ある時代の終わりが訪れている
「ユニクロ」と「しまむら」の重要な違いは、後者には商品の自主企画品がないことである。対して前者は、ほぼ全品目が自主企画品である。つまり統一されている。そこでわれわれの心中に必然的に生まれる感想が、「ユニクロの品物はつまんない、おもしろくない」という感想だ。逆にしまむらに品物を納めているのは、日本の中小企業基盤を支える雑多な無名メーカーであり、そこの無名の若手がクリエイターとしてデザインした、お客へのアピール度を最大限意識した製品だ。彼らの開発力やデザイン力はユニクロを明らかに上回っており、「たのしくてかわいい」ものが多い。売れなければ困る製品を、もっぱら企画しているからだ。
「しまむら」の力は個がそのベースであり、対して「ユニクロ」の力は大戦車群的な企業力だ。無難な、おもしろくない製品ばかり作っているから、今の、個としては無表情な、貨幣経済奴隷たちによく売れている。世界的に圧倒的に、個が目覚めたとき、ユニクロ的企業は崩壊する。
おもしろいことに、若い女性を中心とする「ダイソー」のバイヤー(商品企画者)たちにも、「しまむら」に納品する無名中小企業と同じような、アピール度を奪い合う競争があるようだ。それは、また別の機会に論じよう。
そして、今回の本題。
外食チェーン店の従業員の不祥事がよく報道される。でも外食チェーン店を利用するときは、何を食わされるかわからんことを覚悟して利用すべきである。
個々の店の、作る側、売る側に、「個」がまったくいない。
そして、仕事は毎日、退屈でつまんない。誰がどこでどうやって作ったか分からんようなラーメンのスープに、自分のションベンを入れたくなるのも無理もない。食う方も、あらゆる可能性を覚悟して食うべき。
そこで、前から言っているように、外食店はすべからく、大規模チェーン店を全禁すべきである。外食店はすべからく、個人店であるべきである。資本側は、それへ向かって資金援助をしていく。
キッチンは、経営管理をクラウド化したいわゆるクラウドキッチンにして、1棟に6〜10キッチン+客席とすればよい。細部は今後詰める必要があるが、自分がおいしいと自信のある自分の料理を作る「個」が、そこに6〜10人入ることになる。店舗を借りるよりは、あらゆる意味で経常経費が安くなる。自分の自信の「作品」だから、カレーに鼻くそを入れるような不祥事は今後いっさい起きない。
食べ物を作って人に供する仕事は、100%楽しい、クリエイティブな個の仕事であるべきである。
今の人類がほとんどまだ気づいていないのは、これからの人類社会の唯一最大の(多義的意味での)金鉱が、「個」とその能力開発であることだ。それは、個を資本の下に大群のように吸着し、無個として扱うこれまでの資本の自然な動きの、真逆だ。とりあえず、全員が受験勉強と大企業大組織就職努力を完全に足蹴にしなければならない。そして個としての自己の能力開発に励むのだ。人間は、大きな花畑に咲く花のように、美しく咲き誇るだろう。
今の現実は、社会も経済も、個を腐らせるもので満ち満ちている。腐った個のさまざまな腐った行いも、満ち満ちている。
このブログのテーマである「コミュニケーション」は、A: 脱他者不在、B:個の顕現、この2点が最重大なベースである。論理的に言えば、BはAの派生項の一つにすぎないが。ちなみに、個の顕現については、昔ジーザス・クライストという人の言った「人はみな、一人一人が直接、神の子である」が、今のところ最初で最後の(ただし必要な深さを欠く※)発言だ。あれは、教団というものの全否定なんだな、チェーン店ではなく。
※: これまでの有力思想家全員と同じく、コミュニケーションという問題意識がゼロ。マヤ人などとは逆に、相当早い時期に宗教階級の支配から自由な「近代人」を定義した革命家だが、その自由が何をする自由だったか、その惨状は今さら言うまでもない。
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