« 2018年9月 | トップページ | 2018年11月 »

2018年10月29日 (月)

錯覚錯誤としての反ユダヤ主義

かつて日本の被差別民が、役牛や農耕馬など動物の死体処理(という“汚い仕事”)をやらされていたように、中世ないしそれ以前からヨーロッパ各地では、金の取り扱い(という“汚い仕事”)は被差別民たるユダヤ人がやらされていた。その仕事は、今の金融業のもっとも素朴で原始的な姿だ。

そしていくつかの時代を経過すると、一般庶民に対する貨幣の支配力はいよいよ強くなってくる。常時十分な貨幣を持ちうるのは、ごく一部の層だ。

毎日苦しい一般庶民層は、苦しさ辛さの原因が貨幣、そして貨幣教の司祭たるユダヤ人にある、と考える。

(しかし当時ヨーロッパ社会で圧倒的多数のユダヤ人は、被差別民の貧民層である。)

ユダヤ人による金の支配が止(や)めば、われわれの暮らしは楽になる、と錯覚する。(キリストはユダヤ人が殺した、などと“余罪”がくっつくこともある。)

そこから、21世紀の現代ですらその勢力を失わない反ユダヤ思想が生まれる。

(対してユダヤ人側には、被害妄想的民族思想が生まれる。)

ドイツ極右政党は、ついに州議会に議席を取った。

ナチスの再興も、夢ではないかもしれない※。反ユダヤ主義や、排他的ナショナリズムの高まり〜凝り固まりは、困窮層や将来不安層の増加と相関している。だが、彼らが極右政党等に託した幻想は、寿命の短いかげろうにすぎない。本当は、もっとおそろしいものが襲ってくる。〔※: 今のAfDは反ユダヤを掲げている政党ではないが。〕

スケープゴートが何の意味も効果もない間違い、錯誤である、という意味で、すべての反ユダヤ主義とその言動は、完全なる間違いであり、完全に無意味無効果である。

しかし間違った敵、ではなく本当の敵に対して、多くの人類が立ち上がる日は、まだ遠い先だ。今世紀中は、無理かもしれない。人びとの苦しみはますます深くなり、そして広くなる。貨幣経済のグローバル化の進展と広域的細部浸透とともに。

すべての貧乏人個人が、この台風の中で無力である。難民(旅費が要る!)にもなれない貧乏人の方が、圧倒的に多い。

新しい地平を切り開くための現状のガラガラポンは、歴史的に、大規模な戦争に決まっていたが、そろそろ、そうでない解を歴史神は恵んでほしいな。


| | コメント (10) | トラックバック (0)

2018年10月24日 (水)

そろそろインターネットを正しく理解しよう

今は大多数のおバカユーザーたちが、インターネットの誤解の上でインターネットを濫用している。

インターネットに対する唯一の正解は、それがコミュニケーションネットワークであること、である。言い換えるとそれは、対話と会話によりお互いの理解や成長に向かう道だ。相当長い延長線を引くと、コミュニケーションは貨幣トランザクションという過酷なノン・コミュニケーションをリプレースするだろう。しかしその話は、ここでは早すぎる。

おバカユーザーのもっともどぎつい例としては、無辜の人たちの斬首処刑シーンを、いかにも偉そうぶって投稿した某テロリスト集団が挙げられるかもしれない。対話会話がなく一方的という点では、毎日多い軽度のおバカユーザーたちも、これと同列に並ぶ。おめーら、ミニ・テロリストやで。

あの皇太子によって惨殺されたと思われているライター氏は、テロや軍事活動抜きのイスラム原理主義集団に属していたと思われる。それで嫌われた、と。

あのおバカテロたちも、暴力〜軍事行為を仮に全部削除して本質を見れば、それはイスラム原理主義の基本的な主張として共通項があるように思える。

ビルマのロヒンギャ族の問題の起源が、イギリスの植民地化活動にあったにもかかわらず、真犯人のイギリスは全然、解決に乗り出さない。

そして今のアラブ中近東が抱える問題も、真犯人たちはまったく解決に乗り出さない。そこでテロ活動が栄える。

テロや軍事活動の有無にかかわらず、イスラム原理主義は、イギリスやフランス等のヨーロッパ植民国家が作った今のアラブ中近東地区の形に、異議を唱える。

その形のアホらしさは、あれらの直線状の国境に如実に表れている。朝鮮半島を二分する直線が超アホなものであるのなら、現在のアラブ中近東の形もまた超アホの権化であり、ネイティブとしては異議を唱えることが唯一正しい。でも、テロは異議の形として有効でない。オサマビンラディンがどれだけ、サウジアラビアのアメリカ傾斜を憎んでも、彼がオサマビンラディン、すなわち暴力を有効と信ずる者であるだけで、多くの人が耳を傾けてくれない。怖いから、逃げるだけやでぇ。

今の異様な形をむしろ利している勢力は、あのライターのような人物が煙(けむ)たい。殺して消してしまう方が、そっちとしては楽で簡単だ。だが、インターネットの本質を理解せぬままインターネット産業に巨大投資をしようとするバカ者たちには、不正義の殺人が怒れる敵を大量増殖する行為であることが理解できない。その愚行を、藪をつついて蛇百万匹と呼ぶのだ。

そう。次世代のヨーロッパ人は、ええかげん、ものごとの本質を理解せんとだめですよ。テロの根っこの本質を理解しないと、テロはえんえんと続きます。数を増し、一層過激化するでしょう。そして一方しかし、アラブ中近東の人たちも、積極的に世界との会話を志向すべきだ。

あの皇太子とあのライターは、インターネットの上で、尽きることのない対話と会話を繰り広げるべきだったのだ。どっちかが他方を単純に批判したり物理的に消し去るのではなく。

その尽きることなき会話は全世界で最高の視聴率を稼ぎ、旧宗主国の連中はお粗末な旧悪を大反省し、世界は快癒に向かうだろう。もちろん、今からでも遅くないし、この問題に“遅すぎる”ということはまったくない。

そして、インターネットを本物のinter-netにするためにこそ、巨大投資を。

今の悪無限のような混乱は、子どもたちにとっても全然良くない。


| | コメント (11) | トラックバック (0)

2018年10月20日 (土)

世界司法はない。何度繰り返してもないものはない。

国家の最上位権力に位置する者が、犯罪者でない人間を法の認可なく拘束して、拷問の挙句、生きたまま斬殺することが放置放任されるのは、「国」と違って「世界」には司法とその法執行力が皆無だからだ。国は人を制御しうるが、世界は国を制御できない。やりたい放題である。

それは、前にも書いたとおり。

しかも例によって彼らの脳は完全な他者不在だ。面倒な他者は殺せばよい。

世界には司法がない。だからいわゆる拉致問題にも解法がない。

まだ人類社会は、原始の粗放状態である。と見なすしかない。

世界司法ということを、問題視している人たちは、すでにかなりいると思うのだが。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年10月14日 (日)

有在他者的論理(例)

性に関する性向や行動が「圧倒的に一番多い(≠“正常”!)層」*とは異なることや、女子が車を運転すること、などを、よい、かまわない、と見なすことが正しいのではない。〔*: 単に多いか少ないかだけであって、ここには正常異常の概念が入り込む余地はない!〕

そんなことを、よい、とか、かまわないと見なす、ないし法定などする、権利も資格は何人(なんぴと)にもない、と自覚することが、唯一の正しい論理である。もちろん、悪いと見なす権利もない。

他者はその他者のいる場所におき、距離をおき、放置する。そしてふつうに、礼節をもってつきあう。

迫害のための刃物を持った手で接近するのは悪だが、飴玉を持った手ならかまわない、のではない。なにしろ、他者にそうやって偉そうにべたべた手でさわるのが、すべて、他者不在の思い上がりなのである。

オトコに、女性(あるいは“他の性”)のことを決める権利も資格も、最初からそもそもない!
えらそーも決めんじゃねー、くそったれ。

他者に対してはつねに、三歩下(さ)がっていろ!
きたねぇ手でべたべた勝手に触(さわ)んな!

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2018年10月13日 (土)

ネットワークの利用においてコンピューターのOSに相当するもの、および、それとOSとの関係

===以下は、ちゃんと書くひまがなくて下書きのまま放置していた文ですが、ひまなし状態がえんえん続くので、下書きをそのまま公開します。言わんとするところは、伝わると思います。===

今の普遍的な通信ネットワーク(≒インターネット)の利用のされ方は、コンピューターの利用史でいえば、オペレーティングシステムというもののない頃のそれに相当する。

現状では、ネットワークという物理構造(通信のプリミティブ)があって、その上にいきなり直接、個々のアプリケーションとそのためのプロトコル集やAPI集がある。

悪名高きOSI参照モデルで言うと、7つの層のうち下の6つはすべて、私の論から言うと、“広義の”物理層である。言い換えると、ネットワークの利用を集団関係や対他関係等において管理する層がない。

だから私の主張では、今の第6層と第7層の間に、仮称「ネットワークオペレーティングシステム層」が標準的な層として入るべきなのだ。

コンピューターのオペレーティングシステムは、コンピューター自身(CPU)だけでなく、重要で普遍的に利用されるその他のリソースの利用も管理する。たとえばメモリも、何らかの特定のアプリケーションによる独占的排他的利用を防ぎ、利用権を複数のアプリケーションに安全堅固に分配する。またCPUとリソースの使用にあたってはオーナー制というものがあり、管理者(システムアドミニストレータ)が認めたユーザーが、それに配分されリソースしか使用できない。

しかしネットワークは、コンピューターの利用史において、相当後からやってきたものなので、コンピューターのオペレーティングシステムからの管理の完成度が低い。また自分のマシンの上のリソースと違って、単純なオーナー制による管理は難しい。なぜならネットワークというものは、とりあえず何でも、来たいやつは来させないと、通信は成り立たない。

では、ネットワークの管理はどこに、どのように置くべきか?

それはネットワーク自身の上に、ネットワークのノードである各コンピューターのオペレーティングシステムとの対話を前提として、あるべきではないのか?

たとえばそのために、「ネットワークの仮想多重化」という技術が実装されてもよい。

仮称ネットワークのオペレーティングシステム層が、基本的汎用的なAPI集〜エンドユーザープリミティブ集とその組み合わせルールを持てば(提供すれば)、アプリケーション層は今よりもっと簡単になると同時に、もっと自由な多様性and/or多機能性を持ちうる。

(この稿未完)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2018年9月 | トップページ | 2018年11月 »