最近は食品のウェイスト(waste, 無駄な廃棄)が問題になっているが、これは、本論の基本概念のひとつである「差異」の表れのひとつにすぎない。
今日ここで取り上げたいのは、生物(動植物)の子孫のウェイストの膨大さだ。
たとえば、果実系の木だと、豊作の年なら、まず春に大量の花が咲く。
・かなりの数の花が落花する。
まず、ここでウェイスト。
次に、蜂や蝶のおかげで受粉に成功した花は雌蕊が果実に変身していく。
・ビー玉より小さな果実が、大量に落果する。
ここで、第二のウェイスト。
一応成長した果実の中には、ひとつひとつの中、そして全体として、大量の種子がある。
・その全部が芽生えて成木になる、とは考えられない。
しかも、大量に生った果実の、
・すべてが種子を大地に播種するとも考えられない。
そして果実の大半ないしすべては、糞をあちこちにばらまいてくれる動物ではなく、人間が食べてしまう。
・種子はゴミ処理場や下水道へと消えていく。
というわけで木が産み育てる子孫はほとんどすべてがウェイストである。しかもそれは、膨大な数のウェイストである。
ひるがえって、動物、たとえばヒトの場合、生涯に一匹のオスがウェイストする精子の数と、一匹のメスがウェイストする卵子の数も、かなり膨大だ。特定のヒトオスと特定のヒトメスの精子と卵子の膨大な数の‘組み合わせ’のうち、ウェイストにならない、すなわち発生する組み合わせの数は極少だ。あとは全部ウェイストである。
その希少な組み合わせの中の『特定の』たったひとつが、めでたく(?)自己である確率はきわめて低い。
というわけで、自己というものが存在するに至る確率は、ものすごくものすごく低い。
その低さを考えると、自己というもののない宇宙ないし世界が、正常な世界ないし宇宙である。自己が再生する確率も低い。何に再生するのか。木にか。草にか。虫にか。遠くの宇宙の未知のイキモノにか。いずれにしても見た限り、全生物、子孫のウェイストは甚だしいから、無事に生成する彼らの子孫のどれかに自己が再度宿る確率はきわめて低い。もちろん、ウェイストがまったくなくても、その確率の低さは変らない、(と思うしかない)。
しかも、自己の記憶は継承されないから、何かに宿って再生したとしても、それは「アノ自己である」という認識を持てない。言い換えると、再生しなかったのと同じである。
というわけで、自己というもんは、わけのわかんない、けったいな、他者である。そのすべての鍵は、自然がその秘密のふところに握っている。どうにでも、してちょうだい。
・生物は子孫のウェイストがとても多い。
・無事に発生した少数の中に自己がいる確率はとても低い。
・今ある自己も、とても低い確率の産物である。
・自己の再生成の確率も、きわめて低い。
・再生成したとしても、自己同一認識はゼロである。
・そこで事実上、実質上、今ある自己が、何千億年の全宇宙史における唯一の自己である。
・だからそれは、とんでもない、謎の、わけわからん、「他者」である。
ほとんどありえない再生成であるが、とにかく人間という愚かすぎる酷悪な動物への再生成だけは、絶対に御免被りたい。その歴史も現状も、ひどすぎる。その多くの個体(とくにオス)の脳に、「他者不在」という重大な欠陥が定在している。進化して、それがなくなった状態を、見たくもあるけど…。
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追記(2018/09/30):
夕方以降、台風の中を犬と外を歩くのはやめたいので、まだ明るい時間に前の草むらでおしっこをさせた。家の中へ帰ってくると、私が着ているシャツやパンツ(チノパン)に、大量の草の種が付着している。数十ではなく、数百のオーダーだ。ガムテープでは取れないので、ひと粒ひと粒指で取る。これだけ子孫を乱造するのは、動物の体に付着して運ばれてめでたく芽生える確率がとても低い、と自覚しているからだろう。この草にとって、あるいは自然にとって、個体は全然大事でないようだ。全然大事にされない大量のウェイストの中で、たまたま生きられた「自己」、なんとあやうい、はかない、存在であることか。
そういう希少な者同士が、真剣に殺し合うなんて、やはりこれまでの人類はアホである。
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