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2022年5月27日 (金)

論理力の貧困を解消せんとやばい!

具体例はあまりにも多すぎるので、ここではあえて、非常に形式的抽象的に書きたいと思うのですが、インターネット上の粗悪投稿で多くの比率を占めているのが「論点の勝手なずらし」です。このブログのコメント欄も、ときどきこの種の無用な論理汚染の被害者になっています。

それは最初の投稿者がxyz(abc)、すなわちabc文脈におけるxyzについて書いていると、それへの応答としてxyz(def)、すなわちdef文脈におけるxyzを論じて、最初の投稿者への批判や反論とするものです。批判の対象となっているxyz(def)の発言者は、その時点ではあたりにいませんから、それは、存在しない者に対する批判反論等となります。

彼彼女は、自分の想像に中に作り出した、実在しない、仮想の敵を叩いています。言葉遣いだけは、妙にいやらしいものや、険悪or高圧的なものが多いです。そのような言葉を他人に対し威圧的に使うことに、なにか快感があるのだろうか。

というか、彼彼女は、xyzがabcという文脈で存在する、自分とはまったく異なる、他者の存在を想定想像できない。世界の全員がxyzといえばその文脈は誰しもdefだ、と勝手に信じている。

すなわち彼彼女は、def村の村民であり、ココロとアタマがその村から出ていない。xyzと言えばdefのそれに決まっている、というアタマしかない。そのココロとアタマの中では、人間像が多様化していない。

そんな人物が国の独裁者だと、怖ろしいことになりがちだし、日本でも近い過去にそんな怖ろしい状態があった。昨今のいじめも、村人による非村人に対する虐待行為が多い。

オリジナルの発話者はXYZという含意でABCという言葉を使っている。ところが聞き手や読者の某氏はそのABCをPQRという含意へと理解つまり誤解し、その誤解に基づいて発話者を非難したり、間違った了解を持ったりする。

システムの不祥事の連発がめちゃくちゃ多かったみずほ銀行に、金融庁監督局というお役所が業務改善命令を発行しているが、その説明文書「みずほ銀行及びみずほフィナンシャルグループに対する行政処分について」(R3 11月26日)の中で不祥事連発の「真因」を4点挙げている:

(1)システムに係るリスクと専門性の軽視
(2)IT現場の実態軽視
(3)顧客影響に対する感度の欠如、営業現場の実態軽視
(4)言うべきことを言わない、言われたことだけしかしない姿勢

とくに最後の(4)がおもしろいが、上記4項とも、コミュニケーション能力の貧困、コミュニケーション能力の、最初からのやせ細りが原因だ。巨大銀行3行の合併が孕む、複数の強力な村根性が、全行的コミュニケーション貧困の原因だったかもしれない。

それら不祥事の多くには、過負荷状態の予知対応能力の欠如が関係しているようだが、世界観の狭い村人根性がここにも関係しているかもしれない。本当のシステム統轄者が、いなかったみたい。

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2022年5月18日 (水)

今月のポジティブ(2205-1): 市民と政府の両方に説明責任がある台湾のデジタル化

この記事は台湾のデジタル相オードリー・タン氏とジャーナリストの堤未果氏の対談ですが、台湾における社会的デジタル化の進め方の部分が興味深いので、このリンクが壊れていてもどこかで探し出して読む価値はあると思う。

私の昔々の訳書に「IBMコンパチ機の作り方」というのがありまして、今なら‘コンパチ機’のところは‘互換機’になるでしょうが、なにしろこれは、IBM PCと同等のPCを自作手作りしよう、というアメリカで出版された一般大衆向けPC本の訳書です。手作りパソコンのベースとなる部品はすべて、台湾製です。

かんじんなのは、こんな本が日本やアメリカで出版され、多少売れるのは良いとしても、手作りPCを作るためのパーツやコンポーネントはこの日米二国ではまったく作られ売られていないことだ。当時からすべて、台湾製だ。(メモリやプロセッサーなど汎用・多(他)用途の半導体は日米の大手が作っていたが。)

そして今や、半導体でも最終製品(PC、スマホ等)でも世界のトップは台湾勢ないし、中核の部分に彼らがいる中国勢だ。

私が言いたいのは、「草の根の威力」ということ。

そしてここで取り上げる台湾の社会的デジタル化も、草の根的であること。そのため、個人が社会に対して責任があると同時に、社会(〜政府)は個人に対して責任がある。そんな構造の実装として、デジタル化を進める。

非常に単純化して言うと、既存の分厚い産業構造があって、そこに潜り込むための競争に勝つこと(==競争社会)が人生の目標とされる日米と、何もないから自分で何かを作り出さなければならない台湾の違いが大きい。(ただしアメリカでは移民やその子孫という、非体制的な部分がある。そこが移民排除国ニッポンと大きく違う。)

新しいものが生まれ育つのは、当然、既存部分が希薄な後者からだ。そこでは政府など上部構造が強いだけでなく、平等に民間部門も強い。両者同格になり、同格をベースにシステムが構想され実装される。

そして、日本のデジタル庁という、わけのわかんないお役所は、「国民総参加」という匂いがゼロで、従来のお役所仕事を、論理構造は既存のそのまま、機械化合理化効率化する、程度の匂いしかない。新しさや、それに対する期待がない。

情報化、コミュニケーションの全面的円滑化を、狭い牢屋に拘置したままで推進されるお役所仕事のデジタル化。夢がない。とくに国民の側の。

(競争社会で勝ち抜いてきた連中ってのは、それが社会の揺るぎなき骨格である、という視野しか持ち合わせていない、と思われる。)

というわけで、これからの日本の子どもは、今のこの国の狭域的競争社会にバイバイ別れの手を振って、広域的参加社会を目指した方がええんとちゃうかな。草の根が、まず徐々に、グローバルに散在的に作られていけばよい。

 

 

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他者不在: 子ども編

いまどき、こんな話を書くのは遅すぎるかもしれないが、でも数名の読者の今後の生活の役には立つかもしれない。

子どもは、自分が今いる環境の構造的・論理的な把握力理解力が未熟なので、自宅までほんの数メートルの距離でも迷子になってしまい、あらぬ方向へどんどん行ってしまい、より深刻な迷子になってしまうことがある。

重要なのは、外では「絶対に子どもから目を離さないこと」である。うかつに、子どもの認知能力を過信してはいけない。

車の教習所では、「だろう運転をしてはいけない」と教わるし、とくに子どもや高齢者は「次の瞬間に何をするか分からないし、彼らが次にどう動くかを予測してはいけない、予測に基づいた運転をしてはならない」と叩き込まれる。外で子どもから目を離すことは、たとえ一瞬でも、これと同種の危険を招くことになる。

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2022年5月11日 (水)

他者不在: 戦争編

平凡で普通の常識人として今回のロシア→ウクライナ侵攻を見たとき、いちばん気になるのは、ミンスク合意(「ミンスク議定書」)と呼ばれる合意事項を一方的に無視したU側に事件の責任はないのか、ということだ。そして、プーチン氏は、合意の破綻が侵攻のトリガ(引き金)だったと公言している。

これまでの報道では、U側がその議定書を無視し守らなくても当然、と言えるほど(世界が公認できるほど)の状況はなかったようだ。当初、東部の一部集団の暴走としても、U政府はそれを抑止しなかった※。事態は破綻へと向かっていった。

※: そこでプーチン氏から「ネオナチ」とか「テロリスト」などとレッテルを貼られる。とんでもねーと思っても、何しろ相手の受け取り方がそうなのだ。

議定書の無視にアメリカがどう関与したのか。「そんなのいいよいいよ、無視無視」と米がU政府上部に対して言ったのなら、米は重大な共犯者だ。合意を無視した状態を問うことなく、武器だけをぎょうさん提供し続けている現状も、ある種の共犯行為と言えるかもしれない。

いずれにしても、U現政権や米のように、「そんなの、大したことあらへん」という気持ちと、彼らにとって他者であるR側の受け取り方には、すごい厳しい乖離がある。他を理解するとは、そういうこと。

言うまでもないことだが、自分だけの一方的な気持ちというものは、全世界に通用しないのが普通だ。国家の立派な政治家であり、またその優秀なヘルパーでありたいのなら、自分らとは違う「他」をよく理解することが、良い政治、良い外交の第一歩ではないか。

追記(220512): ウクライナの学者や研究者の中にも、今のゼレンスキー大統領を「彼のやり方ではいかなる外交的解決や政治的解決にも行きつかない」と批判する声がある。たとえば、Olga Baysha氏

 

 

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