2018年8月17日 (金)

ネットワークの間違った使い方

この前述べた、たとえば予定されている学校行事の実行を盲目的に優先して低学年児童を熱中症で死なせてしまう校長==旧日本軍的オトコと、家の裏山に一人でさっさと登って迷子の子を発見した高齢者ボランティアとの大きな違いは、後者が、人間というものに対する肉感的直観を持っていて、それを判断の最上位材料にしたことだ。一方殺人校長には、人間に対する人間的直観というものが、皆無だ。毎日、学校の無難な運営しか、頭にない。子どもという人間を、人間として見たり感じたりしない。人間への関心ゼロの人が、学校の校長に平気でなったりする国。

で、私もこの際、次世代ないし次々世代の、もっと頭も感性も優秀な人たちの参考のために書いておこうかと思うけど、今のインターネットの主流的な使い方、すなわちクライアントサーバーシステムという方式は、オープンでグローバルなネットワークの使い方としては絶対的に間違いである。

クライアントサーバーシステム(CSSと略そう)は、本来、企業とかお役所とか、大学などの学校などでローカルに使われるべきネットワーキング方式です。インターネット自体が、また、そうなんやけど、これはまた別の話題。

ローカルというのは、物理的にも人的にも特定狭域です。外部からアクセスがないし、外部へアクセスしない。サーバーが各端末に提供するアプリケーションは、その会社の仕事だけをする。社員しか使わないし、機械は社内にしかない。

それをそのまま、一挙にグローバル化してしまったから、今となって問題が噴出している。

次世紀の笑いものになるであろうFacebookなんか、ウン億のユーザーにウン百万台のサーバーが対応して、問題を増幅的に再生産している。ローカルでなくてグローバル&オープンだから、まともなコントロールはできない。

グローバルでオープンなネットワークは、サーバーにいっさい頼らずに、自分たち同士で必要なコミュニケーションを行なうネットワークでなければならない。一例を挙げればメール(と呼ばれる非同期メッセージング)、メールサーバーというものをなくして、私なら私が直接、AさんならAさんへメールを送ればよろしい。

検索と呼ばれる情報探しも、Googleのような巨大サーバーに頼らずに、文字通りネットワーキングな質問伝搬が可能だ。完全分散化検索、である。

もう一度繰り返せば、グローバルでオープンなネットワークを、CSSで利用するのは大きな間違いである。

もちろんVPNなどの工夫で、そのごく一部を閉じた狭域的に使って、CSSをやるのはいっこうに構わない。

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このブログだって、サーバーなしで分散的である方が、いいよね。

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2018年7月29日 (日)

不登校、学校教育と世界の現実とのズレのひどさ

bad氏:
> 日本社会の変わんなさて、半端ないわ。
初期の■患者のように、外側だけ見ると変化がないように見える。しかし内部では魂の枯死と腐食が進行している。

要は、要積極対応世界の広さとその要素の多様性が、桁違いに大きくなっていることに対し、今、多くの日本人は“自己鎖国”という対応を選んでいる。

つまり、いちばん楽な対応。「勉強しない」、勉強しないから理解もシンパシーも持たない(シンパシー≠同情)。もっと楽な、「勉強せずに否定する」も多くがある。ないもの、無価値なものにしちまえば、ないものには関心も勉強義務も発生しない。

日本には大馬鹿帝国トランプニアもないし、BrexitもAfDもFNもないから、一見まともに見えるかもしれないが、自己鎖国は実質的にそれと同じことで、彼らがけったいな人たちを政治家に選出している。

自己鎖国は、大きな市場、大きなビジネス機会にもなっている。例:最近のベストセラー書籍の顔ぶれを見よ。

でももちろん、桁違いに大きな市場機会は、広い世界とそれを構成する(鎖国者にとっては許しがたい)多様性だ。鎖国はいずれ敗(やぶ)れるに決まっているが、それまでの過程で要らざる摩擦をたくさん生む。政治家が馬鹿な国ほど、摩擦も激しい。

今の日本の学校教育が旧日本軍的でだめ(非人間的で無能)なら、自己のための自己流グローバル教育でもよい。世界の広さ深さ多様さを、楽しみ驚きつつ勉強していこう。先進国では、どうしても、不登校、登校拒否が多くなってしまうのだ。


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2018年7月22日 (日)

貨幣保有/取得に格差があるのではなく、貨幣(の命!)は格差なのだ

Joi Ito(伊藤穰一)という人は、昔から‘良い人’なんだ、と思うけれども、でも、その、99%良いところが、残る1%の欠陥によって、かなりのすかすか感を持ってしまう。基本所得の普遍化(UBI, Universal Basic Income)に関する彼の議論も、99%までとても良い論考だとは思うけど、やっぱ、貨幣というやつのいやらしさ、怪物性、魔性(!)を、看過してるのではないかな。こういう人たちはみんな、貨幣を肯定〜温存しつつ、なんとかしようとする。なんとかなるんか?

コミュニケーションというレベルおける、貨幣の本質…他者不在…を、もっと多くの人たちが自覚・理解しないと、議論は次のステージへと移行できない。

インターネットというコミュニケーションツールの分野にいる人たちでも、今ではその99.9999...%の人たちが、コミュニケーションというレベルでものを考えてない。※:

※: 貨幣をめぐるさまざまなコミュニケーションがある、のではなくて、貨幣および基本的貨幣トランザクションそのものが、人間という動物の、コミュニケーションのひとつの形です。非常にネガティブで劣悪過酷な。

そこが、Joiさんなどの、とてもはがゆい、かったるい部分だ。

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2018年6月23日 (土)

教育委員会に建造物コンプライアンスのエキスパートはいない

誰に・どこに頼むという慣例もない。コンプライアンス・チェックがまず必要との認識もない。一般的な印象としては教育委員会や児童相談所(やその他)は、なにもしない、なにもできない税金泥棒たちのたむろ場である。ではなぜ学校は、問題を教委に渡すのか。単に慣例(暗黙のコンプライアンス!)だからであり、必然的な論理性は何もない。つまり、学校もまた、なにもしない派の仲間だ。「教委は無能団体だから自分で専門家を探して頼む」が、唯一の正解だったはずだ。

なあなあ主義の無為をデフォルトのルールとする、おっさん文化が支配する日本の将来は、やばい。実際、専門家の過去の忠告は完全に無視されている。

本来なら、建造時の最初の最初にやることが、コンプライアンス・チェックだったはずなのに、学校はそれをさぼった。それが、すべての始まり。

日本のおじさん族は、論理が嫌いだ。彼らが好きなのは、閉所的排他的な共同体的恣意性のみ。


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2018年6月11日 (月)

コミュニケーション論の骨子…「他者不在」、人間のレベルでそれは「貨幣関係」

このブログや、その先駆的エッセイ集で展開されているコミュニケーション理論のいちばん中核的な概念が「他者不在」です。それは、ヒトのアタマやココロの中で、他者がきちんと他者として認識確立されてない状態を指します。他者がいなければ、他者とのコミュニケーションもありえません。この不在状況は、今日まで何万年何十万年も続いています。

他者不在の分かりやすい(と思われる)例として、ここではよく動物園を挙げるのですが、確かに動物園は、人間による動物の一方的拉致です。人類がコミュニケーション有能な生き物となった未来においては、動物園は廃止されているでしょう。

他者不在は人間の社会と生活の(そして学問や産業の)あらゆる局面にありますが、中でもいちばん強力でおそろしい他者不在が宗教です。宗教は絶対者/超越者という観念的存在(他者)を、各共同体などが恣意的に解釈した、その解釈の体系です。宗教は、神の動物園です。恣意的解釈なのにでも神は神(絶対者)だから、一つしかないはずの神がほか(他宗教)にもいろいろあることは矛盾しており、許されません。そこでよく宗教は、大量人殺しの動機になります。

人間はすべからく、宗教を取(と)っ払(ぱら)って、ただの人同士になることがコミュニケーション有能化への前提として重要です。

また人間同士の普遍的な他者不在関係が、貨幣(お金)のやり取りです。その関係においては、目の前の人間が人間ではなく、貨幣という価値交換ネットワークの個々のノード(節)になってしまいます。しかも貨幣の価値は「持てる/持たざる」の格差ですから、その構造の最下部に大量の貧困層/限界層を必要とします。貨幣社会は、永遠に過酷な格差社会です。

お金の所有差や収入差のない無格差社会を想像してみてください。そこでは、お金はお金としての価値を持ちません。そんなものは、空気や(日本などにおける)水と一緒で、交換財になりえない。貨幣が価値を持つのは、それがありがたい(有り難い)もの、なかなか得られないもの、すなわち希少性==格差性を持つからです。

今、何百万人という規模に達してしまった難民たちへの国連などによる配給努力や、各地の無名なボランティア努力などは、目の前の人間が「金を持ってるか」という他者不在的認識ではなく、人間そのものとして、どんな状況…助けを必要とする状況…を抱えているかに基づいて、食糧や医療などベーシックな資源の分配をしている。日本も、減反後の広大な不使用農地を、これ以上荒廃させない努力が必要ではないか。

農業は自然という巨大な他者とのつきあいだから、貨幣価値というファインダーの中に見えるものがすべて、という典型的な他者不在の視点は危険だ。…たとえば、災害に弱い地域社会作ってしまう。


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2018年6月 7日 (木)

テレビの古さを痛感

テレビに、6チャンネルだったと思うが、「プレバト」という技能競争番組がある。プレはプレイ、バトはバトルだろう。ヒトがヒトに優劣をつけること自体かったるいので、ほとんど見ないが、今日はご飯を食べながら一瞬見る機会があった。

今日は競争種目の中に、俳句などと並んで「料理の盛り付け」があった。その審判は、あの親の七光がすべての無能料理人、YD氏である。で、彼が一等賞をあげたのが某嬢の「かつおのたたき」なのであるが、それは全然、「かつおのたたき」になっていない。

だいたい、本当に有能な人は、親への本質的な批判からスタートする。親の七光の外へ脱出しようとする。プロ野球選手でも、親がスター級の名選手だったやつはみなだめだ。親とは別方向へ進もうとしなかったからだ。

※: 先代の愚行愚考の批判否定が進化のバネ。日本の不戦憲法もその実装と運用が適切で積極性があれば、本当に人類の進化に貢献しうるだろう。

えーと、それで、その一等賞を得た「かつおのたたき」は、表面をあぶったかつおを刺し身サイズにスライスした柵の形のままを皿に盛り、千切り野菜をわきに添えてある。盛り付けとしては、シンプルですっきりしている。が、ぜんぜん美味しそうでない。

しかし、本物の「かつおのたたき」は、かつおを叩くからたたきと言うのである。あぶったかつおを刺し身サイズに切るが、それらを平らに崩して大きな皿に敷きつめる。その上に、ねぎ、青じそ、みょうがなどの香味野菜の千切りをばらまき、かつおを覆い、その上に橙(だいだい)酢をしぼり、(今ならレモン酢など)、包丁の脇腹でぺたぺたと叩く。もっとも原始の調味料である酢と、香味野菜の香味を、魚肉に浸透させる。それを、野菜もろとも、にんにく醤油で食す。にんにくスライスを最初の香味野菜の仲間にするやり方もある。

そもそもテレビは、今や古い、一方通行のメディアなので、「それはたたきやないでぇ」とコメントすることができない。新しいおいしい食べ方、というわけでもない。

日本の食べ物は、ローカルをローカルに食すにかぎる。それがいちばん、唯一、美味。

土佐高知というローカル他者を忘れて、えらそうに、かつおのたたきはないだろう。

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2018年4月23日 (月)

言葉の民主化(という一見陳腐な話題)

新聞など一般的庶民的メディアでも最近はますます、本来そのコト/モノを指す日本語(とくに漢語、漢字熟語)はあるのに、もしくは“作れる”のに、「平仮名英語」を使う例が圧倒的に多い。

創業者→ファウンダー、完全菜食主義(者)→ヴィーガン、主題→テーマ、箱入り袋→バッグ・イン・ボックス、無料旅程→フリープラン、…、これらは文字通り、枚挙にいとまがない→エンドレス。

電子計算機→コンピューターのように、日本語の方が死語になりつつあるものも、少なくない。

そこでひらめいたのは、日本国内でグローバルな言葉であるところの漢語、漢字熟語、ないし、いわゆる標準語は、われわれの言葉ではなくて「官」の言葉だったのではないか?

学校教育も、官の言葉を官の言葉として習う機会にすぎない。

だから今の一般的な文章の中では、「創業者」は官的に硬いから使いたくない。ファウンダーの方が軽くて親しみがありポップだ、つまり、ファウンダーの方は、われわれの言葉、すなわち民主化された言葉だ。

アメリカ人にとっての英語にも、少し昔の(主に西海岸の)ヒッピー全盛期のころに生まれた新言語文化を源泉とするところの、(最近ではテクノロジー界隈も源泉のひとつ)、新スラング的言語系があるが、それは別の機会に。

ちなみに、technologyは、「技術」という日本語で収まる場合と、だめな場合がある。

いわゆる和製英語は、英語ではないから完全に誤称misnomerだけど、やはり日本人による、言葉民主化努力の産物だ、と感じる。

一昔二昔前の「われわれの言葉」、それは各ローカル共同体の庶民の方言だ。それしかない。しかし、でありながら言語民主化努力の中でポピュラーになった方言は、けっこう多い(中でも関西弁〜大阪弁の語彙)。最近の例は北海道方言?「そだねー」、果たして定着するか。

こんなことを考えるきっかけになった、アン・クレシーニさんのKindle本テレビ出演ブログを、おすすめしたい。

この、“大学准教授”の方は、場合によっては本物の英語より和製英語の方が良い、とまで言っている。

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2018年4月16日 (月)

世界一訳詞が難しい歌詞

We skipped the light fandango
軽い曲になったので休んだ
Turned cartwheels 'cross the floor
給仕のカートを部屋の向こうへ転がした
I was feeling kinda seasick
これは船酔いか?
But the crowd called out for more
もっとやれとみんなが騒いだ
The room was humming harder
前よりも騒々しい部屋になってきた
As the ceiling flew away
天井が上の方へ抜けたんだ
When we called out for another drink
もう一杯頼んだら
The waiter brought a tray
ウェイターは空のお盆を持ってきた

このへんは、まだまし。でも、全体の文脈の中では、ここもすでに難しい。全体は、高度な象徴詩で、ふつうの意味での意味はない。だが、「個」というものに関し巨大ピラミッド級の確立と孤独を教える。地球にいながら、自分が別の天体であるかのような違和感。ある英語のサイトが、「これは、この直後に沈没が始まる、タイタニック号の上の最後の夜のダンスパーティーをうたった歌詞だ」、という独創的で奇抜なヒントをくれたので、やや、訳せる気になった※。

※: 上の部分では、すでに床(ゆか)が傾いているようでもある。本人は自分の船酔いだと思ってる。

ひまな人は、このページと、ここからのすべてのリンク先を読んでみよう。

YouTube上には、“現在の”Gary Brookerが歌ってるビデオがある。今の方が、パワフル。


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科学技術と自然との健康的な接点を探そう

科学は一種の全体主義である。

全体主義的な思考の背後には一種の科学がある。

多様なローカリティ(他者性)の集合体である真存在にとって、科学は、当てはまらない場合や害悪である場合が少なくない。

科学は、真存在の肉体から、あらかじめコミュニケーションという血液をすべて抜きっとってもぬけの殻にした状態に対し、執行される。いわば死体群の防腐液漬けのようにして。

里山の防災機能は村落社会の一般的普遍的認識ではなかったと思われるが、たとえば私の住む住宅地の近くの農村部には一箇所だけ、落葉広葉樹を主体とする伝統的里山と、さらに家の背後にいちばん近い部分(いわゆる裏庭の先)を竹やぶのままにしてあるところがある。防災を意図したのか、あるいは針葉樹林による日照の妨害を嫌ったのか、動機はよく分からない(当主はとっくに故人だろう)が、当時の、無差別悉皆植林を勧奨する愚かな行政指導に従わなかった人も、皆無ではなかったのだ。

しかし99%の村民が植林に励み、里山をなくしてしまったのは、経済動機ゆえである。今でも、将来、檜がゼニになると信じている人は、植林林地の里山化を受け入れない。

みんな、林業なんて、分かってない。林業をまじめに実践する気もない。農家の資本回転は短い。春に田植えをすれば、同じ年の秋にはリターンがある。林業は、そうは行かない。林業は難しい。安定収入の保証もない。

しかしなにしろ、こないだまで里山だった裏山を檜の苗びっしりにして、あとは知らん顔で、そんなものが将来ゼニになるはずがない。

しかし一方、里山の古典的経済価値(薪や炭の燃料用、家畜の餌の草、堆肥の原料となる落ち葉、など)は、化学肥料や農薬、石油系燃料など科学技術の産物に押されて、消えてしまった。

今や経済価値がなくなった里山に、将来ゼニになるかもしれない檜苗を植えることは賢明な農業経営である、と誰もが思う。

しかしながら、まじめにプロフェッショナルに林業※しなかった檜が、売れる材になるはずがない。檜の不健康な密集放置林は、さまざまな害をもたらし、最悪の致命的な害が崩土である。ほとんどの場合、人や家畜の命を奪う。

※: 本格的なプロフェッショナルな林業は、里山でやるべきものではない。道路その他の設備の整った奥山でやるべきもん。

だが、その害を巨額な貨幣の負として明示的に計算できる人は、残念ながら昔も今も少ない。崩土で若い妊婦が死んだって、損害額ゼロ円だ!!! わかりやすい、表面的実物的な貨幣…すなわち金(かね)…しか、貨幣価値として認識しない人が多い。

そんな愚の典型として、ここの宅地造成は山を削った斜面の上っ面をコンクリートで固めるという愚かな工事をしてあるのだが、去年の長雨でついに崩落を起こした。コンクリートが大面積で割れ外れて、斜面から落下した。

科学技術の実践は、どんなに大規模でも、試験管の中の隔離された現象だ。そして隔離は完璧ではありえないから、大自然や人の命との対話現象が起きる。試験管の破損による化学物質等の遺漏、不要物の廃棄による自然環境の汚染、などなど、しょせん、完全かつ永遠の隔離はありえない。自然との対話関係のない科学技術は、ありえない。

永遠の隔離がある、との愚かで傲慢な錯覚により、地震津波常襲地帯の海岸に原発を作る。土俵に女は乗れない、というオトコの錯覚。日本は最終的に神風が吹いて戦争に勝つ、というオトコの確信。他者不在は、全地球サイズ、全宇宙サイズの永続する悲惨である。

根張り(ねばり)の強力な本来の里山の樹種なら、崩土は防げたとしても、それを取り戻すには2〜3年、10〜20年では足りない。複数世代にわたる、自然への肯定的な関心の維持が必要だ。

そして、日本の農村から醜い檜の放置林が消え、再び美しい農村を取り戻すだろう。そのとき、できれば再び幼児に戻り、親にきのこ狩りにまた連れてってもらいたい。

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2018年4月 1日 (日)

古典文学という他者

他者不在の頻出する心象のひとつに、「他者のことを分かってるつもり」がある。ここで取り上げるのは、動物園の消費対象ではなく、現地で研究対象にされた(どっちも同じようなものだが!)アフリカの野生のゴリラでもなく、1000年以上前の日本人だ。

わび人のわきて立ち寄る木のもとはたのむかげなくもみぢ散りけり 僧正遍照

これは、9世紀か10世紀、つまり1000年以上前の日本語だ(古今和歌集)。インターネットで調べると、30分も経たないうちに三種の解釈に出会う:


  1. 早逝したナントカ親王を追悼するうた

  2. 独居老人が孤独と寂寥を訴えるうた

  3. 色恋の儚さ移ろいやすさを嘆くうた

どれも、その世界の専門家らしき人の解釈だ。

しかし、作者の真意を知る方法はない。インターネット上の、降霊術でもないかぎり。

そもそも、たとえばこの私は、今の日本語の「わびさび」とか「わび住まい」とか「わびしい」などに登場する“わび”と、上の和歌の冒頭の“わび”との、意味やニュアンスの違いを知らない。というより、今の日本語の“わび”の意味すら、正確には知らない。

わからない、を、率直に認めることが、他者への礼儀ではないか。そしてその後、対話や会話が可能ならすればよい。自分の勝手な解釈で最初から決めつけるのは、たいへんな失礼である。

上の“わび”の例は、この和歌におそらく何十も何百もあるであろう‘分からない’の、ほんの一例にすぎない。解釈者は、自分の単一の解釈を主張するのではなく、多様な、‘ありうる解釈’を挙げて、おもしろい読み物を書く心意気が必要だ。他者は他者である。わかったつもりになるのは、失礼である。それはまさに、他者不在である。

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