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2018年9月30日 (日)

Webに固執すべきか?

World Wide Web…HTTP/HTMLを作った元祖Tim Berners-Leeが、まともな人間なら誰でもそうであるように、Webの現状に幻滅し、Solidという分散型プラットホームを提案している。

その詳細はここでは述べないが、問題と思うのは、それがWebをベースにしていることだ。

私の長年の視点は、「いろんなインターネットアプリケーション==いろんなネットワーキング形式がありえる。Webはそのひとつにすぎないし、しかもそれは良質なネットワーキングを作り出せない」というものだ。Webは、経験者はみなご存知のように、パブリシングとブロードキャスティングに向いている。

私は、Webをインターネットの古語として葬り去り、本当に個人が自主的主体的なノードであれるネットワーキングアーキテクチャをインターネットの主役にすべき、と信じている。

(続きは、また後日。)

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2018年9月26日 (水)

「自己は他者である」自覚のための補論

最近は食品のウェイスト(waste, 無駄な廃棄)が問題になっているが、これは、本論の基本概念のひとつである「差異」の表れのひとつにすぎない。

今日ここで取り上げたいのは、生物(動植物)の子孫のウェイストの膨大さだ。

たとえば、果実系の木だと、豊作の年なら、まず春に大量の花が咲く。

・かなりの数の花が落花する。

まず、ここでウェイスト。

次に、蜂や蝶のおかげで受粉に成功した花は雌蕊が果実に変身していく。

・ビー玉より小さな果実が、大量に落果する。

ここで、第二のウェイスト。

一応成長した果実の中には、ひとつひとつの中、そして全体として、大量の種子がある。

・その全部が芽生えて成木になる、とは考えられない。

しかも、大量に生った果実の、

・すべてが種子を大地に播種するとも考えられない。

そして果実の大半ないしすべては、糞をあちこちにばらまいてくれる動物ではなく、人間が食べてしまう。

・種子はゴミ処理場や下水道へと消えていく。

というわけで木が産み育てる子孫はほとんどすべてがウェイストである。しかもそれは、膨大な数のウェイストである。

ひるがえって、動物、たとえばヒトの場合、生涯に一匹のオスがウェイストする精子の数と、一匹のメスがウェイストする卵子の数も、かなり膨大だ。特定のヒトオスと特定のヒトメスの精子と卵子の膨大な数の‘組み合わせ’のうち、ウェイストにならない、すなわち発生する組み合わせの数は極少だ。あとは全部ウェイストである。

その希少な組み合わせの中の『特定の』たったひとつが、めでたく(?)自己である確率はきわめて低い。

というわけで、自己というものが存在するに至る確率は、ものすごくものすごく低い。

その低さを考えると、自己というもののない宇宙ないし世界が、正常な世界ないし宇宙である。自己が再生する確率も低い。何に再生するのか。木にか。草にか。虫にか。遠くの宇宙の未知のイキモノにか。いずれにしても見た限り、全生物、子孫のウェイストは甚だしいから、無事に生成する彼らの子孫のどれかに自己が再度宿る確率はきわめて低い。もちろん、ウェイストがまったくなくても、その確率の低さは変らない、(と思うしかない)。

しかも、自己の記憶は継承されないから、何かに宿って再生したとしても、それは「アノ自己である」という認識を持てない。言い換えると、再生しなかったのと同じである。

というわけで、自己というもんは、わけのわかんない、けったいな、他者である。そのすべての鍵は、自然がその秘密のふところに握っている。どうにでも、してちょうだい。


・生物は子孫のウェイストがとても多い。
・無事に発生した少数の中に自己がいる確率はとても低い。
・今ある自己も、とても低い確率の産物である。
・自己の再生成の確率も、きわめて低い。
・再生成したとしても、自己同一認識はゼロである。
・そこで事実上、実質上、今ある自己が、何千億年の全宇宙史における唯一の自己である。
・だからそれは、とんでもない、謎の、わけわからん、「他者」である。

ほとんどありえない再生成であるが、とにかく人間という愚かすぎる酷悪な動物への再生成だけは、絶対に御免被りたい。その歴史も現状も、ひどすぎる。その多くの個体(とくにオス)の脳に、「他者不在」という重大な欠陥が定在している。進化して、それがなくなった状態を、見たくもあるけど…。

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追記(2018/09/30):
夕方以降、台風の中を犬と外を歩くのはやめたいので、まだ明るい時間に前の草むらでおしっこをさせた。家の中へ帰ってくると、私が着ているシャツやパンツ(チノパン)に、大量の草の種が付着している。数十ではなく、数百のオーダーだ。ガムテープでは取れないので、ひと粒ひと粒指で取る。これだけ子孫を乱造するのは、動物の体に付着して運ばれてめでたく芽生える確率がとても低い、と自覚しているからだろう。この草にとって、あるいは自然にとって、個体は全然大事でないようだ。全然大事にされない大量のウェイストの中で、たまたま生きられた「自己」、なんとあやうい、はかない、存在であることか。

そういう希少な者同士が、真剣に殺し合うなんて、やはりこれまでの人類はアホである。


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2018年9月 3日 (月)

黒澤映画の落第生

約70年前の、黒澤明監督の映画「羅生門」が、Amazonで無料視聴できるので、見てみた。その動機はただひとつ。この映画は、子どものころ、ないし少年時代、一度や二度は必ず見ているはずなのに、ストーリーも画面上の場面も、何一つ記憶に残っていないので、その原因を知りたかったのだ。例外的にただ一つ、大きな寺門※の下で人が雨宿りをしているシーンが、自分の記憶から取り出せる唯一のこの映画の残滓として残っている。たぶん、単純にきれいなシーンだからではないか。〔※: ではなく、平安京の主要都市門のひとつ。〕

で、今回見て分かったのは、映画を構成する各シーンが、ものすごく長いことだ。しかも一つのシーンの中での、筋の論理的展開はあまりなくて、たったひとつのこと(ちゃんばら、森の中の疾走や歩き、など)がその長い時間をべったり占領する。それらの“美術作品”の、長時間の“鑑賞”を強いられる。

すると、わたくしは、子ども心に、その長いシーンの途中で関心が映画から逸れてしまうのだ。自分の顔はスクリーンの方を向いているが、意識はもうそこにはない。ほかのことを、考えている。たぶん、日常のつまらないことを。

次のシーン、また次のシーンと映画が進行するにつれて、“前のシーンをちゃんと見なかった”ことへの罰が加わり、シーンの退屈さがいや増す。で、全編見ても明確な記憶はゼロとなる。

これは、いわゆる“波長が合わなかった”というやつで、この映画の作者たちや、この映画を褒めそやす人びとと、この子ども時分のわたくしとは、かなりココロの波長が合っていないのだ。ひとつのことをえんえん見せられる長いシーンは、わたくしには、かったるい。

(アメリカ映画によく(必ず?)ある、カーチェイスの長々シーンも、同様、かったるい。)

で、今回のこのブログ記事の本題は、「学校教育と波長が合わない子どもたち」だ。仮に、偉大なる黒澤監督の偉大なる名画をちゃんと鑑賞できない子を、悪、病、異状と呼ぶように、今の一般世論や教育行政は、学校教育と波長が合わない子を、単純に、矯正すべき悪、と見なしているのではないか。

それよりむしろ、たった一つの教え方を、多数の人間(児童生徒)に無理やり適用しようとするところに、今の、文化〜メディア多様化時代における、齟齬と錯誤がある。

それでも、理解ある親を持つ強い子は、自分の道をどんどん切り拓いて進んでいくだろうが、そうでない、弱い子もいる。少なくとも、学校教育に合わない子==悪、説は廃棄すべきだ。

その子に合った道や、教え方を見つけよう。

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