« 2018年10月 | トップページ | 2018年12月 »

2018年11月30日 (金)

「測定」と「観測」

コミュニケーション研究の今後の重要な課題のひとつが、「他者不在が克服されたときの科学の形はどうなるのか」、その探究だ。数学、物理学、生物学等々は、どう変らなければならないのか。

これまでの科学は、自然を「対象」として把握し、それに対し操作的加工的にアプローチする立場が前提になっている。その姿勢を表すもっとも典型的な例として、自然の中に数はなく、数は100%、人間の脳内の観念であるにすぎないのに、科学は自然を数や数式によって表現し、把握しようとする。かくして、自然は人間の支配下におかれる(その結果、そのちゃちい傲岸な態度は、頻繁に他者からの復讐に遭う)。

自然は数や数式で表現把握できるようなちゃちいものではなく、それらは人間が作った勝手な像にすぎない。言い換えるとそれは、鏡の中に見る自分、「測定」と「観測」(という特殊ローカル態度、観念)が作り出している偏頗な像だ。

このブログや、その前身となるエッセイ集「コミュニケーション有能への進化」において、伝統的数学の立場を批判する試みを多少はしたけど、本格的な展開は今後のみなさまにお願いしたい。

自然と対立する、自然を疎外する、人間の旧来の生き方。その基盤となっている、旧来の科学。

地震や洪水など、大災害があるたびに思うのだが、自然がときに大乱動することがあっても、それらに悠然と揺られるがままに過ごし、乱動が収まるのを待つ、という生き方が、自然をきちんと他者として待遇する未来の科学、科学version 2.0によって可能になるだろう。

対立的構造の建物や都市や技術集積ばかり作るから、巨大で悲惨な被害ばかりが生ずる。むしろ、人間が自然の一部になりえる、地震では地球とダンスする、家造りなどがありえるはずだ。

旧科学はそろそろ、それが自然とするもの(object, 対象物)が、自らの観念が作り出している対立的「測定」と「観測」の像にすぎないことを自覚し、早々にv.2.0へと脱皮すべきである。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2018年11月12日 (月)

「顔認識」のビッグブラザー的恐怖

今朝(11/12)の7チャンのニュース番組だったと思うが、中国で行われた“見本市”の会場ブースらしきところで、中国の某有力AI企業が日本の取材記者に対して製品をデモしつつ説明している。それは、いわゆる「顔認識技術」である。

デモでは、その企業のCEOか相当のえらいさんと思われる人物が、自分の20代のころの顔写真で当人を登録したシステムが、現在40〜50代と思われる本人を同定する/できることを見せている。

これは、この種のシステムのデモのやり方としては完全に不適切である。そのことを知ってて意図的にやったのなら、それは稚拙な素人騙しであるし、知らずにやったのならその人物は単なる無知なる馬鹿である。

このようなパターンマッチングシステムは、それを訓練したデータの量が多ければ多いほど、精度が上がる。だからその性能をデモするときは、同一性ではなく差異性をテストする必要がある。極端な例として、たとえば本人の双子の兄弟の、時期、衣装、撮影アングル、表情など完全に同じに見える写真を、本人でないと判定できるなら、相当精度が高いと言える。

極端に精度の低いシステムなら、人間の顔写真なら何でもその本人と判定するだろう。だから同一性は、デモのための素材としては使えない。

昔々プログラミングの勉強をしているとき、アルファベット大文字のAとBとCだけを認識するソフトウェアを作り、そいつにDを見せるとC、Eを見せるとBと認識した。もしもそのとき、Aを見せたらAを認識した等、同一性だけで満足していたら、今回のこのお話と同じになる。

また他方では、とても精度の高いシステムでチューニングが不適切なら、角度や明度や化粧など撮影条件が特殊な本人写真を、「当人でない」と判定するかもしれない。

昔、ロシアのヒコーキには乗るなって書いた記憶があるけど、ロシアにかぎらず自由と民主主義が広く定着していない国は、国民の脳が硬化萎縮してて、良い技術が育たないんじゃないの。でも現状がそういう国だからこそ、永遠に未完成な技術「顔認識」を強引に社会内に広く実装しようとしている、のかもしれない。おそろしい。

ひるがえって、日本は、本当の自由と民主主義が根付いていない国、と言えるかもしれない。非対話的/非会話的で、おとろしい投稿が多いもんな、ネット上も。

| | コメント (9) | トラックバック (0)

« 2018年10月 | トップページ | 2018年12月 »