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2021年6月27日 (日)

ある時代の終わりが訪れている

「ユニクロ」と「しまむら」の重要な違いは、後者には商品の自主企画品がないことである。対して前者は、ほぼ全品目が自主企画品である。つまり統一されている。そこでわれわれの心中に必然的に生まれる感想が、「ユニクロの品物はつまんない、おもしろくない」という感想だ。逆にしまむらに品物を納めているのは、日本の中小企業基盤を支える雑多な無名メーカーであり、そこの無名の若手がクリエイターとしてデザインした、お客へのアピール度を最大限意識した製品だ。彼らの開発力やデザイン力はユニクロを明らかに上回っており、「たのしくてかわいい」ものが多い。売れなければ困る製品を、もっぱら企画しているからだ。

「しまむら」の力は個がそのベースであり、対して「ユニクロ」の力は大戦車群的な企業力だ。無難な、おもしろくない製品ばかり作っているから、今の、個としては無表情な、貨幣経済奴隷たちによく売れている。世界的に圧倒的に、個が目覚めたとき、ユニクロ的企業は崩壊する。

おもしろいことに、若い女性を中心とする「ダイソー」のバイヤー(商品企画者)たちにも、「しまむら」に納品する無名中小企業と同じような、アピール度を奪い合う競争があるようだ。それは、また別の機会に論じよう。

そして、今回の本題。

外食チェーン店の従業員の不祥事がよく報道される。でも外食チェーン店を利用するときは、何を食わされるかわからんことを覚悟して利用すべきである。

個々の店の、作る側、売る側に、「個」がまったくいない。

そして、仕事は毎日、退屈でつまんない。誰がどこでどうやって作ったか分からんようなラーメンのスープに、自分のションベンを入れたくなるのも無理もない。食う方も、あらゆる可能性を覚悟して食うべき。

そこで、前から言っているように、外食店はすべからく、大規模チェーン店を全禁すべきである。外食店はすべからく、個人店であるべきである。資本側は、それへ向かって資金援助をしていく。

キッチンは、経営管理をクラウド化したいわゆるクラウドキッチンにして、1棟に6〜10キッチン+客席とすればよい。細部は今後詰める必要があるが、自分がおいしいと自信のある自分の料理を作る「個」が、そこに6〜10人入ることになる。店舗を借りるよりは、あらゆる意味で経常経費が安くなる。自分の自信の「作品」だから、カレーに鼻くそを入れるような不祥事は今後いっさい起きない。

食べ物を作って人に供する仕事は、100%楽しい、クリエイティブな個の仕事であるべきである。

今の人類がほとんどまだ気づいていないのは、これからの人類社会の唯一最大の(多義的意味での)金鉱が、「個」とその能力開発であることだ。それは、個を資本の下に大群のように吸着し、無個として扱うこれまでの資本の自然な動きの、真逆だ。とりあえず、全員が受験勉強と大企業大組織就職努力を完全に足蹴にしなければならない。そして個としての自己の能力開発に励むのだ。人間は、大きな花畑に咲く花のように、美しく咲き誇るだろう。

今の現実は、社会も経済も、個を腐らせるもので満ち満ちている。腐った個のさまざまな腐った行いも、満ち満ちている。

このブログのテーマである「コミュニケーション」は、A: 脱他者不在、B:個の顕現、この2点が最重大なベースである。論理的に言えば、BはAの派生項の一つにすぎないが。ちなみに、個の顕現については、昔ジーザス・クライストという人の言った「人はみな、一人一人が直接、神の子である」が、今のところ最初で最後の(ただし必要な深さを欠く※)発言だ。あれは、教団というものの全否定なんだな、チェーン店ではなく。

※: これまでの有力思想家全員と同じく、コミュニケーションという問題意識がゼロ。マヤ人などとは逆に、相当早い時期に宗教階級の支配から自由な「近代人」を定義した革命家だが、その自由が何をする自由だったか、その惨状は今さら言うまでもない。

 

 

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2021年6月23日 (水)

今月のポジティブ(202106r2): 都知事静養

これがオトコ(==クソオトコ)なら、本人が不可逆的症状へとぶっ倒れ、何万という周辺犠牲者が出るまで盲目的邁進を続けただろう。こんなポジティブネガティブな意思決定が今後続発してほしいね。

 

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2021年6月14日 (月)

今月のポジティブ(06r1): 女王がジョークを言う文化

前回に続いて今回もエゲレスの女性ですが、前回ほどお若くはないが、ココロザシはお若い。いきいきしてる。

状況はこのビデオなどで分かるが、G7首脳会議の初日の記念撮影は、全員がかっちりソーシャルディスタンスをキープした座り方をして、最後に最前列中央にホストの儀礼的代表者である女王が座ろうとする。そのとき彼女は、

Are you supposed to be looking as if you’re enjoying yourself?

と一発やらかす。

これをGoogleの翻訳は「楽しんでいるかのように見えるはずですか?」と訳し、みらい翻訳のお試しバージョンは「楽しそうな顔をしていますか?」と訳す。どちらもジョークの感覚が生きていない。enjoy oneselfは楽しむを意味する熟語だし、疑問文are you supposed to be lookingは、そのように思われるか、見えるかという意味。どのようにというと、as if you’re enjoying yourself、あたかも楽しんでいるかのように、だ。

  ・Are you supposed to be ... あなたは〜〜だと思いますか

  ・looking ... 見える

  ・as if you’re enjoying yourself ... あたかもあなたは楽しんでいると

私なら超意訳で、

それでみなさん、楽しんでると思われるお顔かしら?

それで、楽しく見えるお顔ですか?

とかやるかもしれない。

横にいて一瞬虚を突かれたジョンソン首相は、

Yes definitely. We have been enjoying ourselves in spite of appearances.

と女王に答えている。「もちろんですよ。顔は無愛想でもみんな楽しんでいます」、ぐらいか。

日本の皇族の中ではときどき秋篠宮さんがジョークを活用しようとするが、記者たちは無反応でシーンとしている。ジョークの出来は、ごく普通だけど。

もっぱらシーン粛々とした--活発オープンな対話性会話性のない--中で霞が関や永田町ではおかしなことばかり進行し、メディアも含め批判勢力は弱い。日本では、若々しい活発な、フレンドリーで動きの軽いコンピューター文化ネットワーキング文化は永遠に勃興しないか? イギリスと逆に、多民族化を永遠に拒んでいるようでは。

 

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2021年6月12日 (土)

一応言っておく

無名個人が何を言っても効果がない日々が続いておりますが:

1)自宅感染(者)が非常に多くなっているのに、初期の韓国のような初期感染者の隔離受け入れ体制がないので自宅感染は今後も増える。

2)さらにプラスして、入院不能につき自宅で死亡する人も増えている。入院は物理的リソースの不足+人的リソースの不足+人的リソースの疲弊でますます不可能が増える。「1日36時間労働」で、疲弊は限界に達しつつある。

私なんかも感染発病したら、上の1+2になることはほぼ確実。家族とまわりにも広がる。

愚かな愚かな固執により、若者の無駄死に(特攻隊等)+原爆投下に至った昔と似ている。

あるいは、あんな海辺に大丈夫大丈夫と原発を作った愚かさにも、似る。

自動車運転教習所に並んで、政治家教習所がぜひ必要では、この国では。おそまきながら。

偶然の幸運を祈るしかないか…。

●そもそも病気のときは医師の判断に従うのに、今回は医師が医療ドシロートどもに馬鹿にされ無視されている。それを、異常、恐怖と思わぬ異状!!

 

 

 

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2021年6月 6日 (日)

スポーツがまるで免罪符であるかのように

この場合の「罪」とは、何のことだろう。それは、相当大きな広範囲的な総称的名詞であるところの「lie」だ。これを日本語の「うそ、嘘」と訳してしまうと、元の「lie」に込められている意味は全然失せてしまうから、「lie」を使うしかない。

「欺瞞」なら、ややましかもしれない。

lieから意識を逸らすという意味でのガス抜きというかカタルシスの役をスポーツに負わせるためには、スポーツが定常化していなければならない。

古代ローマにはある種の残酷なスポーツが定常化していたようだが、それも含めて、今ほど大々的にスポーツが定常化している時代が、今の現代のほかにもあったのだろうか?

それは、ある普遍的で強力ななlieの広域的な定常化と重なる時代でもある。

これ以上しんどい話をしてもしょうがないけど、スポーツが良い意味を持つのは、それを真剣に、あるいはスポーツの原義である遊びとして、やってる当人においてのみだ。

ひまな人には、いじめと難病の両方を克服したこのお話 をおすすめしたい。

※: スポーツ番組がやたら重厚なNHKの’罪’は、放送権の半独占か。

 

 

 

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2021年6月 3日 (木)

丸楠の古色蒼然

いまどきまだ丸楠なんて、人びと(onlyオトコ?)の意識が全然進化跳躍してない光景で、見るのもつらい。

丸楠には、コミュニケーションという問題意識がゼロ。

ゆえに、貨幣がコミュニケーションの様態であることが見えない。正確にはそれは、コミュニケーションの不具不能の様態である。

貨幣は、コミュニケーションモードでなく戦闘モードで流布する。それは、差異の戦い(闘い)である。差異をめぐる戦い。

ゆえに彼が「搾取」と呼ぶものは、貨幣に貨幣としての価値(==差異)を持たせる当然の運動である。搾取が、差異の階層を現前せしめる。搾取なくして貨幣の価値なし。

貨幣の悲惨を見て、それをなんとかしようと考えるのは間違い。

貨幣の悲惨を見たら、なんとかしてそれを超克しよう、なしにしよう、と志さねば。

貨幣を肯定するかぎり、それは差異の悲惨を肯定しているのである。

オトコは馬鹿だから、それを自覚しない。

さしずめ、差異の遺漏、(水漏れ)という福祉的手段しかなくても、なにもしないよりマシ。

 

 

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