2017年5月21日 (日)

機械翻訳と人間翻訳

12世紀か13世紀に建てられて、今は地域社会の公民館のように利用されている、ロンドン西部郊外の教会St Mary's Perivaleに関する英語Wikipediaの記述の一節に、こんな文がある:

The church is built of rag-stone and flint, and its tower is unusual, being clad in white weatherboarding.

これをGoogle翻訳は、こんな日本語に訳す:

教会はぼろ石とフリントで建てられていて、その塔は白い天気予報で覆われていて珍しいです。

ちなみにMicrosoft Bingの翻訳は、こう訳す:

教会はぼろ石とフリントの構築され、その塔は、白い雨戸に覆われて、珍しいです。

人間(私)が、あちこち調べて苦労しながら訳すと、こうなる:

この教会は砂岩と燧石(すいせき)で作られていて、塔は白い下見板で覆われていて珍しい。

今回私が初めて知った日本語(建築専門用語)は「下見板」だ。「下見張り」とも言うらしい。これは、横方向に張った板の下(下辺)が見えるから下見と言うらしいけど、私たちふつうの日本人が「羽目板(はめいた)」と呼んでるものと同じだ(下図)。

Images_2

だから上の「塔は白い下見板で覆われていて」は「塔は白い羽目板張りで」でもよいだろう。

翻訳は、人間がやっても永遠に難しい作業だから、コンピューター技術にとってはなおさらだ。でも機械翻訳は、日常的なありふれた短い文なら、だいたい役に立つね。今回は、建築の専門語が多すぎたのだ。


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2017年5月16日 (火)

自業自得の大規模被害

いろいろ書いてると多すぎて面倒なので、読者は「一を聞いて百も千も知って」ほしいのですけど、Facebookというインターネットサービスはユーザー数が数億という巨怪サイトで(ゆえに巨額な広告収入)あるため、ニュースの頻度も多い。

だが、まず、
これぐらいのネットワーキング機能が、なぜ特定のアカノタニンの巨大サーバーに依存しなきゃできんのか?
という根本的問題もある。

この根本的な問題に迫るために、最近のFacebookニュースを取り上げてみよう。最近の同サイトの新機能を知らせるニュースとして:

Facebook上の「グループ」という機能…同好の士が集まって議論や情報交換をする場だ…に、“グループの管理者が参加希望者に質問をしてその答によって参加の可否を決める”、という機能が新たに付加された。

問題は、なんでそんな機能を、Facebook様が作って提供するまではできないのか?

という点だ。コンピューターやネットワークの機能は、人様の迷惑にならないかぎり、ユーザーが自分で自由に設定できるべきだ。

今のコンピューターやインターネットを自動車にたとえると、「自動車はつねにタクシーやハイヤーなどのサービスを利用して使わなければならない」状態と同じだ。自分で運転できない。Facebookは、巨大ハイヤー会社の一つだ。

そして、今回の、ランサム・ウェア問題だ。今は人間の99.99999%まで、コンピューターやインターネットに関する自主性が育っていない。ハイヤーとタクシーに依存するのなら、自己に運転技術は要らない。

すべてのコンピューターユーザーは自主性を持つべき、お粗末で危険なWindowsを捨ててLinuxに乗り換えよう、という運動があった。「日経Linux」誌などの上で今でも細々とある。私も啓蒙の一環として「Linuxの哲学」という本を書いたことがある(2002年、ソフトバンク社)。

だが、誰も自主性を持とうとしない。ネット犯罪者にとって、今のコンピューターユーザーは、“赤子の手をひねるように”、犯行がらくちんだ。しかも、自主性を持たないコンピューターユーザーは、Facebookのユーザー数以上に膨大な数だ。

今回の件に関しては、Microsoftは、「3月にパッチを公開した」ことを、免罪符とするつもりのようだ。あとは、そのパッチをあてなかったユーザーが悪いのだ、と。

しかし、今日の無自主性のユーザーにそれを求めるのは、無理であり無意味である。Microsoftの態度は、ゆえに、不誠実である。

インターネットもパーソナルコンピューターも、現状は、「超初期的原始時代」と言うしかない。ひどすぎる。お粗末すぎる。

次の「超初期的古代」ぐらいにおいては、“インターネットは自分のサーバーから使う”が常識化していてほしい。Facebookのような巨怪な恐竜は、そのとき、完全に絶滅しているだろう

「Linuxの哲学」で、せめて1年ぐらいは食いたかったが、実際には、1か月も食えない程度の収入しか得られなかった。赤子の手をひねるような大規模ネット〜コンピューター犯罪は、今後もますます頻発するだろう。しょうがないね。

個人だけでなく企業ですら、社員のコンピューター利用教育、そのイロハのイを教えていない。という悲惨な現状。

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2017年4月30日 (日)

宇宙での他者不在は超弩級に危険

この話も過去に何度も書いたけど、未だに一般世間が相手にしてくれないし、また最近、宇宙ニュース界隈で(まったく無進歩愚鈍状態で)蒸し返されているようなので、書いておこう。

そもそも、地球と呼ばれる惑星上の生物/生命って、ものすご特殊なもんやん。存在するための必要条件が。そして、その必要条件の上での構造や機構(仕組み、はたらき)が。複雑怪奇、という言葉がふさわしい。ウィルスやバクテリアのようなもんですら。

※: 雑談: 今住んでるところの上水道の原水は利根川の水である。上水施設が行う殺菌処理によって、水藻の微細な胞子は死なないらしく、炭素などで水を濾過する浄水器の中ですら、その壁にやがてグリーンが広がってくる。犬の水容器の中の藻なんて、もう何年も生きている。冬にも夏にも耐えて。

なんで、同じような特殊なもんが、よそにもおる、と考えなあかんのか。むしろ、地球上とはまったく違う必要条件〜環境をベースとして生きておる者が宇宙各地に複数種類存在する、と考えた方が、無理がない。

どこそこに水蒸気(〜水)の痕跡が検出されたので生物がいる可能性がある、なんて、典型的な他者不在の見方考え方は、いいかげん、「愚」かつ「恥」と自覚してほしい。

この話と大いに関係するが、「火星を人類の植民地にする」は断じてやめてほしい。火星みたいな近場だって、どんなイキモノがおるか、おらんか、分かりませんで。

それとも今度のテロは、宇宙人の来襲か?!

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2017年4月25日 (火)

オリンピック考

オリンピックという(建前上)グローバルなお祭りは、しばらく、無期停止にしてはどうか?

なんとなくその前提となっているような“世界はひとつ”というコンセプトが、今や、非常に露骨に欺瞞だからだ。

彼ら自身自分が何を信じ何を言っているのか分からないようなテロリズムや、むちゃくちゃひどい女性虐待小児虐待や、むちゃくちゃひどい貧困や飢餓などが、もうちょい、ゆるやかな、おだやかな状態にまで治癒するまで、停止した方がよい。

そして、今あえて敢行するオリンピックのような欺瞞に向けてではなく、上記のような目標に向けてグローバルに努力していく。オリンピックに向けてではなく、そっちに多くの人の意思が向かうようなグローバルコンセンサスを広げ、浸透させていく。

そして、もう欺瞞ではないだろう、と言える世界状態になったら、再開するのはどうか?

それをやんないと、ますますオリンピック自身が、それら負の世界状態に侵食されていく危険性を感じてしまう。

そんな、オリンピックの白々しさは、すでにリオあたりからあったのではないか。確実に、顕在的に。

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2017年4月17日 (月)

スマホのない空間

さっき7chan(昔の12chan)で、高円寺で一人きりのはしご酒で徹底的に飲むことが癒やしであり息抜きである、というアメリカ人が出ていた。昔はAppleの社員だったが、週の労働時間80〜100時間では自分の時間がまったくない、と言っていた。(日本に住んでるのではなく、はるばるアメリカから高円寺に浸るために来日する人だ。)

私は昔、中央線沿線に住んでたし、高円寺では買い物や飲み食いのほかに仕事もしたから、中央線でベストの場所は高円寺だ、と明言できる。町も人間もわりと自然体なところ、緊張や無理のないところが良い。吉祥寺なんて、最悪である(さつま揚げ屋さんと味噌屋さん以外は)。

その元Apple社員のアメリカ人のはしごぶりを見ていて気がついたのは、どの店のどのカウンターやテーブル席にいても、スマホを取り出す、いじる、光景がゼロのこと。

「今」「ここ」そして「ここの人びと」に、完全に浸るためには、スマホは、「今ここ」に対する失礼に相当する。これまた、他者不在の典型である。今のスマートフォン等は、コミュニケーションのためにあるのではなく、見ていると明らかに、『コミュニケーションから逃げるため』にある。昔のウォークマンがそうであったように。

ダメ人間、バカ人間、コミュニケーション忌避人間を量産している。

Appleを逃げ出したその人の将来はどうなるか。でも、そんな「リセット」が、今実は、全員に必要なのではないか。

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2017年4月 9日 (日)

いじめで自殺しないために

未来のコミュニケーション理論/コミュニケーション学のラフスケッチをやっているこのブログ(と前身のエッセイ集)で、もっとも重要な概念のひとつが「他者不在」だ。

他者不在とは、心が(脳が)、他者を他者として存在せしめていない、ということ。他者を、自分という毛布の中へくるんじゃっていること。そこから、いじめ自殺もそうだけど、ありとあらゆるコミュニケーション不能の悲惨が生ずる。

他者を他者として存在せしめるとは、他者をはっきり、くっきり、discreteに、自分と完全に切り離して、自空間でなく別空間に置くことだ。

いじめをする他者を、ちゃんと他者たらしめるとは、そいつを、「なに?この人?」といった、醒めた目、けげんな目、冷たい目で見ること。そうやって他者を自空間に置かず別空間に置けば、こっちの心も脳もいじめに対して反応しなくなる。ちょっと、蠅のようにうるさいだけだ。うるさいから、その場を去ればよい。あんまりうるさければ、究極の「去る」として登校拒否をすればよい(親や教師にちゃんと説明してから)。登校拒否には、親といえども、他人がとやかく言う権利はない。本人の自己防衛策だから。

自分にとって有益な他人(楽しい、おもしろい、ためになる、趣味が合う、やさしい、等々)だけと、つきあえばよい。あとは、無視、無反応が、心の健康の鍵であり、自殺へのドアのシャットダウンだ。そうやって閉じてしまえば、二度と開かない。

いわゆる人付き合いのヘタな人なら、自分のやりたいことに毎日没頭すればよい。そうすれば、それを通じて、いずれ、本当の友だちができたりする。

他者不在の逆の、他者が他者として存在するとは、他者を他者として“つっぱねる”ことである。いじめっ子のそいつが何を言おうと、完全に不感症、そして、無関心になることだ。完全に他人視、他者視する。そして、関心を持つ価値のあることだけに、関心を持とう!

いじめには、あなたが関心を持つべき価値がゼロである。だからさっさと無視、去る、逃げるが勝ち。

いじめをやる連中を、完全な他者として、別空間へつっぱねておこう。自殺しない、健康者であるために。

反応しておもしろいことだけに、反応しよう。くだらんことに、いちいち反応する、「心の無駄遣い」をやめましょう。

無価値なものへの反応は、泥沼の道だ。足を取られてしまって、人生を前進できなくなる。自殺へのドアが、あなたを招く。

自分にとって本当に価値のあるものにのみ、反応しよう。

そして、

他者は、別空間に置く。

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badさんも、えーかげんにして、もっとしゃんとしなさいよ! 

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2017年4月 3日 (月)

自然は人間の、むしのいい期待を、受け入れてはくれない

このたびの高校生雪崩事故と、先年の大地震大津波原発事故に共通しているルーツは、自然という強力巨大な他者を他者としてリスペクトせず、“自然をあまく見る”であります。

“自然をあまく見る”が強行されてしまう理由は、“欲強迫”であり、その欲の大きな割合が貨幣欲である。自己保全欲、というのもある。

なんで、「絶対的に自然の方を立てる」という方向へ自然に心が流れないかというと、欲への社会強迫が強いからだ。そこで、自然が地雷原になってしまう。

鉄則は、自然は人間の無理を聞き入れてはくれないから、絶対に無理をしない、であります。この鉄則を忘れてはいけないし、忘れたふりをしてもいけない。

無理をしない、が自然な生き方になるためには、人類が新しい常識を、ぜひとも持つ必要がある。

欲は、他者不在の厚い壁を作り、コミュニケーション不能を定着させる。そして他者を、本当はそうせずにすんだはずなのに、強大な凶器にしてしまう。

「欲の方を優先しない」という、教育のベースが絶対必要やね。平和と優しさの教育や、それは。


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2017年3月27日 (月)

「他者不在」をどうやって理解させるか

旧人類(==現人類)の本質的な特性である他者不在(==コミュニケーション不能)を、多くの人に理解・自覚させるための効果的なやり方はあるだろうか?

たとえば、宗教は神(絶対者、超越者)をきっちりと、きりっと、他者化しない、神に対するたいへんな失礼であることを、xxx教の熱心な信者にどうやって分かっていただくか。難しい。

他者不在において他者はきっちり・きりっと、discreteに他者として措定されず、自己の視野中の自由可処分財(材)でしかない。処分のメニューの中に、殺害や虐待がある者も、多くはないが珍しくはない。

とくにオトコでは、性的オブジェクト化、という処分メニューもある。自分より弱い者(幼女など)は、処分作業がやりやすい(殺害処分を多くの場合伴う)。そういう、ものすごくひどい犯罪事件も、残念ながら、よくある。人間が日々を生きていく環境として、あまりにひどすぎる。

他者を、かきっと、他者として見る。リスペクトする。そういう心的態度を教えるのは非常に難しい。不可能、な人も少なくないだろう。

また一方では、ひどい(ときには長期間)他者不在扱いされたことに対する、会話的反応ではなく暴力的な反応も、今日まで連綿とよくある。会話が通じない、会話を受け入れない相手だからしょうがない、という絶望的な状況もよくある。

コミュニケーションのための理論は、その普及、教育がいちばん難しい。
幼女たちを危険にさらさないためには、いちばんの急務でもある。
しかし、名案はまだない。


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2017年3月19日 (日)

犬や猫が噛むこと

先日、赤ちゃんが犬(ゴールデンレトリバー)に噛まれて死亡する事故があった。今さら何を書いても遅いが、今後のための一般論として書いてみよう。

捨て犬や捨て猫を保護するようになって、今年で25年目を迎えるが、これまで犬や猫に噛まれたことは数えきれないほどある。5針縫った傷が最大だから、たいしたことないと言えばたいしたことない。でも猫の口の中はバイキンだらけで、一本の牙がささっただけでも必ず化膿し、全治までに病院通い10日ぐらいは必須だ。

なぜ彼らは噛むのかというと:

(1)加害錯覚
ちょっと手などを近づけただけで、それを、反射神経的に攻撃加害と解釈し、‘加害者’撃退のために噛むことがある。猫同士喧嘩しているときは興奮しているので、人間は手を出さない方が良い、噛まれたくなければ。上記の赤ちゃんのケースでは、私の勝手な想像にすぎないが、這い這いしながら手を前へ出し、犬の顔近くに自分の手を近づけたのではないか。そうでなくても、赤ちゃんと犬が一緒にいて、大人が至近にいないのは、絶対にまずい。

(2)あま噛み(甘え噛み)
猫に多いが、人間への愛情表現とした、負傷しない程度に噛むことはよくある。また、前足を前に伸ばして人間にじゃれつくとき、爪を収納しない猫がいる。どちらも、たまたま加える力の‘程度’の判断を猫が誤って、実際に怪我をしてしまうことが、ごくまれにある。可能性はきわめて低いが、その犬は人間の大人に対するときの力で、その赤ちゃんをあま噛みしたのかもしれない。

(3)生活史不良
前の飼い主の連日の常習的虐待で、凶暴化してしまった犬にまれに出会う。こっちは犬の教育訓練の高度なスキルや知識を持っていないので、残念ながらお世話できない。猫にも、良くない過去の生活史に由来すると思われる暴力はある。たとえば元野良のコーちゃんは、食べ物やミルクなどをあげるとそれはもちろん歓迎されるが、食べ物飲み物を猫の前へ置いた直後の瞬間から、その手(人間の手)は彼にとって、自分のものを奪いにきた者、と判断される。そこで、噛みつく。私は瞬時に手を引っ込めるので、負傷するまで噛まれたことはない。


(以下、20170402追記)
(4)赤ちゃんへの嫉妬
n, sさんのコメントにある「赤ちゃんへの嫉妬」を挙げておこう。新家族である赤ちゃんがちやほやされ、自分の格が下がることへの不満があるらしい。運が良いのか悪いのか、私の過去の経験や見聞の中に、それで赤ちゃんが犬に噛まれた、という話はない。しかしこんな記事もあり、「犬 赤ちゃん 嫉妬」でググるともっといろいろ出てくる。ここでも肝心なのは、親が注視を怠らないことだろう。


でも、まあ、自分の口や手に強力な牙があることと、食肉の準備を専門家(と畜場)に任せっきりであることと、どっちがいいとも言えない。


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2017年3月14日 (火)

Quora続

これも、おもしろい。質問者は誰あろう、私(岩谷)なのだ。

この“おもしろい"の意味は、サイコロ以上に多面的だ。

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