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2018年9月 3日 (月)

黒澤映画の落第生

約70年前の、黒澤明監督の映画「羅生門」が、Amazonで無料視聴できるので、見てみた。その動機はただひとつ。この映画は、子どものころ、ないし少年時代、一度や二度は必ず見ているはずなのに、ストーリーも画面上の場面も、何一つ記憶に残っていないので、その原因を知りたかったのだ。例外的にただ一つ、大きな寺門※の下で人が雨宿りをしているシーンが、自分の記憶から取り出せる唯一のこの映画の残滓として残っている。たぶん、単純にきれいなシーンだからではないか。〔※: ではなく、平安京の主要都市門のひとつ。〕

で、今回見て分かったのは、映画を構成する各シーンが、ものすごく長いことだ。しかも一つのシーンの中での、筋の論理的展開はあまりなくて、たったひとつのこと(ちゃんばら、森の中の疾走や歩き、など)がその長い時間をべったり占領する。それらの“美術作品”の、長時間の“鑑賞”を強いられる。

すると、わたくしは、子ども心に、その長いシーンの途中で関心が映画から逸れてしまうのだ。自分の顔はスクリーンの方を向いているが、意識はもうそこにはない。ほかのことを、考えている。たぶん、日常のつまらないことを。

次のシーン、また次のシーンと映画が進行するにつれて、“前のシーンをちゃんと見なかった”ことへの罰が加わり、シーンの退屈さがいや増す。で、全編見ても明確な記憶はゼロとなる。

これは、いわゆる“波長が合わなかった”というやつで、この映画の作者たちや、この映画を褒めそやす人びとと、この子ども時分のわたくしとは、かなりココロの波長が合っていないのだ。ひとつのことをえんえん見せられる長いシーンは、わたくしには、かったるい。

(アメリカ映画によく(必ず?)ある、カーチェイスの長々シーンも、同様、かったるい。)

で、今回のこのブログ記事の本題は、「学校教育と波長が合わない子どもたち」だ。仮に、偉大なる黒澤監督の偉大なる名画をちゃんと鑑賞できない子を、悪、病、異状と呼ぶように、今の一般世論や教育行政は、学校教育と波長が合わない子を、単純に、矯正すべき悪、と見なしているのではないか。

それよりむしろ、たった一つの教え方を、多数の人間(児童生徒)に無理やり適用しようとするところに、今の、文化〜メディア多様化時代における、齟齬と錯誤がある。

それでも、理解ある親を持つ強い子は、自分の道をどんどん切り拓いて進んでいくだろうが、そうでない、弱い子もいる。少なくとも、学校教育に合わない子==悪、説は廃棄すべきだ。

その子に合った道や、教え方を見つけよう。

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コメント

学校教育の主役は誰か?

子供に決まっている。

落ちこぼれは100%学校の責任。

投稿: 南 | 2018年9月 5日 (水) 06時34分

落ちこぼれは排除して、奴隷ばかり量産していて、これ一種の全体主義じゃない?

投稿: bad | 2018年9月 6日 (木) 00時02分

夏休み最後に開催
自殺不登校予防 「出張駆け込み寺」
主催者が元小学校校長には笑たw

投稿: n,s | 2018年9月 8日 (土) 06時54分

かつて岩谷さんは「いま現存する法・指導要領・カリキュラム・教科書・教師、等によって構成されている学校はない方がよい」(『宝島』1977年10月号より、78ページ)とお書きになりましたが、残念ながら、学校はなくなるどころか、ますます強固な日本人の選別装置となって、猛威を奮っています。

『教育問答』(中公新書)の中でなだ いなださんは「学校は本質的に悪だ」と指摘されていますが、私も全く同意見です。

結局、私たちにできることはただ、同書の中でなださんがおっしゃる通り、「学校は本質的に悪だ、と知りつつ、学校に子供を行かせること」だけなのでしょう。

ところで、私にも、「羅生門」はつまらない映画でした。

投稿: 高柳 | 2018年9月12日 (水) 21時49分

関係ない様だが、ホール&オーツのダリルホールは、rockやって無かったら、キチガイになってただろう、言ってたな。

投稿: bad | 2018年9月17日 (月) 00時07分

いじめ問題
中野信子「いじめはなくならない」 Youtubeでの聞きかじりだけど、原始時代人間の武器は社会性だったてのは、面白い話でした。社会性とは組織階層共同体性ということでしょう。その社会性を守るにはいじめ(制裁)が必要不可欠である、と。
まあ、私の今の結論は、今時いじめをやるような奴らてのは、感性が原始時代の人と同じ古いタイプのバカでしない。というか、いじめの根拠を白日に晒して、そこからどうするかを検討すべきじゃないか、ということです。
今の時代、社会性に頼らなくても個人個人の力で回せるくらいに成熟していると思うけどね。それとも階層てのは人類存続には不可欠なのか。ちゃんちゃん。

投稿: n,s | 2018年9月25日 (火) 08時05分

組織をピラミッド型で捉えてる限りダメなのではないか。
個人個人が全体性を帯びてないと。
国家(共同体)をヤバくしているのは、他でもないトップである。だからどうしたらいいんだろう。

投稿: n,s組織 | 2018年9月26日 (水) 08時00分

戦争も大きないじめと捉えると、大国が存続していく為には不可欠な項目なのだろうか。異端者を叩くことでまとまるというならば。ということは、共同体意識が有ること自体が戦争の原因ということになる。
ではどうしたら共同体意識を無くすことができるのだろう。それには先ず、競争意識を持たない事だとおもう。また競争しなくても共同体意識を持たなくても、現代の技術があればやって行けることを認識する事である(コミュニケーションこそ不可欠)。しかし共同体を絶対必要なものとして、煽り続けているのが貨幣である。貨幣の有る無しが生死をも分けているのだから。
まあ究極には、人類が生き死にに拘らない様にならないと、戦争はなくならんのではないだろうか。(/_;)/~~

投稿: n,s | 2018年10月 9日 (火) 07時49分

n.sさん、またメール送りました。確認お願いします。

投稿: bad | 2018年10月10日 (水) 23時23分

かつてiwataniさんの言葉に、わからんならわからんで止めればよろしい、てのがあったが、老いも若きもわからんのはイヤなのだ。

投稿: bad | 2018年10月12日 (金) 22時55分

世界女子バレーとか見てたんだけど、もうこれ以上競争は有効ではないと思う。人間の限界以上をやらされてるようで、見てるのが辛い、楽しめないのである。共同体の名誉のためにどんだけの事をやらされてるのか、一種の奴隷生贄じゃないのかとまで思える。(それをショー売で煽るメディアにも腹が立つ)

スポーツにしろ科学にしろ、もう競争で戦える極みまで上り詰めたんじゃないかと思う。もう競争することの害の部分のほうが大きのではないか。これ以上は自傷行為である。
しかしなんであんな「勝ち」にこだわるのか分からない。勝ちってそんなに素晴らしいことなのか、負けってそんなに無意味なことなのか。その理由をハッキリさせて欲しい。
これからは競争に興味を持たない(落第生)、友好な輩の方が有効なのじゃなかろうか。  

投稿: n,s | 2018年11月 2日 (金) 07時34分

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