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2020年1月23日 (木)

犬猫失敗談第xx回: 暖房

動物病院の1万円よりも暖房費の1万円の方が楽、という哲学により、ここ数年は猫の風邪とその治療、というすごい面倒から解放されている。

しかし複数のエアコンを毎日終日回しっぱなしにできるほどのお金持ちではないので、電気アンカを併用している。数えてみたら、今14個使っている。

ちなみにアンカは、古セーターなどの断熱材を使って、「温かく」ではなく「ぬるく」セットする。

夕方それらの電源を入れ、お天気の良い日は昼頃までにアンカはoffにする。

電源投入やoffは、タップやコンセントにスイッチがない場合は、コンセントへのコードの抜き差しに頼る。

昨日早朝、昨日の前日の夕方壁際のソケットに差し込んだはずのプラグが、差し込んでないことに気づいた。ふつうは、プラグの足が2本あり、ソケットの穴も2つある。その2つと2つを接触するのは子どもでもできるだろう。でもその朝は、ひとつのソケットの穴とひとつのプラグの足の対応関係がずれていて、片方の足はソケットの穴から横へ外れている。

幸い、そこは酷く冷える場所ではなかったから猫は平気だったが、犬の立ちションベンを防ぐためにソケットに貼ったポリ袋が視界の邪魔をしたらしい。

「私」という人間は、この「私」にとっても他者である。いったい、こいつは、何をするか分らへん。せっかくの猫用暖房を無効にするなんて!!

というわけでこの「私」は、このわけわからん、往々にしてドジな他者である「私」と終生付き合うのだ。知らんわ。勝手にして。いや、ドジはなるべくやめてーな。お願い。

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2020年1月 5日 (日)

ソフトマインドファッション(脱オトコファッション)

しなやかな、柔らかめの生地で作った、丸(円)襟(まるえり)のジャケットとかほしいのだけど、どこにも売ってないな。左右で色が違ったり、柄(がら)が大小さまざまな水玉模様などのパンツ(旧日本語: ズボン)がほしいけど、どこにもない。

といって、ファッションブランドを立ち上げるのは手間も費用(==資本)もたいへんである。私の現状にとっては、エベレスト登山に等しい。

だからここに、どなたかへのヒントとして、願望だけを書いておこう。LGBT専門店というものがあれば、そこには売ってそうな気がするけど。どうだろう?

 

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放送権

NHKの受信料は払わないと違法らしいからしゃーないから払っているけど、でもよく調べればあれはもしかして憲法違反ではないか。

私にはあんな原価の目茶高そうな壮大な愚劣番組の制作費を、1円たりとも負担する意志はない(のに払っている!)。NHKは解体すべきだ、と真剣に思う。

今基本的に欠けている共通認識は、「放送電波は道路等と同じく公共財だ」という正しい見方だ。あんなNHKとかいう巨大な主体エンティティが、もっぱら恣意的に専用してよい財ではない。

道路の通行権がたとえば、日本郵政㈱にだけあったら、どーゆーことになるか?

道路に対して誰にも通行権があるように、放送電波には誰にもその利用権、すなわち「放送権」がある。そしてNHKのようなものは、その放送権をサポートする単なる技術者集団へと縮小すべきだ。

放送権が一般公開されたら、経済への寄与効果も相当大きいだろう。今、民放の空き時間を細々利用している通販会社の比ではない。

インターネットによって、誰もが放送権を持ってしまった、という説もあるけど、今のインターネットは理屈と現実の乖離が大きすぎる。誰もが放送権を有効に駆使できる、という状況からは程遠い。放送電波の方が、インフラとしての完成度が高い。

しかし、NHKという言葉が党名に入っているあの政党の主張も、浅すぎるし、くだらなすぎるよなぁ。なにより、「放送権」という観点がない。

 

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Music is not for competition

これから述べることは音楽全般に言えることだけれども、でも、コンペという愚がもっとも偉そうな顔をしてまかり通っているのは西洋クラシック音楽の世界だ。長いので、Western Classical Musicの頭字語WCMを以下使うことにしよう。

WCMの市場は、なぜ低迷し停滞しているのか。それは、原曲の作曲者が本物のアーチストだった場合も、現代の演奏者のほとんどが、その根性と魂胆からしてアーチストでないからだ。

個人のユニークな表現であるアートを、アーチストを、コンペ(競争)にかけて順位をつける、なんて愚かな話は古今東西聞いたことがない。だから今のWCMのコンペ、コンテスト主催者とそれに群がるメディア等々は、すべて本当の音楽がまったく分かっていない馬鹿者の集団である。だれよりも音楽を分かっていないのがコンペ主催者であり、またそれに意味を感じてぞろぞろと参加する参加者たちだ。

演奏者が本物のアーチストであるなら、原曲は彼彼女が利用する素材以外の何物でもない。本物のアーチストによる本物のアートであるWCMの演奏は、すべて原曲の「カバー」である。極言すればそれは、演奏者アーチストの表現であり新たな作品である。

そこには、本物のアートのみが持つ、ユニークな世界観や、主張のとんがり感や、表現の深さが感じられるはずだ。その人の心から訴えたいことが、真表面に際立つはずだ。

今、演奏者が誰一人アーチストでないから、WCMはコンペという愚を軸とするもっともらしいくだらないものへと頽落しつつある。

コンペは、たまにそこに間違って闖入してきた本物のアーチストの卵を、単なる「奇」として最初の予選で排除するのが慣行だろう。そんな雰囲気を強く感じる。

では、WCMの演奏者に偉大なアーチストはいなかったのか。そんなことはない。しかし、今はほとんどいない。今はコンペの上位入賞者という一種の優等生が、ささやかな人気を獲得しているだけだ。

今の(新しい、急変した)世界が、今の人間が、イコール今の自分が、本当に必要としているアートとは何か。アートとしての訴える力を持った音を、追究してほしい。

すべてのコンペに、その無意味さ、それがアートに対する抑圧的犯罪であることを自覚させよ。彼らがやってることは、音楽のエスタブリッシュメント(体制)化だ。アートとは真逆の。

 

 

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