2018年12月 9日 (日)

犬が寝ていても他者不在だらけ: 改正入管法

これはあまりにひどい。
ものすごく苛烈な(そして多様な)「他者からの復讐」は必至である。

すでにR*****nなんか、プログラマーの過半数が外国人じゃん。
今からでも遅くはない。わしの本を一冊でも読め。
わしの生活を、すこしは楽にしてくれ。
…とは、もちろん、あくまでも暗喩的な言い方にすぎない。

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2018年12月 7日 (金)

犬が寝ていても他者不在だらけ

ここでの他者性を、全部ひっくるめて、「土地と人の霊」と呼ぼう。

「高輪ゲートウェイ」を、土地と人の霊は承認したのか?

いくらビジネス指向と言っても、他者性に根差さない名前、心のない名前は、なによりもまず、今後の長期的短期的ビジネスにとってネガティブである。

目先の浅い欲で、ますます無能な、どセンスの泥沼に落ち込んでいく、にっぽんのおっさん文化。救いようがない。

間に合えば、もっと美しい、日本語の名前にしてほしい。

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2018年12月 3日 (月)

社会病理学の研究方法

このところ出てくるのは、将来の課題ばっかしで忸怩々々だけれども(世界司法世界福祉もその一つ!)、小林久隆博士の、ノーベル賞を100あげてもおかしくないぐらい※のすごい発明は、ご本人が11年あまりも臨床経験(現場の医者としての経験)をされたことが生成の基盤として大きい、という気がする(化学療法や放射線療法で苦しむ患者を数多く見ている)。だいたい、多くの分野で、優れた基礎研究のためには研究者の少なくとも5年以上の、現場体験が必要ではないだろうか。〔※: ご本人は、大事なことはノーベル賞受賞者にならないこと、と仰ってるらしい。〕

しかし、フィジカルな病気というものには、いろんな意味でも「わかりやすさ」という利点がある。患者自身の苦痛や苦悩はもちろん、まわりの人間、まわりの社会全体としての大きくて明瞭な既知性がある。

ひるがえって、人類のコミュニケーション不能という社会的病理、そのものすごい量と質の悲惨残酷の積み重ねに関しては、その既知性はどうだろうか? 世界中のほとんどの人に、それが重大な病理であるという自覚はなく、戦争などの現場体験者においてすら、真の問題の認識はない。貨幣に関しても、貨幣自身を問題視するのではなく、自分(等)に貨幣(お金)がないことが問題だ(正しくない問題把握)。悲惨残酷は今なお、大小さまざまな規模で繰り返されているし、近未来遠未来においても繰り返されるだろう。

コミュニケーション不能は、ほとんどの人間がそれをまだ病理として自覚していない病理だ。一歩その深部へ突っ込んだ「他者不在」という伝統的脳不全現象においておや。

そういう、現状、どうしようもない分野における、有効な研究開発の方法は、なんだろうか?

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2018年11月30日 (金)

「測定」と「観測」

コミュニケーション研究の今後の重要な課題のひとつが、「他者不在が克服されたときの科学の形はどうなるのか」、その探究だ。数学、物理学、生物学等々は、どう変らなければならないのか。

これまでの科学は、自然を「対象」として把握し、それに対し操作的加工的にアプローチする立場が前提になっている。その姿勢を表すもっとも典型的な例として、自然の中に数はなく、数は100%、人間の脳内の観念であるにすぎないのに、科学は自然を数や数式によって表現し、把握しようとする。かくして、自然は人間の支配下におかれる(その結果、そのちゃちい傲岸な態度は、頻繁に他者からの復讐に遭う)。

自然は数や数式で表現把握できるようなちゃちいものではなく、それらは人間が作った勝手な像にすぎない。言い換えるとそれは、鏡の中に見る自分、「測定」と「観測」(という特殊ローカル態度、観念)が作り出している偏頗な像だ。

このブログや、その前身となるエッセイ集「コミュニケーション有能への進化」において、伝統的数学の立場を批判する試みを多少はしたけど、本格的な展開は今後のみなさまにお願いしたい。

自然と対立する、自然を疎外する、人間の旧来の生き方。その基盤となっている、旧来の科学。

地震や洪水など、大災害があるたびに思うのだが、自然がときに大乱動することがあっても、それらに悠然と揺られるがままに過ごし、乱動が収まるのを待つ、という生き方が、自然をきちんと他者として待遇する未来の科学、科学version 2.0によって可能になるだろう。

対立的構造の建物や都市や技術集積ばかり作るから、巨大で悲惨な被害ばかりが生ずる。むしろ、人間が自然の一部になりえる、地震では地球とダンスする、家造りなどがありえるはずだ。

旧科学はそろそろ、それが自然とするもの(object, 対象物)が、自らの観念が作り出している対立的「測定」と「観測」の像にすぎないことを自覚し、早々にv.2.0へと脱皮すべきである。

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2018年11月12日 (月)

「顔認識」のビッグブラザー的恐怖

今朝(11/12)の7チャンのニュース番組だったと思うが、中国で行われた“見本市”の会場ブースらしきところで、中国の某有力AI企業が日本の取材記者に対して製品をデモしつつ説明している。それは、いわゆる「顔認識技術」である。

デモでは、その企業のCEOか相当のえらいさんと思われる人物が、自分の20代のころの顔写真で当人を登録したシステムが、現在40〜50代と思われる本人を同定する/できることを見せている。

これは、この種のシステムのデモのやり方としては完全に不適切である。そのことを知ってて意図的にやったのなら、それは稚拙な素人騙しであるし、知らずにやったのならその人物は単なる無知なる馬鹿である。

このようなパターンマッチングシステムは、それを訓練したデータの量が多ければ多いほど、精度が上がる。だからその性能をデモするときは、同一性ではなく差異性をテストする必要がある。極端な例として、たとえば本人の双子の兄弟の、時期、衣装、撮影アングル、表情など完全に同じに見える写真を、本人でないと判定できるなら、相当精度が高いと言える。

極端に精度の低いシステムなら、人間の顔写真なら何でもその本人と判定するだろう。だから同一性は、デモのための素材としては使えない。

昔々プログラミングの勉強をしているとき、アルファベット大文字のAとBとCだけを認識するソフトウェアを作り、そいつにDを見せるとC、Eを見せるとBと認識した。もしもそのとき、Aを見せたらAを認識した等、同一性だけで満足していたら、今回のこのお話と同じになる。

また他方では、とても精度の高いシステムでチューニングが不適切なら、角度や明度や化粧など撮影条件が特殊な本人写真を、「当人でない」と判定するかもしれない。

昔、ロシアのヒコーキには乗るなって書いた記憶があるけど、ロシアにかぎらず自由と民主主義が広く定着していない国は、国民の脳が硬化萎縮してて、良い技術が育たないんじゃないの。でも現状がそういう国だからこそ、永遠に未完成な技術「顔認識」を強引に社会内に広く実装しようとしている、のかもしれない。おそろしい。

ひるがえって、日本は、本当の自由と民主主義が根付いていない国、と言えるかもしれない。非対話的/非会話的で、おとろしい投稿が多いもんな、ネット上も。

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2018年10月29日 (月)

錯覚錯誤としての反ユダヤ主義

かつて日本の被差別民が、役牛や農耕馬など動物の死体処理(という“汚い仕事”)をやらされていたように、中世ないしそれ以前からヨーロッパ各地では、金の取り扱い(という“汚い仕事”)は被差別民たるユダヤ人がやらされていた。その仕事は、今の金融業のもっとも素朴で原始的な姿だ。

そしていくつかの時代を経過すると、一般庶民に対する貨幣の支配力はいよいよ強くなってくる。常時十分な貨幣を持ちうるのは、ごく一部の層だ。

毎日苦しい一般庶民層は、苦しさ辛さの原因が貨幣、そして貨幣教の司祭たるユダヤ人にある、と考える。

(しかし当時ヨーロッパ社会で圧倒的多数のユダヤ人は、被差別民の貧民層である。)

ユダヤ人による金の支配が止(や)めば、われわれの暮らしは楽になる、と錯覚する。(キリストはユダヤ人が殺した、などと“余罪”がくっつくこともある。)

そこから、21世紀の現代ですらその勢力を失わない反ユダヤ思想が生まれる。

(対してユダヤ人側には、被害妄想的民族思想が生まれる。)

ドイツ極右政党は、ついに州議会に議席を取った。

ナチスの再興も、夢ではないかもしれない※。反ユダヤ主義や、排他的ナショナリズムの高まり〜凝り固まりは、困窮層や将来不安層の増加と相関している。だが、彼らが極右政党等に託した幻想は、寿命の短いかげろうにすぎない。本当は、もっとおそろしいものが襲ってくる。〔※: 今のAfDは反ユダヤを掲げている政党ではないが。〕

スケープゴートが何の意味も効果もない間違い、錯誤である、という意味で、すべての反ユダヤ主義とその言動は、完全なる間違いであり、完全に無意味無効果である。

しかし間違った敵、ではなく本当の敵に対して、多くの人類が立ち上がる日は、まだ遠い先だ。今世紀中は、無理かもしれない。人びとの苦しみはますます深くなり、そして広くなる。貨幣経済のグローバル化の進展と広域的細部浸透とともに。

すべての貧乏人個人が、この台風の中で無力である。難民(旅費が要る!)にもなれない貧乏人の方が、圧倒的に多い。

新しい地平を切り開くための現状のガラガラポンは、歴史的に、大規模な戦争に決まっていたが、そろそろ、そうでない解を歴史神は恵んでほしいな。


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2018年10月24日 (水)

そろそろインターネットを正しく理解しよう

今は大多数のおバカユーザーたちが、インターネットの誤解の上でインターネットを濫用している。

インターネットに対する唯一の正解は、それがコミュニケーションネットワークであること、である。言い換えるとそれは、対話と会話によりお互いの理解や成長に向かう道だ。相当長い延長線を引くと、コミュニケーションは貨幣トランザクションという過酷なノン・コミュニケーションをリプレースするだろう。しかしその話は、ここでは早すぎる。

おバカユーザーのもっともどぎつい例としては、無辜の人たちの斬首処刑シーンを、いかにも偉そうぶって投稿した某テロリスト集団が挙げられるかもしれない。対話会話がなく一方的という点では、毎日多い軽度のおバカユーザーたちも、これと同列に並ぶ。おめーら、ミニ・テロリストやで。

あの皇太子によって惨殺されたと思われているライター氏は、テロや軍事活動抜きのイスラム原理主義集団に属していたと思われる。それで嫌われた、と。

あのおバカテロたちも、暴力〜軍事行為を仮に全部削除して本質を見れば、それはイスラム原理主義の基本的な主張として共通項があるように思える。

ビルマのロヒンギャ族の問題の起源が、イギリスの植民地化活動にあったにもかかわらず、真犯人のイギリスは全然、解決に乗り出さない。

そして今のアラブ中近東が抱える問題も、真犯人たちはまったく解決に乗り出さない。そこでテロ活動が栄える。

テロや軍事活動の有無にかかわらず、イスラム原理主義は、イギリスやフランス等のヨーロッパ植民国家が作った今のアラブ中近東地区の形に、異議を唱える。

その形のアホらしさは、あれらの直線状の国境に如実に表れている。朝鮮半島を二分する直線が超アホなものであるのなら、現在のアラブ中近東の形もまた超アホの権化であり、ネイティブとしては異議を唱えることが唯一正しい。でも、テロは異議の形として有効でない。オサマビンラディンがどれだけ、サウジアラビアのアメリカ傾斜を憎んでも、彼がオサマビンラディン、すなわち暴力を有効と信ずる者であるだけで、多くの人が耳を傾けてくれない。怖いから、逃げるだけやでぇ。

今の異様な形をむしろ利している勢力は、あのライターのような人物が煙(けむ)たい。殺して消してしまう方が、そっちとしては楽で簡単だ。だが、インターネットの本質を理解せぬままインターネット産業に巨大投資をしようとするバカ者たちには、不正義の殺人が怒れる敵を大量増殖する行為であることが理解できない。その愚行を、藪をつついて蛇百万匹と呼ぶのだ。

そう。次世代のヨーロッパ人は、ええかげん、ものごとの本質を理解せんとだめですよ。テロの根っこの本質を理解しないと、テロはえんえんと続きます。数を増し、一層過激化するでしょう。そして一方しかし、アラブ中近東の人たちも、積極的に世界との会話を志向すべきだ。

あの皇太子とあのライターは、インターネットの上で、尽きることのない対話と会話を繰り広げるべきだったのだ。どっちかが他方を単純に批判したり物理的に消し去るのではなく。

その尽きることなき会話は全世界で最高の視聴率を稼ぎ、旧宗主国の連中はお粗末な旧悪を大反省し、世界は快癒に向かうだろう。もちろん、今からでも遅くないし、この問題に“遅すぎる”ということはまったくない。

そして、インターネットを本物のinter-netにするためにこそ、巨大投資を。

今の悪無限のような混乱は、子どもたちにとっても全然良くない。


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2018年10月20日 (土)

世界司法はない。何度繰り返してもないものはない。

国家の最上位権力に位置する者が、犯罪者でない人間を法の認可なく拘束して、拷問の挙句、生きたまま斬殺することが放置放任されるのは、「国」と違って「世界」には司法とその法執行力が皆無だからだ。国は人を制御しうるが、世界は国を制御できない。やりたい放題である。

それは、前にも書いたとおり。

しかも例によって彼らの脳は完全な他者不在だ。面倒な他者は殺せばよい。

世界には司法がない。だからいわゆる拉致問題にも解法がない。

まだ人類社会は、原始の粗放状態である。と見なすしかない。

世界司法ということを、問題視している人たちは、すでにかなりいると思うのだが。

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2018年9月30日 (日)

Webに固執すべきか?

World Wide Web…HTTP/HTMLを作った元祖Tim Berners-Leeが、まともな人間なら誰でもそうであるように、Webの現状に幻滅し、Solidという分散型プラットホームを提案している。

その詳細はここでは述べないが、問題と思うのは、それがWebをベースにしていることだ。

私の長年の視点は、「いろんなインターネットアプリケーション==いろんなネットワーキング形式がありえる。Webはそのひとつにすぎないし、しかもそれは良質なネットワーキングを作り出せない」というものだ。Webは、経験者はみなご存知のように、パブリシングとブロードキャスティングに向いている。

私は、Webをインターネットの古語として葬り去り、本当に個人が自主的主体的なノードであれるネットワーキングアーキテクチャをインターネットの主役にすべき、と信じている。

(続きは、また後日。)

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2018年9月26日 (水)

「自己は他者である」自覚のための補論

最近は食品のウェイスト(waste, 無駄な廃棄)が問題になっているが、これは、本論の基本概念のひとつである「差異」の表れのひとつにすぎない。

今日ここで取り上げたいのは、生物(動植物)の子孫のウェイストの膨大さだ。

たとえば、果実系の木だと、豊作の年なら、まず春に大量の花が咲く。

・かなりの数の花が落花する。

まず、ここでウェイスト。

次に、蜂や蝶のおかげで受粉に成功した花は雌蕊が果実に変身していく。

・ビー玉より小さな果実が、大量に落果する。

ここで、第二のウェイスト。

一応成長した果実の中には、ひとつひとつの中、そして全体として、大量の種子がある。

・その全部が芽生えて成木になる、とは考えられない。

しかも、大量に生った果実の、

・すべてが種子を大地に播種するとも考えられない。

そして果実の大半ないしすべては、糞をあちこちにばらまいてくれる動物ではなく、人間が食べてしまう。

・種子はゴミ処理場や下水道へと消えていく。

というわけで木が産み育てる子孫はほとんどすべてがウェイストである。しかもそれは、膨大な数のウェイストである。

ひるがえって、動物、たとえばヒトの場合、生涯に一匹のオスがウェイストする精子の数と、一匹のメスがウェイストする卵子の数も、かなり膨大だ。特定のヒトオスと特定のヒトメスの精子と卵子の膨大な数の‘組み合わせ’のうち、ウェイストにならない、すなわち発生する組み合わせの数は極少だ。あとは全部ウェイストである。

その希少な組み合わせの中の『特定の』たったひとつが、めでたく(?)自己である確率はきわめて低い。

というわけで、自己というものが存在するに至る確率は、ものすごくものすごく低い。

その低さを考えると、自己というもののない宇宙ないし世界が、正常な世界ないし宇宙である。自己が再生する確率も低い。何に再生するのか。木にか。草にか。虫にか。遠くの宇宙の未知のイキモノにか。いずれにしても見た限り、全生物、子孫のウェイストは甚だしいから、無事に生成する彼らの子孫のどれかに自己が再度宿る確率はきわめて低い。もちろん、ウェイストがまったくなくても、その確率の低さは変らない、(と思うしかない)。

しかも、自己の記憶は継承されないから、何かに宿って再生したとしても、それは「アノ自己である」という認識を持てない。言い換えると、再生しなかったのと同じである。

というわけで、自己というもんは、わけのわかんない、けったいな、他者である。そのすべての鍵は、自然がその秘密のふところに握っている。どうにでも、してちょうだい。


・生物は子孫のウェイストがとても多い。
・無事に発生した少数の中に自己がいる確率はとても低い。
・今ある自己も、とても低い確率の産物である。
・自己の再生成の確率も、きわめて低い。
・再生成したとしても、自己同一認識はゼロである。
・そこで事実上、実質上、今ある自己が、何千億年の全宇宙史における唯一の自己である。
・だからそれは、とんでもない、謎の、わけわからん、「他者」である。

ほとんどありえない再生成であるが、とにかく人間という愚かすぎる酷悪な動物への再生成だけは、絶対に御免被りたい。その歴史も現状も、ひどすぎる。その多くの個体(とくにオス)の脳に、「他者不在」という重大な欠陥が定在している。進化して、それがなくなった状態を、見たくもあるけど…。

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追記(2018/09/30):
夕方以降、台風の中を犬と外を歩くのはやめたいので、まだ明るい時間に前の草むらでおしっこをさせた。家の中へ帰ってくると、私が着ているシャツやパンツ(チノパン)に、大量の草の種が付着している。数十ではなく、数百のオーダーだ。ガムテープでは取れないので、ひと粒ひと粒指で取る。これだけ子孫を乱造するのは、動物の体に付着して運ばれてめでたく芽生える確率がとても低い、と自覚しているからだろう。この草にとって、あるいは自然にとって、個体は全然大事でないようだ。全然大事にされない大量のウェイストの中で、たまたま生きられた「自己」、なんとあやうい、はかない、存在であることか。

そういう希少な者同士が、真剣に殺し合うなんて、やはりこれまでの人類はアホである。


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