« 2018年6月 | トップページ | 2018年8月 »

2018年7月29日 (日)

不登校、学校教育と世界の現実とのズレのひどさ

bad氏:
> 日本社会の変わんなさて、半端ないわ。
初期の■患者のように、外側だけ見ると変化がないように見える。しかし内部では魂の枯死と腐食が進行している。

要は、要積極対応世界の広さとその要素の多様性が、桁違いに大きくなっていることに対し、今、多くの日本人は“自己鎖国”という対応を選んでいる。

つまり、いちばん楽な対応。「勉強しない」、勉強しないから理解もシンパシーも持たない(シンパシー≠同情)。もっと楽な、「勉強せずに否定する」も多くがある。ないもの、無価値なものにしちまえば、ないものには関心も勉強義務も発生しない。

日本には大馬鹿帝国トランプニアもないし、BrexitもAfDもFNもないから、一見まともに見えるかもしれないが、自己鎖国は実質的にそれと同じことで、彼らがけったいな人たちを政治家に選出している。

自己鎖国は、大きな市場、大きなビジネス機会にもなっている。例:最近のベストセラー書籍の顔ぶれを見よ。

でももちろん、桁違いに大きな市場機会は、広い世界とそれを構成する(鎖国者にとっては許しがたい)多様性だ。鎖国はいずれ敗(やぶ)れるに決まっているが、それまでの過程で要らざる摩擦をたくさん生む。政治家が馬鹿な国ほど、摩擦も激しい。

今の日本の学校教育が旧日本軍的でだめ(非人間的で無能)なら、自己のための自己流グローバル教育でもよい。世界の広さ深さ多様さを、楽しみ驚きつつ勉強していこう。先進国では、どうしても、不登校、登校拒否が多くなってしまうのだ。


| | コメント (8) | トラックバック (0)

2018年7月22日 (日)

貨幣保有/取得に格差があるのではなく、貨幣(の命!)は格差なのだ

Joi Ito(伊藤穰一)という人は、昔から‘良い人’なんだ、と思うけれども、でも、その、99%良いところが、残る1%の欠陥によって、かなりのすかすか感を持ってしまう。基本所得の普遍化(UBI, Universal Basic Income)に関する彼の議論も、99%までとても良い論考だとは思うけど、やっぱ、貨幣というやつのいやらしさ、怪物性、魔性(!)を、看過してるのではないかな。こういう人たちはみんな、貨幣を肯定〜温存しつつ、なんとかしようとする。なんとかなるんか?

コミュニケーションというレベルおける、貨幣の本質…他者不在…を、もっと多くの人たちが自覚・理解しないと、議論は次のステージへと移行できない。

インターネットというコミュニケーションツールの分野にいる人たちでも、今ではその99.9999...%の人たちが、コミュニケーションというレベルでものを考えてない。※:

※: 貨幣をめぐるさまざまなコミュニケーションがある、のではなくて、貨幣および基本的貨幣トランザクションそのものが、人間という動物の、コミュニケーションのひとつの形です。非常にネガティブで劣悪過酷な。

そこが、Joiさんなどの、とてもはがゆい、かったるい部分だ。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

間違ったメディア観の起源==芝居小屋

今のメディア人たちのメディア観/メディア像が間違っていることは、折りに触れて指摘しているが、最近その間違いの起源に思い当たった。それは、村の芝居小屋だ。そして今のメディア人たちは、自分を、芝居小屋の興行主だと思っている。

芝居小屋は、常設の場合は今それが文化財になったりしているが、たいていは村の祭りのときなどに、寺社の境内に仮設されたり、のちには“小学校の講堂”などが利用された。今のテレビなどのように24時間365日、番組で埋め尽くすという強迫はないから、興行主たる村の世話人たちの仕事は楽である。そして、だいたい年に一度の、芝居上演などの興行は、村の人たちの大きな楽しみのひとつだ。その晩、村は共同体としても盛大に盛り上がる。

そこで分かってくるのは、今の間違ったメディア観メディア像は、共同体性の残滓である、ということだ。共同体性の残滓は、いじめや共同体的非論理/恣意性、“お上(かみ)”への盲従など、今やろくでもないものばかりだ。あなた方がすがりつく共同体は、今やほどんど実在しない。それでもしかし、メディアは、それらろくでもないものの一員であり続ける。(NHKなんか、政府の広報誌ではないか、とよく思う。あそこには、ジャーナリズムのジャの字もない。)

以前、各地の田舎の旅館に仕事でよく泊まる経験をしたが、そこで痛感したのは、テレビというものは、こたつにあたったおばあちゃんが、お茶をいれたり、みかんの皮をむいたりしながら眺めるものである、ということだ。今の日本で、テレビがサマになる光景は、それしかない。

新しいメディア像、「コミュニケーション媒体としてのメディア」は、こたつにあたってるおばあちゃんたちが全員、新世代の心の中の思い出と化したとき、徐々に芽生え育つのかもしれない。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2018年7月15日 (日)

正しいメディアの基本形

最近のどっかのテレビ番組で、南米大陸最南端の寒村というか寒“町”をルポしていたが、その町にはテレビ局はないがラジオ局がひとつあり全町民がそのラジオを終日鳴らしっぱなしにしている。番組のレポーターがその町にしばらく滞在することになり、旅館もホテルも民宿もない町なので、そのラジオ局のアナウンサーがが、「日本人の若い女性がホームステイ先を探している」と放送してくれて、簡単に滞在先が見つかる。

これは、あまりにもシンプルな例だが、超分かりやすい例でもある。メディア(==社会の“糊”)は、タレント族が占拠して騒ぐためにあるのではなく、人びとが、自分の用のために使うためにある。

※: 例えば災害。今は中国地方の水害の報道が多いが、どれも“風景報道”ばかりで、「被災者のためのメディア」、には全然なっていない!。被災地には、重機などとともにメディアの利用権もあるはず。

今の放送局等の連中のメディア観は、100%、根本的に間違っている。未来のテロリストを育てる、温床にしかならない。人類のコミュニケーション不能を凍結することで、彼らは稼いでいる。本当に、腹立たしい。

次世代に負の遺産を遺すのはまずいから、何十年ぶりかでNHK受信料を払うことにしたが、こんだけ高価な金を毎月払うにふさわしい放送は、彼らは何一つしてない、とあらためて痛感する。数々のくだらん番組に大金を投ずるのをやめて、受信料を今の1/10にしてほしい。彼らの愚劣な奢りに、強烈な天罰を!

インターネットも、何億年前の恐竜のような巨大サーバー族がのさばるようになってから、旧メディアの愚劣さをそのまま再生産している。恐竜に死を、たくさんの小さな賢い生き物たちに全方向的な生を。

| | コメント (11) | トラックバック (0)

« 2018年6月 | トップページ | 2018年8月 »