今月のポジティブ(2020/08-n1): ALS当事者で医師の竹田主子さん
誰もが、生ある間は真剣に生きる義務と責任がある。死は、他者である。自己化するのは、間違い!
それは、ローカル共同体において、およびそれらを束ねた国家において、すべてのものごとが、コミュニケーションによっては決まらないからである。何によって決まるかというと、権力構造や既存の人間関係、その価値関係で決まる。コミュニケーションが要らないし、したがって論理も要らないから、頭も感性もすべて鈍いおっさん族が出来上がる。日本のコミュニケーション産業はすでに、不特定の第三国人の手に収まりつつある。日本のおっさん族には、何もできない。子どもたちの教育においても。
女性との関係も、コミュニケーションがベースでできるのではないので、永遠に相変わらず、セクハラなどの多種な(広義の)暴力をベースとする対女性関係がはびこる。おっさん族は、それしか知らない。ほかに、何もできない。おお、なんとも醜い、ニッポンのおっさん族よ。
でも、数世代数世紀にわたって小さな割れ目ひとつ生じない、醜い醜い愚かな愚かなニッポンのおっさん文化オトコ文化に対して本気で立ち上がるのに、人生のパートナーの非業の死を要するなんて、そもそもあかん。あかんけど、やはり、完勝してほしい。
私はといえば、昨日、change.orgで「Go Toキャンペーン反対」に一票を投じただけです。
日本のネットは馬鹿がむちゃ多いから、赤木さんがくだらないネット中傷を無視できる人だとよいが。疲れる価値のないことで疲れないように。
新型コロナウイルスの場合、日本では政策決定の最上部に公衆衛生の専門家がゼロで、まあ無知無能としか思えない政党政治家と呼ばれるドシロートが好き勝手なことばかり言ってることが気になる。彼らの見解や決定は、いわゆる経済重視のそれになりがちで、疫病の封じ込めという当面の大目的からすると、非常に中途半端で危険だ。
冷房と暖房を同時にやるのも、ブレーキとアクセルを同時に踏むのも、愚かしく危険極まりない意思決定である。
あの当時の彼らはとんでもないえーかげんな大馬鹿だったんだ、という回顧を何度繰り返せばよいのか。
今度の九州の水害で気になるのは、本来の政策決定最上部に治水の専門家が長期的にいないことだ。痛烈に分かりやすい例としては、たくさんの要介護高齢者が亡くなった球磨村の千寿園が挙げられる。
日本の河川は、至近距離に山の多い日本の地形の特色として、どの河川も、急激な大水害が起きうる。
さて、おとろしい自然の脅威を逃れるには、(1)対抗する抵抗する、と、(2)抵抗せず早期からさっさと逃げるの二種類の対策がありうる。
治水ダムを結果的に拒否した球磨川流域は、そのことによって(2)を選んだはずだが、政策決定者がドシロートのため、その自覚がない。なにもしないまま、数十年が過ぎ去り、ついにその巨額なつけを今回払わされた。
日本の河川の下流部(居住域)の典型的な形は、川があり、土手があり、その下に低地がある。水害時には大量の水が一気にどばっと土手を超えるから、土手の下にある低地に住宅や公共施設等を建ててはならない。「人がいない」状態を作れる商業施設はよいが、ただし水害の被害は大きい。
今回の千寿園の場合は典型的に、土手下の低地に人が(しかも要介護の高齢者が多数)常時居住する公共施設を作る、という政策のミスを犯している。どんなに安くても、土手下の低地を公共施設用地として購入ないし認めてはならない。
だいたい、役場や市役所などに就職するやつは、「生涯食いっぱぐれがない」公務員という職を選んだだけの人びとなので、本当に真剣でプロフェッショナルな政策決定や意思決定をしない。安い土地を買って、あるいは福祉法人等に対して認めて、さっさと公共施設を作れば、それが自分の業績と錯覚する。それはいかん!と断固否定するプロが最上部にいない。
日本人民は、何度も何度も、大量に、この手の馬鹿の犠牲者になっていく。このみっともない悪循環を断つ仕掛けは、まだどこにも芽生えていない。
ちなみに私が住む小さな市では、土手下低地に建てた市立図書館の蔵書が水浸しになる経験を二度もしてから、やっと最近、メインの市街地にある商業ビルの上の方の複数の階へ移った。
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