2018年10月20日 (土)

世界司法はない。何度繰り返してもないものはない。

国家の最上位権力に位置する者が、犯罪者でない人間を法の認可なく拘束して、拷問の挙句、生きたまま斬殺することが放置放任されるのは、「国」と違って「世界」には司法とその法執行力が皆無だからだ。国は人を制御しうるが、世界は国を制御できない。やりたい放題である。

それは、前にも書いたとおり。

しかも例によって彼らの脳は完全な他者不在だ。面倒な他者は殺せばよい。

世界には司法がない。だからいわゆる拉致問題にも解法がない。

まだ人類社会は、原始の粗放状態である。と見なすしかない。

世界司法ということを、問題視している人たちは、すでにかなりいると思うのだが。

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2018年9月30日 (日)

Webに固執すべきか?

World Wide Web…HTTP/HTMLを作った元祖Tim Berners-Leeが、まともな人間なら誰でもそうであるように、Webの現状に幻滅し、Solidという分散型プラットホームを提案している。

その詳細はここでは述べないが、問題と思うのは、それがWebをベースにしていることだ。

私の長年の視点は、「いろんなインターネットアプリケーション==いろんなネットワーキング形式がありえる。Webはそのひとつにすぎないし、しかもそれは良質なネットワーキングを作り出せない」というものだ。Webは、経験者はみなご存知のように、パブリシングとブロードキャスティングに向いている。

私は、Webをインターネットの古語として葬り去り、本当に個人が自主的主体的なノードであれるネットワーキングアーキテクチャをインターネットの主役にすべき、と信じている。

(続きは、また後日。)

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2018年9月26日 (水)

「自己は他者である」自覚のための補論

最近は食品のウェイスト(waste, 無駄な廃棄)が問題になっているが、これは、本論の基本概念のひとつである「差異」の表れのひとつにすぎない。

今日ここで取り上げたいのは、生物(動植物)の子孫のウェイストの膨大さだ。

たとえば、果実系の木だと、豊作の年なら、まず春に大量の花が咲く。

・かなりの数の花が落花する。

まず、ここでウェイスト。

次に、蜂や蝶のおかげで受粉に成功した花は雌蕊が果実に変身していく。

・ビー玉より小さな果実が、大量に落果する。

ここで、第二のウェイスト。

一応成長した果実の中には、ひとつひとつの中、そして全体として、大量の種子がある。

・その全部が芽生えて成木になる、とは考えられない。

しかも、大量に生った果実の、

・すべてが種子を大地に播種するとも考えられない。

そして果実の大半ないしすべては、糞をあちこちにばらまいてくれる動物ではなく、人間が食べてしまう。

・種子はゴミ処理場や下水道へと消えていく。

というわけで木が産み育てる子孫はほとんどすべてがウェイストである。しかもそれは、膨大な数のウェイストである。

ひるがえって、動物、たとえばヒトの場合、生涯に一匹のオスがウェイストする精子の数と、一匹のメスがウェイストする卵子の数も、かなり膨大だ。特定のヒトオスと特定のヒトメスの精子と卵子の膨大な数の‘組み合わせ’のうち、ウェイストにならない、すなわち発生する組み合わせの数は極少だ。あとは全部ウェイストである。

その希少な組み合わせの中の『特定の』たったひとつが、めでたく(?)自己である確率はきわめて低い。

というわけで、自己というものが存在するに至る確率は、ものすごくものすごく低い。

その低さを考えると、自己というもののない宇宙ないし世界が、正常な世界ないし宇宙である。自己が再生する確率も低い。何に再生するのか。木にか。草にか。虫にか。遠くの宇宙の未知のイキモノにか。いずれにしても見た限り、全生物、子孫のウェイストは甚だしいから、無事に生成する彼らの子孫のどれかに自己が再度宿る確率はきわめて低い。もちろん、ウェイストがまったくなくても、その確率の低さは変らない、(と思うしかない)。

しかも、自己の記憶は継承されないから、何かに宿って再生したとしても、それは「アノ自己である」という認識を持てない。言い換えると、再生しなかったのと同じである。

というわけで、自己というもんは、わけのわかんない、けったいな、他者である。そのすべての鍵は、自然がその秘密のふところに握っている。どうにでも、してちょうだい。


・生物は子孫のウェイストがとても多い。
・無事に発生した少数の中に自己がいる確率はとても低い。
・今ある自己も、とても低い確率の産物である。
・自己の再生成の確率も、きわめて低い。
・再生成したとしても、自己同一認識はゼロである。
・そこで事実上、実質上、今ある自己が、何千億年の全宇宙史における唯一の自己である。
・だからそれは、とんでもない、謎の、わけわからん、「他者」である。

ほとんどありえない再生成であるが、とにかく人間という愚かすぎる酷悪な動物への再生成だけは、絶対に御免被りたい。その歴史も現状も、ひどすぎる。その多くの個体(とくにオス)の脳に、「他者不在」という重大な欠陥が定在している。進化して、それがなくなった状態を、見たくもあるけど…。

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追記(2018/09/30):
夕方以降、台風の中を犬と外を歩くのはやめたいので、まだ明るい時間に前の草むらでおしっこをさせた。家の中へ帰ってくると、私が着ているシャツやパンツ(チノパン)に、大量の草の種が付着している。数十ではなく、数百のオーダーだ。ガムテープでは取れないので、ひと粒ひと粒指で取る。これだけ子孫を乱造するのは、動物の体に付着して運ばれてめでたく芽生える確率がとても低い、と自覚しているからだろう。この草にとって、あるいは自然にとって、個体は全然大事でないようだ。全然大事にされない大量のウェイストの中で、たまたま生きられた「自己」、なんとあやうい、はかない、存在であることか。

そういう希少な者同士が、真剣に殺し合うなんて、やはりこれまでの人類はアホである。


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2018年8月17日 (金)

ネットワークの間違った使い方

この前述べた、たとえば予定されている学校行事の実行を盲目的に優先して低学年児童を熱中症で死なせてしまう校長==旧日本軍的オトコと、家の裏山に一人でさっさと登って迷子の子を発見した高齢者ボランティアとの大きな違いは、後者が、人間というものに対する肉感的直観を持っていて、それを判断の最上位材料にしたことだ。一方殺人校長には、人間に対する人間的直観というものが、皆無だ。毎日、学校の無難な運営しか、頭にない。子どもという人間を、人間として見たり感じたりしない。人間への関心ゼロの人が、学校の校長に平気でなったりする国。

で、私もこの際、次世代ないし次々世代の、もっと頭も感性も優秀な人たちの参考のために書いておこうかと思うけど、今のインターネットの主流的な使い方、すなわちクライアントサーバーシステムという方式は、オープンでグローバルなネットワークの使い方としては絶対的に間違いである。

クライアントサーバーシステム(CSSと略そう)は、本来、企業とかお役所とか、大学などの学校などでローカルに使われるべきネットワーキング方式です。インターネット自体が、また、そうなんやけど、これはまた別の話題。

ローカルというのは、物理的にも人的にも特定狭域です。外部からアクセスがないし、外部へアクセスしない。サーバーが各端末に提供するアプリケーションは、その会社の仕事だけをする。社員しか使わないし、機械は社内にしかない。

それをそのまま、一挙にグローバル化してしまったから、今となって問題が噴出している。

次世紀の笑いものになるであろうFacebookなんか、ウン億のユーザーにウン百万台のサーバーが対応して、問題を増幅的に再生産している。ローカルでなくてグローバル&オープンだから、まともなコントロールはできない。

グローバルでオープンなネットワークは、サーバーにいっさい頼らずに、自分たち同士で必要なコミュニケーションを行なうネットワークでなければならない。一例を挙げればメール(と呼ばれる非同期メッセージング)、メールサーバーというものをなくして、私なら私が直接、AさんならAさんへメールを送ればよろしい。

検索と呼ばれる情報探しも、Googleのような巨大サーバーに頼らずに、文字通りネットワーキングな質問伝搬が可能だ。完全分散化検索、である。

もう一度繰り返せば、グローバルでオープンなネットワークを、CSSで利用するのは大きな間違いである。

もちろんVPNなどの工夫で、そのごく一部を閉じた狭域的に使って、CSSをやるのはいっこうに構わない。

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このブログだって、サーバーなしで分散的である方が、いいよね。

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2018年7月29日 (日)

不登校、学校教育と世界の現実とのズレのひどさ

bad氏:
> 日本社会の変わんなさて、半端ないわ。
初期の■患者のように、外側だけ見ると変化がないように見える。しかし内部では魂の枯死と腐食が進行している。

要は、要積極対応世界の広さとその要素の多様性が、桁違いに大きくなっていることに対し、今、多くの日本人は“自己鎖国”という対応を選んでいる。

つまり、いちばん楽な対応。「勉強しない」、勉強しないから理解もシンパシーも持たない(シンパシー≠同情)。もっと楽な、「勉強せずに否定する」も多くがある。ないもの、無価値なものにしちまえば、ないものには関心も勉強義務も発生しない。

日本には大馬鹿帝国トランプニアもないし、BrexitもAfDもFNもないから、一見まともに見えるかもしれないが、自己鎖国は実質的にそれと同じことで、彼らがけったいな人たちを政治家に選出している。

自己鎖国は、大きな市場、大きなビジネス機会にもなっている。例:最近のベストセラー書籍の顔ぶれを見よ。

でももちろん、桁違いに大きな市場機会は、広い世界とそれを構成する(鎖国者にとっては許しがたい)多様性だ。鎖国はいずれ敗(やぶ)れるに決まっているが、それまでの過程で要らざる摩擦をたくさん生む。政治家が馬鹿な国ほど、摩擦も激しい。

今の日本の学校教育が旧日本軍的でだめ(非人間的で無能)なら、自己のための自己流グローバル教育でもよい。世界の広さ深さ多様さを、楽しみ驚きつつ勉強していこう。先進国では、どうしても、不登校、登校拒否が多くなってしまうのだ。


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2018年7月22日 (日)

貨幣保有/取得に格差があるのではなく、貨幣(の命!)は格差なのだ

Joi Ito(伊藤穰一)という人は、昔から‘良い人’なんだ、と思うけれども、でも、その、99%良いところが、残る1%の欠陥によって、かなりのすかすか感を持ってしまう。基本所得の普遍化(UBI, Universal Basic Income)に関する彼の議論も、99%までとても良い論考だとは思うけど、やっぱ、貨幣というやつのいやらしさ、怪物性、魔性(!)を、看過してるのではないかな。こういう人たちはみんな、貨幣を肯定〜温存しつつ、なんとかしようとする。なんとかなるんか?

コミュニケーションというレベルおける、貨幣の本質…他者不在…を、もっと多くの人たちが自覚・理解しないと、議論は次のステージへと移行できない。

インターネットというコミュニケーションツールの分野にいる人たちでも、今ではその99.9999...%の人たちが、コミュニケーションというレベルでものを考えてない。※:

※: 貨幣をめぐるさまざまなコミュニケーションがある、のではなくて、貨幣および基本的貨幣トランザクションそのものが、人間という動物の、コミュニケーションのひとつの形です。非常にネガティブで劣悪過酷な。

そこが、Joiさんなどの、とてもはがゆい、かったるい部分だ。

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2018年6月23日 (土)

教育委員会に建造物コンプライアンスのエキスパートはいない

誰に・どこに頼むという慣例もない。コンプライアンス・チェックがまず必要との認識もない。一般的な印象としては教育委員会や児童相談所(やその他)は、なにもしない、なにもできない税金泥棒たちのたむろ場である。ではなぜ学校は、問題を教委に渡すのか。単に慣例(暗黙のコンプライアンス!)だからであり、必然的な論理性は何もない。つまり、学校もまた、なにもしない派の仲間だ。「教委は無能団体だから自分で専門家を探して頼む」が、唯一の正解だったはずだ。

なあなあ主義の無為をデフォルトのルールとする、おっさん文化が支配する日本の将来は、やばい。実際、専門家の過去の忠告は完全に無視されている。

本来なら、建造時の最初の最初にやることが、コンプライアンス・チェックだったはずなのに、学校はそれをさぼった。それが、すべての始まり。

日本のおじさん族は、論理が嫌いだ。彼らが好きなのは、閉所的排他的な共同体的恣意性のみ。


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2018年6月11日 (月)

コミュニケーション論の骨子…「他者不在」、人間のレベルでそれは「貨幣関係」

このブログや、その先駆的エッセイ集で展開されているコミュニケーション理論のいちばん中核的な概念が「他者不在」です。それは、ヒトのアタマやココロの中で、他者がきちんと他者として認識確立されてない状態を指します。他者がいなければ、他者とのコミュニケーションもありえません。この不在状況は、今日まで何万年何十万年も続いています。

他者不在の分かりやすい(と思われる)例として、ここではよく動物園を挙げるのですが、確かに動物園は、人間による動物の一方的拉致です。人類がコミュニケーション有能な生き物となった未来においては、動物園は廃止されているでしょう。

他者不在は人間の社会と生活の(そして学問や産業の)あらゆる局面にありますが、中でもいちばん強力でおそろしい他者不在が宗教です。宗教は絶対者/超越者という観念的存在(他者)を、各共同体などが恣意的に解釈した、その解釈の体系です。宗教は、神の動物園です(言い換えると、すべての宗教が迷信である)。恣意的解釈なのにでも神は神(絶対者)だから、一つしかないはずの神がほか(他宗教)にもいろいろあることは矛盾しており、許されません。そこでよく宗教は、大量人殺しの動機になります。

人間はすべからく、宗教を取(と)っ払(ぱら)って、ただの人同士になることがコミュニケーション有能化への前提として重要です。

また人間同士の普遍的な他者不在関係が、貨幣(お金)のやり取りです。その関係においては、目の前の人間が人間ではなく、貨幣という価値交換ネットワークの個々のノード(節)になってしまいます。しかも貨幣の価値は「持てる/持たざる」の格差ですから、その構造の最下部に大量の貧困層/限界層を必要とします。貨幣社会は、永遠に過酷な格差社会です。

お金の所有差や収入差のない無格差社会を想像してみてください。そこでは、お金はお金としての価値を持ちません。そんなものは、空気や(日本などにおける)水と一緒で、交換財になりえない。貨幣が価値を持つのは、それがありがたい(有り難い)もの、なかなか得られないもの、すなわち希少性==格差性を持つからです。

今、何百万人という規模に達してしまった難民たちへの国連などによる配給努力や、各地の無名なボランティア努力などは、目の前の人間が「金を持ってるか」という他者不在的認識ではなく、人間そのものとして、どんな状況…助けを必要とする状況…を抱えているかに基づいて、食糧や医療などベーシックな資源の分配をしている。日本も、減反後の広大な不使用農地を、これ以上荒廃させない努力が必要ではないか。

農業は自然という巨大な他者とのつきあいだから、貨幣価値というファインダーの中に見えるものがすべて、という典型的な他者不在の視点は危険だ。…たとえば、災害に弱い地域社会作ってしまう。


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2018年6月 7日 (木)

テレビの古さを痛感

テレビに、6チャンネルだったと思うが、「プレバト」という技能競争番組がある。プレはプレイ、バトはバトルだろう。ヒトがヒトに優劣をつけること自体かったるいので、ほとんど見ないが、今日はご飯を食べながら一瞬見る機会があった。

今日は競争種目の中に、俳句などと並んで「料理の盛り付け」があった。その審判は、あの親の七光がすべての無能料理人、YD氏である。で、彼が一等賞をあげたのが某嬢の「かつおのたたき」なのであるが、それは全然、「かつおのたたき」になっていない。

だいたい、本当に有能な人は、親への本質的な批判からスタートする。親の七光の外へ脱出しようとする。プロ野球選手でも、親がスター級の名選手だったやつはみなだめだ。親とは別方向へ進もうとしなかったからだ。

※: 先代の愚行愚考の批判否定が進化のバネ。日本の不戦憲法もその実装と運用が適切で積極性があれば、本当に人類の進化に貢献しうるだろう。

えーと、それで、その一等賞を得た「かつおのたたき」は、表面をあぶったかつおを刺し身サイズにスライスした柵の形のままを皿に盛り、千切り野菜をわきに添えてある。盛り付けとしては、シンプルですっきりしている。が、ぜんぜん美味しそうでない。

しかし、本物の「かつおのたたき」は、かつおを叩くからたたきと言うのである。あぶったかつおを刺し身サイズに切るが、それらを平らに崩して大きな皿に敷きつめる。その上に、ねぎ、青じそ、みょうがなどの香味野菜の千切りをばらまき、かつおを覆い、その上に橙(だいだい)酢をしぼり、(今ならレモン酢など)、包丁の脇腹でぺたぺたと叩く。もっとも原始の調味料である酢と、香味野菜の香味を、魚肉に浸透させる。それを、野菜もろとも、にんにく醤油で食す。にんにくスライスを最初の香味野菜の仲間にするやり方もある。

そもそもテレビは、今や古い、一方通行のメディアなので、「それはたたきやないでぇ」とコメントすることができない。新しいおいしい食べ方、というわけでもない。

日本の食べ物は、ローカルをローカルに食すにかぎる。それがいちばん、唯一、美味。

土佐高知というローカル他者を忘れて、えらそうに、かつおのたたきはないだろう。

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2018年4月23日 (月)

言葉の民主化(という一見陳腐な話題)

新聞など一般的庶民的メディアでも最近はますます、本来そのコト/モノを指す日本語(とくに漢語、漢字熟語)はあるのに、もしくは“作れる”のに、「平仮名英語」を使う例が圧倒的に多い。

創業者→ファウンダー、完全菜食主義(者)→ヴィーガン、主題→テーマ、箱入り袋→バッグ・イン・ボックス、無料旅程→フリープラン、…、これらは文字通り、枚挙にいとまがない→エンドレス。

電子計算機→コンピューターのように、日本語の方が死語になりつつあるものも、少なくない。

そこでひらめいたのは、日本国内でグローバルな言葉であるところの漢語、漢字熟語、ないし、いわゆる標準語は、われわれの言葉ではなくて「官」の言葉だったのではないか?

学校教育も、官の言葉を官の言葉として習う機会にすぎない。

だから今の一般的な文章の中では、「創業者」は官的に硬いから使いたくない。ファウンダーの方が軽くて親しみがありポップだ、つまり、ファウンダーの方は、われわれの言葉、すなわち民主化された言葉だ。

アメリカ人にとっての英語にも、少し昔の(主に西海岸の)ヒッピー全盛期のころに生まれた新言語文化を源泉とするところの、(最近ではテクノロジー界隈も源泉のひとつ)、新スラング的言語系があるが、それは別の機会に。

ちなみに、technologyは、「技術」という日本語で収まる場合と、だめな場合がある。

いわゆる和製英語は、英語ではないから完全に誤称misnomerだけど、やはり日本人による、言葉民主化努力の産物だ、と感じる。

一昔二昔前の「われわれの言葉」、それは各ローカル共同体の庶民の方言だ。それしかない。しかし、でありながら言語民主化努力の中でポピュラーになった方言は、けっこう多い(中でも関西弁〜大阪弁の語彙)。最近の例は北海道方言?「そだねー」、果たして定着するか。

こんなことを考えるきっかけになった、アン・クレシーニさんのKindle本テレビ出演ブログを、おすすめしたい。

この、“大学准教授”の方は、場合によっては本物の英語より和製英語の方が良い、とまで言っている。

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