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2019年3月22日 (金)

グローバル化vs宗教反宗教の「きしみ」

移民する側と受け入れ側が宗教が異なっても問題ない、とされるのは、互いの日常的な人間関係が「ただの人同士」だ、という前提があるからだ。そういう意味では、グローバル化は将来の人類のコミュニケーション有能化に向けての出発点、その萌芽でありうる。

クライストチャーチ(Christchurch)は“キリストの教会”という意味でしょう。そこに、ムハンマドの教会が複数あっても、それまでは誰も問題視しなかった。

でも最近はあちこちで、かつてヒットラー(という中身のない幻想!)に歓呼して投票したような人びとと相似形のメンタリティの持ち主たちが勢力として伸びつつある。幻想のノン・グローバル主義、グローバル化==凶悪だ主義の人びとだ。

主に経済と労働力レベルのグローバル化に対し、政治、とくに社会政策と産業政策(および教育政策)が追いついていないことが、グローバル化は殺すべき敵、という思想を生む。昔からの仕事にしがみつきたいが、それは低賃金の移民たちが奪っていく。高賃金の新しい仕事に向けて教育訓練されていないし、だからテクノロジー分野はどこへ行っても人材不足だ。政治の側も今日まで長年、ノン・グローバルの惰眠を貪ってきた。未だに、改心していない。

歴史の過渡期にありがちな騒乱と犠牲、と呼ぶにはひどすぎる。

ところで、「イスラム教は他宗教に対して許容的受容的。だからキリスト教集団を虐殺虐待(&レイプ)するテロ集団がイスラム教を自称するのは間違い。彼らはイスラム教徒ではない」という説をよく聞くが、いろんな宗派があって、他宗教を暴力でやっつけること==善、とする宗派もあるのではないか。何教を自称していようと、「ただの人」レベルではテロは悪だ。

あの超有名曲Imagineの一節は、「ただの人」教でもって、既存宗教既存国家の硬い--ときに排他的で暴力的な--多様性をすべて、ちゃらにしようという主張ではなかったか。

それが十分な規模でできないところに、今の大問題がある。

私にできたことといえば、わずかな捨て犬捨て猫を保護したこと、ぐらいだ。

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