2017年7月16日 (日)

今本当に必要なことに気づく視野はオトコには無理

あんなところに原発、も、あんなところを檜の放置林だらけ、などなども、すべて、どこにも美のないことを特徴とするオトコという生き物の無学視野狭窄の産物である。自己利益をベースとする、超ローカルな浅い判断しかできない。落とされずにすんだはずの原爆を、ずるずるしてて二発も落とされたのは、責任は日本のオトコ指導者たちにある。目先の自己利益で、視野が狭く浅い。まわりに死屍累々多大なる犠牲者を作り出し、そして平気だ。

今度は彼らは、高校無償化という黴の生えた古い図面を今ごろ持ちだして、もっともらしく何か言っている。

古い図面ではなく、今と未来に必要なことを考えよう。

それは、義務教育無償を前提として、義務教育の期間を今の倍にすることである。

アメリカのテクノロジー業界のエリートなどが言っている、高等教育無償化では、実は足りない(移民法の緩和に期待するしかない)。テクノロジー業界自身にとって足りないのだから、全社会的にはまるっきり全然足りない。

重要なのは、これまで高等々々と言ってきたものが、今および未来、高等でも何でもなくて「ふつう」&「必須」になることだ。昨日まで高等教育と言ってきたものはすべて、今日および明日以降、万人のふつうの教育になる※。

今および今後の社会や企業などが必要とする労働は、70年前に決まった9年制義務教育では担保できないし、高校の3年間も不十分である。

ふつうのものは、すべからく、義務教育でカバーすべきである。

原爆のときと同じく、これをやんないでえんえんと、ぐずぐずしている国は、たちまち、世界の最下等国になる。間違いない。

少数の一部の技術エリートだけが偉くたって、そんなのは何にも貢献しない。みんなの、全員の、『学』のレベルが上がることが、ものすごく重要である。

しかし、オトコは本当に重要なことに気づかない下等動物だから、何を言ってもだめかもしれない。でもそのとき、救命ボートはどこにもないだろう。

自民党の女性議員たちとは違って、あらゆる意味できれいな、女性がリーダーシップを執るべきだな★。その中に、脱オトコを実践した生物学的雄がいるのは、かまわない。

★フクシマを視察して、「あ、こりゃ、原発ってダメだな」と一発で気づいたドイツの女性首相(物理学博士)は、‘きれいな女性’のひとりと言える。


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2017年7月 9日 (日)

ルーズな土地管理・土地利用の犠牲者

★画像の上でマウスを右クリック、そして「画像だけを表示」をクリックしてみて。

なんとそこには原発もあった!という超ルーズは、先祖代々のものではなく、むしろ先祖たちは、「ここから下には家を建てるな」と厳命していた。ご先祖が死をもって毒キノコだと実証したキノコを、どんなにうまそうだからといって、食べるべきではない。

今回のは豪雨による鉄砲水の被害で、あまりにもできすぎ、シンボリックなひどさをわれわれに伝えた、母60台、娘20代、孫1歳、おなかの中の二人目の孫、全員一挙死だ。

全国の里山を貧弱な檜の放置林にし、今日まで長年放置していれば、その長い年月に豪雨鉄砲水ぐらい必ず起きる。本来の里山は植生が多様豊富で、適度に手入れされた天然林に近く、保水力と表土剥離流出防止機能がある。昔から、これまたご先祖の偉大なる言葉として、「真の治水は山の手入れだ」「治山と治水はワンセット」と言われる。

私も当時(終戦直後)の無知な田舎モンだったら、無知な政策に従って、せっせと里山を削って檜の苗を植えまくったと思われるが、今、林業のしろうとが考えても、それで銭(ゼニ)になる優良材が得られるとは思われない。林業も、プロの仕事として精魂込めてやんなきゃダメに決まってる。

檜の放置林だらけの光景は、日本中至るところにあるから、うちの近くにもうんざりするほどある。何年も何十年も変わらない。

今回の、福岡県朝倉市黒川(くろがわ)地区も、そうだ。

お粗末な檜の放置林(1)

この道路が通れなくなるのは時間の問題。


お粗末な檜の放置林(2)

無意味なままごとのような土嚢。


山中(やまじゅう)檜の放置林

家の背後に竹やぶすらない。


家々の背後も檜の放置林

ここは罹災地の黒川(くろがわ)地区。
鉄砲水の標的になるような場所に家々がある。

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2017年6月22日 (木)

A Song For Europe (仮訳by Iwatani)

Here as I sit
At this empty café
Thinking of you
誰もいないカフェに座ってあなたのことを思い出している

I remember
All those moments
Lost in wonder
That we'll never
Find again
魔法のように消えてしまったあの日々はもうどこにもない

Though the world
Is my oyster
It's only a shell
Full of memories
世界がぼくの牡蠣であっても殻の中にあるのはたくさんの記憶のみ

And here by the Seine
Notre-Dame casts
A long lonely shadow
ここセーヌの河畔ではノートルダムが長い孤独な影を落とす

Now, only sorrow
No tomorrow
There's no today for us
Nothing is there
For us to share
But yesterday
今は悲しみがあるのみで明日はない
私たちの今日もなく
共有するのは昨日(きのう)のみ


These cities may change
But there always remains
My obsession
都市(まち)がどれだけ変わっても
私の妄執はしぶとく生き残る

Through silken waters
My gondola glides
And the bridge, it sighs
絹地のような水面を私が乗ったゴンドラがすべる
橋がありそいつがため息をつく

I remember
All those moments
Lost in wonder
That we'll never
Find again
魔法のように消えてしまったあの日々はもうどこにもない

There's no more time for us
Nothing is there
For us to share
But yesterdays
私たちにもはや時はなく
昨日(きのう)のほかに共有するものもない

Ecce momenta
Illa mirabilia
Quae captabit
In aeternum
Memor
すばらしかった日々は記憶の中にしかない

Modo dolores
Sunt in dies
Non est reliquum
Vero tantum
Comminicamus
Perdita
心にあるは痛みのみ音信は途絶えてしまった

Tous ces moments
Perdus dans l`enchantement
Qui ne reviendront
Jamais
Pas d´aujourd´hui pour nous
Pour nous il n´y a rien
A partager
Sauf le passé
あのすばらしい時と日々は
魔法のように消えてしまった
もう決して戻らないだろう
私たちが分かち合う今日はもはやなく
共有できるものは過去だけだ

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ヨーロッパの栄華は、他者の犠牲の上に建つまぼろしだった。今はその背後にあった問題が、激しく露呈している。どう収拾するつもりか?。私たちはそれを手伝えるか?。アメリカも、そろそろやばいようだけど。なにしろ、たいへんな時代が始まっている。

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2017年6月 5日 (月)

貨幣はサブイシューである

このブログが扱うメインイシュー(main issue)はコミュニケーションであり、ほかにメインイシューはない。この環境で貨幣は、したがってメインイシューであるコミュニケーションに属する部品的イシュー、すなわちサブイシュー(subordinate issue, sub issue)のひとつであるにすぎない。

そして、そのように、コミュニケーションという視座の中における貨幣は、コミュニケーションの、特殊な、一様態ないし一様相である。では、貨幣とはコミュニケーションのどんな様相か? 今さら言うまでもなく貨幣は、最初から他者を疎外している、非常に粗悪で有害なコミュニケーション様式である。それが一種の、コミュニケーションの病気であることを指すために、様態や様相よりも容態(ようだい)(ないし容体)という言葉を使う方がふさわしいかもしれない。

こうやって、貨幣を単独の独立のメインイシューとして扱わずに、コミュニケーションという座標系の上に移して見ることは、人類の社会思想の、久々の「一歩前進」なのである。貨幣をメインイシューとして扱っているかぎりは、どうにもこうにも埒があかず、もっとましな社会へと前進することができない。

貨幣の本質がコミュニケーションの問題だ、と分かれば、ふんじゃあコミュニケーションを良くしていけば人類は貨幣という悲惨==差異および差異の階層から脱することができるかもしれない、と思えてくる。そして、貨幣経済という言葉は従来、物々交換(実はここにすでに貨幣の母胎がある!)などのより原始的な経済形態に対して、より効率的一般的な交換価値物形式について言われたが、今後は、贈与経済、共有経済(ないし共生経済)など、貨幣症状のない、あるいは軽い、新しい経済形式に対し、古くて劣位な経済形式を相対化して指すための語彙になる。

説明的に似ているかもしれないが、「鬱(うつ)」を単独の“状態”として扱っていると、迷信のような詐欺的対策がのさばり、ついに本人の自殺を防げないが、今のように“病気”という座標軸上に移してしまえば、その病気(体調異変)に対する有効な治療法がありえる。

貨幣は、まともに扱うことの困難な巨大で厄介な怪物ではない。それは、重病のコミュニケーションの容態にすぎない。治療法はすでに、ささやかながら芽生えている。

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「貨幣をめぐるコミュニケーション」があるのではない。貨幣そのものが(貨幣現象の総体が)コミュニケーションなのだ。有害で病的な。

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2017年5月21日 (日)

機械翻訳と人間翻訳

12世紀か13世紀に建てられて、今は地域社会の公民館のように利用されている、ロンドン西部郊外の教会St Mary's Perivaleに関する英語Wikipediaの記述の一節に、こんな文がある:

The church is built of rag-stone and flint, and its tower is unusual, being clad in white weatherboarding.

これをGoogle翻訳は、こんな日本語に訳す:

教会はぼろ石とフリントで建てられていて、その塔は白い天気予報で覆われていて珍しいです。

ちなみにMicrosoft Bingの翻訳は、こう訳す:

教会はぼろ石とフリントの構築され、その塔は、白い雨戸に覆われて、珍しいです。

人間(私)が、あちこち調べて苦労しながら訳すと、こうなる:

この教会は砂岩と燧石(すいせき)で作られていて、塔は白い下見板で覆われていて珍しい。

今回私が初めて知った日本語(建築専門用語)は「下見板」だ。「下見張り」とも言うらしい。これは、横方向に張った板の下(下辺)が見えるから下見と言うらしいけど、私たちふつうの日本人が「羽目板(はめいた)」と呼んでるものと同じだ(下図)。

Images_2

だから上の「塔は白い下見板で覆われていて」は「塔は白い羽目板張りで」でもよいだろう。

翻訳は、人間がやっても永遠に難しい作業だから、コンピューター技術にとってはなおさらだ。でも機械翻訳は、日常的なありふれた短い文なら、だいたい役に立つね。今回は、建築の専門語が多すぎたのだ。


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2017年5月16日 (火)

自業自得の大規模被害

いろいろ書いてると多すぎて面倒なので、読者は「一を聞いて百も千も知って」ほしいのですけど、Facebookというインターネットサービスはユーザー数が数億という巨怪サイトで(ゆえに巨額な広告収入)あるため、ニュースの頻度も多い。

だが、まず、
これぐらいのネットワーキング機能が、なぜ特定のアカノタニンの巨大サーバーに依存しなきゃできんのか?
という根本的問題もある。

この根本的な問題に迫るために、最近のFacebookニュースを取り上げてみよう。最近の同サイトの新機能を知らせるニュースとして:

Facebook上の「グループ」という機能…同好の士が集まって議論や情報交換をする場だ…に、“グループの管理者が参加希望者に質問をしてその答によって参加の可否を決める”、という機能が新たに付加された。

問題は、なんでそんな機能を、Facebook様が作って提供するまではできないのか?

という点だ。コンピューターやネットワークの機能は、人様の迷惑にならないかぎり、ユーザーが自分で自由に設定できるべきだ。

今のコンピューターやインターネットを自動車にたとえると、「自動車はつねにタクシーやハイヤーなどのサービスを利用して使わなければならない」状態と同じだ。自分で運転できない。Facebookは、巨大ハイヤー会社の一つだ。

そして、今回の、ランサム・ウェア問題だ。今は人間の99.99999%まで、コンピューターやインターネットに関する自主性が育っていない。ハイヤーとタクシーに依存するのなら、自己に運転技術は要らない。

すべてのコンピューターユーザーは自主性を持つべき、お粗末で危険なWindowsを捨ててLinuxに乗り換えよう、という運動があった。「日経Linux」誌などの上で今でも細々とある。私も啓蒙の一環として「Linuxの哲学」という本を書いたことがある(2002年、ソフトバンク社)。

だが、誰も自主性を持とうとしない。ネット犯罪者にとって、今のコンピューターユーザーは、“赤子の手をひねるように”、犯行がらくちんだ。しかも、自主性を持たないコンピューターユーザーは、Facebookのユーザー数以上に膨大な数だ。

今回の件に関しては、Microsoftは、「3月にパッチを公開した」ことを、免罪符とするつもりのようだ。あとは、そのパッチをあてなかったユーザーが悪いのだ、と。

しかし、今日の無自主性のユーザーにそれを求めるのは、無理であり無意味である。Microsoftの態度は、ゆえに、不誠実である。

インターネットもパーソナルコンピューターも、現状は、「超初期的原始時代」と言うしかない。ひどすぎる。お粗末すぎる。

次の「超初期的古代」ぐらいにおいては、“インターネットは自分のサーバーから使う”が常識化していてほしい。Facebookのような巨怪な恐竜は、そのとき、完全に絶滅しているだろう

「Linuxの哲学」で、せめて1年ぐらいは食いたかったが、実際には、1か月も食えない程度の収入しか得られなかった。赤子の手をひねるような大規模ネット〜コンピューター犯罪は、今後もますます頻発するだろう。しょうがないね。

個人だけでなく企業ですら、社員のコンピューター利用教育、そのイロハのイを教えていない。という悲惨な現状。

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2017年4月30日 (日)

宇宙での他者不在は超弩級に危険

この話も過去に何度も書いたけど、未だに一般世間が相手にしてくれないし、また最近、宇宙ニュース界隈で(まったく無進歩愚鈍状態で)蒸し返されているようなので、書いておこう。

そもそも、地球と呼ばれる惑星上の生物/生命って、ものすご特殊なもんやん。存在するための必要条件が。そして、その必要条件の上での構造や機構(仕組み、はたらき)が。複雑怪奇、という言葉がふさわしい。ウィルスやバクテリアのようなもんですら。

※: 雑談: 今住んでるところの上水道の原水は利根川の水である。上水施設が行う殺菌処理によって、水藻の微細な胞子は死なないらしく、炭素などで水を濾過する浄水器の中ですら、その壁にやがてグリーンが広がってくる。犬の水容器の中の藻なんて、もう何年も生きている。冬にも夏にも耐えて。

なんで、同じような特殊なもんが、よそにもおる、と考えなあかんのか。むしろ、地球上とはまったく違う必要条件〜環境をベースとして生きておる者が宇宙各地に複数種類存在する、と考えた方が、無理がない。

どこそこに水蒸気(〜水)の痕跡が検出されたので生物がいる可能性がある、なんて、典型的な他者不在の見方考え方は、いいかげん、「愚」かつ「恥」と自覚してほしい。

この話と大いに関係するが、「火星を人類の植民地にする」は断じてやめてほしい。火星みたいな近場だって、どんなイキモノがおるか、おらんか、分かりませんで。

それとも今度のテロは、宇宙人の来襲か?!

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2017年4月25日 (火)

オリンピック考

オリンピックという(建前上)グローバルなお祭りは、しばらく、無期停止にしてはどうか?

なんとなくその前提となっているような“世界はひとつ”というコンセプトが、今や、非常に露骨に欺瞞だからだ。

彼ら自身自分が何を信じ何を言っているのか分からないようなテロリズムや、むちゃくちゃひどい女性虐待小児虐待や、むちゃくちゃひどい貧困や飢餓などが、もうちょい、ゆるやかな、おだやかな状態にまで治癒するまで、停止した方がよい。

そして、今あえて敢行するオリンピックのような欺瞞に向けてではなく、上記のような目標に向けてグローバルに努力していく。オリンピックに向けてではなく、そっちに多くの人の意思が向かうようなグローバルコンセンサスを広げ、浸透させていく。

そして、もう欺瞞ではないだろう、と言える世界状態になったら、再開するのはどうか?

それをやんないと、ますますオリンピック自身が、それら負の世界状態に侵食されていく危険性を感じてしまう。

そんな、オリンピックの白々しさは、すでにリオあたりからあったのではないか。確実に、顕在的に。

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2017年4月17日 (月)

スマホのない空間

さっき7chan(昔の12chan)で、高円寺で一人きりのはしご酒で徹底的に飲むことが癒やしであり息抜きである、というアメリカ人が出ていた。昔はAppleの社員だったが、週の労働時間80〜100時間では自分の時間がまったくない、と言っていた。(日本に住んでるのではなく、はるばるアメリカから高円寺に浸るために来日する人だ。)

私は昔、中央線沿線に住んでたし、高円寺では買い物や飲み食いのほかに仕事もしたから、中央線でベストの場所は高円寺だ、と明言できる。町も人間もわりと自然体なところ、緊張や無理のないところが良い。吉祥寺なんて、最悪である(さつま揚げ屋さんと味噌屋さん以外は)。

その元Apple社員のアメリカ人のはしごぶりを見ていて気がついたのは、どの店のどのカウンターやテーブル席にいても、スマホを取り出す、いじる、光景がゼロのこと。

「今」「ここ」そして「ここの人びと」に、完全に浸るためには、スマホは、「今ここ」に対する失礼に相当する。これまた、他者不在の典型である。今のスマートフォン等は、コミュニケーションのためにあるのではなく、見ていると明らかに、『コミュニケーションから逃げるため』にある。昔のウォークマンがそうであったように。

ダメ人間、バカ人間、コミュニケーション忌避人間を量産している。

Appleを逃げ出したその人の将来はどうなるか。でも、そんな「リセット」が、今実は、全員に必要なのではないか。

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2017年4月 9日 (日)

いじめで自殺しないために

未来のコミュニケーション理論/コミュニケーション学のラフスケッチをやっているこのブログ(と前身のエッセイ集)で、もっとも重要な概念のひとつが「他者不在」だ。

他者不在とは、心が(脳が)、他者を他者として存在せしめていない、ということ。他者を、自分という毛布の中へくるんじゃっていること。そこから、いじめ自殺もそうだけど、ありとあらゆるコミュニケーション不能の悲惨が生ずる。

他者を他者として存在せしめるとは、他者をはっきり、くっきり、discreteに、自分と完全に切り離して、自空間でなく別空間に置くことだ。

いじめをする他者を、ちゃんと他者たらしめるとは、そいつを、「なに?この人?」といった、醒めた目、けげんな目、冷たい目で見ること。そうやって他者を自空間に置かず別空間に置けば、こっちの心も脳もいじめに対して反応しなくなる。ちょっと、蠅のようにうるさいだけだ。うるさいから、その場を去ればよい。あんまりうるさければ、究極の「去る」として登校拒否をすればよい(親や教師にちゃんと説明してから)。登校拒否には、親といえども、他人がとやかく言う権利はない。本人の自己防衛策だから。

自分にとって有益な他人(楽しい、おもしろい、ためになる、趣味が合う、やさしい、等々)だけと、つきあえばよい。あとは、無視、無反応が、心の健康の鍵であり、自殺へのドアのシャットダウンだ。そうやって閉じてしまえば、二度と開かない。

いわゆる人付き合いのヘタな人なら、自分のやりたいことに毎日没頭すればよい。そうすれば、それを通じて、いずれ、本当の友だちができたりする。

他者不在の逆の、他者が他者として存在するとは、他者を他者として“つっぱねる”ことである。いじめっ子のそいつが何を言おうと、完全に不感症、そして、無関心になることだ。完全に他人視、他者視する。そして、関心を持つ価値のあることだけに、関心を持とう!

いじめには、あなたが関心を持つべき価値がゼロである。だからさっさと無視、去る、逃げるが勝ち。

いじめをやる連中を、完全な他者として、別空間へつっぱねておこう。自殺しない、健康者であるために。

反応しておもしろいことだけに、反応しよう。くだらんことに、いちいち反応する、「心の無駄遣い」をやめましょう。

無価値なものへの反応は、泥沼の道だ。足を取られてしまって、人生を前進できなくなる。自殺へのドアが、あなたを招く。

自分にとって本当に価値のあるものにのみ、反応しよう。

そして、

他者は、別空間に置く。

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badさんも、えーかげんにして、もっとしゃんとしなさいよ! 

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