増幅する。それで、みんな、大満足している。おのれの為した自家化に。なんたる不衛生な消費者現象!!

小説という、不真面目な、不真剣な、言語使用形態を抹殺しよう。神の自家化(宗教)が、唯一絶対神の複数化という、むちゃくちゃな論理状態を招来するように、言語の自家化は長年の人類の孤散状態を放置し、肯定する。言語の自家化という犯罪的行為は、孤独な、そして矮小な、孤散した自己満足の集まりだけを作り出す。

小説家を、自治体の長など、重要な政治家にしてはならない。もう遅いが。

ノーベル文学賞は廃止し、21世紀とその後の世界にふさわしい、「孤散的自慰的==自家化的アートを破壊する新しい形式のアートや表現や議論に与える賞」を新設せよ。ノーベルの意図が、より良き人類の未来にあるのなら。…これはあくまでも、暗喩的説明的パラグラフにすぎないが。

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2017年9月11日 (月)

他者不在とは何か

他者不在は、このコミュニケーション学/コミュニケーション理論の(おそらく人類初の)試行的スケッチにおける、最重要な概念のひとつだ。

この言葉を見て、なんだこりゃ?と思う人も多い、と思うから、ちょっと解説しておこう。

他者不在とは、人間の認識構造の中に他者がないことである。

何千年何万年にわたって、コミュニケーション不能を基本資質としてきた人類は、本当はコミュニケーション努力をすべき他者を、何でもかんでも「自家化」してきた。

神(絶対者、超越者)も宇宙も自然も、動物も植物も、そこらの他人も、そして自分自身も。

たとえば神を自家化する行為が宗教である。宗教は往々にして最上位の支配的規律だから、宗教は他者不在構造のトップに位置する。神は唯一絶対神であるはずなのに、宗教の数だけ神がいて、しかもそれら(==複数神)がすべて、各宗教の信者にとっては唯一絶対神だから、ここにはものすごい論理的錯誤(ルビ:むちゃくちゃ)があり、しかも彼らはそのことに気づかない。

みんな唯一絶対神を仰ぐわけだから、みんな仲良くすればよいのに、宗教を異(こと)にする共同体同士は、喧嘩(戦争)ばかりしている。宗教は神という他者への大々々失礼だから、早急に全廃すべきである。

他者不在はその唯一の他者を他者として認めることができず、複数の自家化された「元他者」を作り出す。

宇宙は他者としてリスペクトされていないから、今人類はそこをゴミ屋敷にしつつあるし、他の惑星などを平気で勝手に自分のコロニー(植民地)にする気だ。

一部の珍しい動物が自家化されたものを、動物園と呼ぶ。動物園は明らかに動物虐待だから、絶対に廃止すべきである。

他者の自家化は、いちばん分かりやすい例が、子どもの進路を自分で決めてしまう教育パパママだが、そんな“他者を勝手に操作する”の例は、家庭、学校、会社など至るところにたくさんありすぎる。独裁者〜独裁政権は、自家化に逆らう他人を排除拘束抹殺してきた、いや、している。

自然の自家化は、自然という他者からの厳しい復讐を受けることが多い。アフリカという、何万年もの人類居住の歴史があるところに、なんで今頃急に、おかしなウィルス病が発生蔓延してきたのかというと、その原因は某大国による原始林等の大規模乱開発だ。先祖伝来、荒らすことを禁じられていた原始林の資源略奪は、貨幣制度の強力な支配によって生じた、原住民たちのやむを得ない行為だった可能性もある。

他者不在の起源は、コミュニケーションという意思や努力のないところでは、他者は単なる恐怖と不安のかたまりだから、それらを大急ぎで自家化してしまうのである。

そして、偽り(いつわり)の安心(あんじん)を手に入れて、気持ちが落ち着く。他者は、永遠に疎外されっぱなしになる。

そして他人〜他共同体とは、互いに相手とのコミュニケーションではなく、有価財(のちの貨幣)の等価交換で関係の安定を維持しようとする。

このノン・コミュニケーション状況が、今や全世界全人類を支配しつつある。それこそが、テロをはじめ新しいタイプの犯罪の温床だ。

(この稿、今後更新あり)

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2017年8月27日 (日)

存在という貧困な誤謬、動物番組よ死ね

「存在」というものはない、あるのはさまざまな「関係性」のみだ、ということは私はかなり前から言って(書いて)いるけど、まだまだそれは世界の常識になっていない。むしろ至るところで、錯覚と誤謬の「存在」、その頑(かたく)なな、虚しい、強硬な頑張りが見られる。私は3歳で運良く戦場(不正な被植民国)から帰還したが、今や毎日のように多量の子どもたちが殺され、女性が虐待されている。存在の固着、同士の衝突。単純にいうと、馬鹿。

関係性は、固着したらそれは存在(==誤謬、錯覚)になってしまうので、真の関係性は、時間という流れる体液を必要とする。その体液は生成という名の変化をつねに誘発する。関係性は、関係性という存在ではなく、それ自身も関係性にさらされている。だから、トランプと彼の支持者は間違っているだけでなく、アメリカ自身を死に追いやりつつある。関係性のその動態性の拒否によって。アメリカの存在視、という誤謬。

よく知られているように、Steve Jobsはシリア移民の子である。

私はテレビの動物番組(飼養動物、野生動物両方)が大嫌いで、番組に対し殺意すら感じるのは、動物をていよく存在視しているからだ。すなわち、自由勝手に見物できるオブジェクトである。そこが、腹立つ。

すべての動物番組は、間違った動物観を広める。

大量の金と機材と人と時間を投ずるのだから、動物とのあいだに、なにかリアルな関係性を築けるだろうが。ただ見物する(==撮影する)だけでなく。良い「仲」を築くためにリソースを投じてみろ。そしたら、たまに見てやってもいいや。言い換えると、他者とのあいだで、『本物の苦労』をしろ。この、くそったれども!!


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