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2020年11月29日 (日)

今月のポジティブ(2020/11n2): 山内幹子さん

 

米側が隠しおおせようとした原爆小頭症の存在を証拠資料と共に暴露した内部告発者だけど、当時ABCC(原爆傷害調査委員会)には日本人男性の職員も多数いたはずなのに、若い被爆者女性が単独で内部告発行為者になったことに、本ブログの趣旨とも重なる、いわく言い難いものを感ずる。

ちなみにABCCの建物があった比治山は、広島市のほぼ中央部のやや東寄り、標高70mの小高い丘で、小学校のときの遠足でよく行った。当時は、頂上の森の中の白いきれいな建物として、それはあった。

 

原爆傷害調査委員会
原爆傷害調査委員会
原爆傷害調査委員会
原爆傷害

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2020年11月28日 (土)

他者不在、地雷原のような欠陥論理

某政府高官「Go Toは単なる移動なので、それが疫病の感染源になることはありえない。」

…GoToは周辺に多様な要素がくっついたひとつの「全体」なので、りっぱに疫病感染源になりうる。彼らはつねに、holisticな視野を欠いている。

説明責任無視総理大臣「GoToが感染拡大の原因というエビデンスはない。」

…それは、原因ではないエビデンスとセットになってないと、単なる個人的愚言である。

子どもにも分かるメカニカルな製品で大きな経済を築いた日本を、エベレスト山頂の小石にたとえると、今その小石は斜面を急落してインド洋の深海の底へ落ち込もうとしている。その原因は、論理音痴。すなわちコンピューターフォビア(phobia)。一般的な論理の無視。勝手な共同体的恣意性のみが通用するローカル世界。

ものごとを正しく論理的にとらえる能力、正しく論理的に理解する能力、これらに関して現代の日本人の多くはその能力が幼児以下に未発達で、端的に言うと「馬鹿」である。特殊な人を除いてはプログラミングの能力が身につかず、また他人が作ったシステムを、その論理的な構造を、正しく理解あるいは想像する能力もない。一般メディアに、そういう視点もない。一部の、きわめて消費者フレンドリーなシステム製品の盲目のユーザーでしかない。…という、一種の飼い殺し。

総理大臣、国の政治的トップが、説明責任コンプライアンスに関し傲岸に拒否を押し通すなど、いわゆる先進国ではありえないだろう。あの、太平洋の向こう岸の乱暴なおっさんですら、そんな態度は想像できない。そんな態度が、国民一般に、子どもたちに、蔓延したらどうするのだ。コミュニケーションが主流になっていく世界で、日本はコミュニケーション拒否の国になっていく。

●当時の指導部は核爆弾の威力をどの程度知っていたのか。せめて、広島の直後になぜ、全面敗戦を申し出なかったのか。

●地震や津波の常襲地域の海岸に原発を建てる決定は、いかにして成立し通ったのか。

維新時の幕府の下っ端役人たちも、自分たちのヌクヌクした既得権益を失いたくなかったのだろう。たまたま、上に開明の人がいたから、戦火による壊滅は免れたが、今転がり落ちている日本は、最終的な没落の前に立ち上がれるか?

 

 

 

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2020年11月21日 (土)

他者不在、観光編

観光業は彼らの大スポンサーである。毅然とした政治家がいないと、ぐじゅぐじゅクラスターになる。

 

象徴的に: 地域を観光の対象でなく、他者としてリスペクトせよ。今や、あちこちで観光公害が蔓延。

 

観光を禁じ、カネとヒマと体力知力の余っとる人は、ボランティアに行くべき。その方が、他郷のメシもおいしいで。

 

 

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2020年11月20日 (金)

日本もいよいよヤバそう

ついにやっと、医師会会長が「Go Toはやめてくれ」と言ったらしい。あれ(ら)は、特攻隊とか戦艦大和みたいなもんで、無理、無茶、無意味、人命の無益な無駄遣い。政治家の自己満足。一方、(全部合わせれば)最大のクラスター、家庭・家族感染の無視放置は、沖縄、広島、長崎の徒死クラスになりうる。

有効な対策は人材の確保配置がいちばん難しいが、規模がもう手遅れ、とならないうちに、なんとか立ち上がるべき。総理も含め全閣僚を非議員の女性にして。

お金は、MMT(のようなもの)で、十分確保できる。

 

 

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2020年11月16日 (月)

他者不在、恣意的に矮小化されている自然

この稿は、別のタイトルをつければ「大きな(本物の)自然を愛すること」となる。

一方、小さな自然は、誕生-生-死のワンセットの中で死だけを除外しようとする。死をネガティブなものとして扱う、死を排除し、死を忌み嫌う。

むしろ死を、本物の自然==大きな自然の当然の一部として受容する、大きな自然を抱擁し大きな自然に抱擁される、文化に変わるべきではないか。死が、自然のごく自然な一部であることは、秋の蟬の死に方などを見てると自然にそう思えるが、蟬にくらべてちょっと図体のでかい人間はそれに代わる方式を作り出し、普及する必要がある。

今のところ私にも、名案、迷案ともにないが、お葬式を、からっと乾いた、明るい、楽しい時間にすることも重要だ。死をディスラプトした、新感覚の葬儀屋さんよ、出でよ!。

それと、人身売買ならぬ臓器売買の噂もある昨今、年配の病人は臓器移植に固執せず、自分の死を大きな自然の自然な一部として淡々と、自然を抱擁し抱擁される喜びをもって、受け入れるべきだ。

死をネガティブ視するかぎり、死は無と暗黒の他者不在に置かれる。今の、葬式と呼ばれるセレモニーは、ほとんど、良質な、楽しくて感動する催しとは言えない。

 

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2020年11月14日 (土)

今月のポジティブ(2020/11/n1):お隣の尾﨑さん

猫に対する愚かな残酷の数々はいちいち言挙げする値打ちもないが、隣のMさんは大量、50本ぐらいの大きなペットボトルを並べていた。まあ、残酷には当たらないかもしれない。

最近その家に越してこられた尾﨑さんは、4歳の子どものいるサラリーマン世帯が、どちらかのご両親を入れた三世代家族になるべく、その中古家屋を買ったようだ。

通常、おざきさんは、尾崎さんと書くのがふつうだが、尾﨑さんは珍しく、「大」の字ではなく「立」の字が「可」の上にある。

ご一家は、お子さんも含め、ふつうに動物好きの家族のようで、当方もほっとしている。そしてその尾﨑さんは大量のペットボトルをすべて処分してしまった。二日後は、資源ごみ回収の日だ。

犬と猫は、単純な動物問題ではなく、人類に飼養責任のある動物である。それに対し、他社不在を貫くのは容易で安易だが、そのつけは必ずめぐってくる。

とにかく、大量のペットボトルが消え去って、あたりはふつうに健康的な雰囲気になった。アホな人類という動物も、世代という歯車の回転で、微量ずつ良くなっているのかもしれない。でないと、「ポジティブ」の企画の意味もない。

 

 

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