「測定」と「観測」
コミュニケーション研究の今後の重要な課題のひとつが、「他者不在が克服されたときの科学の形はどうなるのか」、その探究だ。数学、物理学、生物学等々は、どう変らなければならないのか。
これまでの科学は、自然を「対象」として把握し、それに対し操作的加工的にアプローチする立場が前提になっている。その姿勢を表すもっとも典型的な例として、自然の中に数はなく、数は100%、人間の脳内の観念であるにすぎないのに、科学は自然を数や数式によって表現し、把握しようとする。かくして、自然は人間の支配下におかれる(その結果、そのちゃちい傲岸な態度は、頻繁に他者からの復讐に遭う)。
自然は数や数式で表現把握できるようなちゃちいものではなく、それらは人間が作った勝手な像にすぎない。言い換えるとそれは、鏡の中に見る自分、「測定」と「観測」(という特殊ローカル態度、観念)が作り出している偏頗な像だ。
このブログや、その前身となるエッセイ集「コミュニケーション有能への進化」において、伝統的数学の立場を批判する試みを多少はしたけど、本格的な展開は今後のみなさまにお願いしたい。
自然と対立する、自然を疎外する、人間の旧来の生き方。その基盤となっている、旧来の科学。
地震や洪水など、大災害があるたびに思うのだが、自然がときに大乱動することがあっても、それらに悠然と揺られるがままに過ごし、乱動が収まるのを待つ、という生き方が、自然をきちんと他者として待遇する未来の科学、科学version 2.0によって可能になるだろう。
対立的構造の建物や都市や技術集積ばかり作るから、巨大で悲惨な被害ばかりが生ずる。むしろ、人間が自然の一部になりえる、地震では地球とダンスする、家造りなどがありえるはずだ。
旧科学はそろそろ、それが自然とするもの(object, 対象物)が、自らの観念が作り出している対立的「測定」と「観測」の像にすぎないことを自覚し、早々にv.2.0へと脱皮すべきである。
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コメント
社会も融通無碍に変幻自在であるべきです。
大災害があってもこれまでの社会生活を維持しようとするから悲惨は拡大していきます。
投稿: 南 | 2018年11月30日 (金) 13時03分
以前言ったゲーデルの不完全性定理についての簡単な説明はここに。http://noexit.jp/tn/doc/fukanzen.html
投稿: bad | 2018年12月 1日 (土) 11時02分
…それと科学と何の関係があるんじゃ?
投稿: i*****i | 2018年12月 1日 (土) 20時41分
あれ?関係ないんですか?
投稿: bad | 2018年12月 1日 (土) 22時32分
科学は自然と対立してる上に、ほんの部分しか分からない。
投稿: bad | 2018年12月 2日 (日) 07時18分
ゲーデルの不完全性定理
読ませてもらいました。感想。物事の是非とは、主体単体では判断が付けられないということ。是非とは必ず周りとの関係性の中でしか見えてこないんじゃないかということ。
こういう学術的論理と言うんですか、そういうのは真理を追求するために発展したのであって、問題を解決するためのものとは違うんでしょう。テキストにも書いてある通り、数てのは人間がかってに作り出したものであり、そんなものは大自然にはまったく関係無い・通用しないものでしょう。
しかし大阪万博てのも、あんなゴミの埋立地みたいな所でやってどおしようっちゅうねん。いやっ、もう上を見るのはやめて現状をどうにかしないと。これ以上欲を掻かなくていい、このままスローダウンして安定に向かうことはできないのだろうか。これも経済霊の仕業なのだろうか。くそったれ。
投稿: n,s | 2018年12月 3日 (月) 05時02分
貨幣は差異の階層、すなわち(差異)nであり、このn乗のnは無限大である。いずれ、月や火星、木星の植民地化へと突き進み、さらにその次は…?
とにかく、新たな差異を作りだすためなら何でもやるのが、貨幣に完全に呪縛されている他者不在人種たち。
投稿: i*****i | 2018年12月 3日 (月) 08時27分