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2018年6月29日 (金)

恐怖の他者不在、宇宙開発

現地の人たちでさえ、何万年来知らなかったような、恐怖のウィルスの出現は、まず間違いなく、某新興経済大国による密林乱開発が原因と思われる。

今度の、探査船が着陸予定の小惑星は、「 潜在的に危険な小惑星」とされている。地球に衝突すれば、軽い事故では済まない。

ほんで、ネット上でさんざん調べても分からないのは、探査船などぶっつけて、軌道が変わるなどして、本当に危険な小惑星になってしまわないか、という点だ。

その検証は、事前にちゃんとやってあるのか、も分からない。

実行主体が、事前にマスコミ上などで説明し、人びとを安心させたのか。それも、私は知らない。

事前検討ゼロの、乱開発の一種でないことを、せつに祈りたい。

意外と象徴的なのは、探査船の詳しい情報は多いのに、他者(その小惑星)の情報がとても乏しいことだ。そして、より深刻に象徴的なのは、探査船(探査機)と小惑星との、動的・物理的・天文学的・等々的“関係”に関する情報が皆無であることだ。他者不在の極致!!

小学校のブロック塀に対する、高槻市教育委員会の、アホぶりの、二の舞いでないことを祈りたい。

誰かひまな人、調べてみてほしい。

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2018年6月25日 (月)

新しいネットワーク活性化社会

既製の政治行政機構の無能化がどんどん進んでいる様相を、かつての徳川政権無能化とその後の革命である維新におおざっぱになぞらえると、今の日本や世界は、維新の前夜のそのまた前夜ぐらいで、無能化長寿巨大政権は倒さなければならないが、その手段や糸口がまだ見えていない段階だ。

でも前回の建造物コンプライアンスのネグレクト、かわいい小学生の死ぬ必要のない死を例題として取上げるならば、既存の学校教育や教委に代表される教育行政が全然頼りにならないのなら、任意の父兄グループが声を上げ、行動を開始する、というシナリオはありえる。

そのグループはインターネットのような通信ネットワークを介して、他の父兄グループともパートナーするだろう。

そうやって徐々に、市民の力、実力が増していく中で、前夜の前夜が、前夜ぐらいには進化すると思う。

既存権力の腐敗無能化がひどいのは、日本だけでなない。たとえば72名が亡くなったロンドンの高層アパート火事は、未だに、絶対に許されるはずのない易燃性の外壁素材が使われた経緯が分からない。

トランプは不法移民に殺された人たちの遺族をステージに陳列したが、その特定の集団の殺人率と、全アメリカの殺人率(あるいはその他の集団の〜〜)を比較しないそのやり方は、100%、アホによるアホ騙しだ。トランプのひどさは、枚挙に暇ないが。

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2018年6月23日 (土)

教育委員会に建造物コンプライアンスのエキスパートはいない

誰に・どこに頼むという慣例もない。コンプライアンス・チェックがまず必要との認識もない。一般的な印象としては教育委員会や児童相談所(やその他)は、なにもしない、なにもできない税金泥棒たちのたむろ場である。ではなぜ学校は、問題を教委に渡すのか。単に慣例(暗黙のコンプライアンス!)だからであり、必然的な論理性は何もない。つまり、学校もまた、なにもしない派の仲間だ。「教委は無能団体だから自分で専門家を探して頼む」が、唯一の正解だったはずだ。

なあなあ主義の無為をデフォルトのルールとする、おっさん文化が支配する日本の将来は、やばい。実際、専門家の過去の忠告は完全に無視されている。

本来なら、建造時の最初の最初にやることが、コンプライアンス・チェックだったはずなのに、学校はそれをさぼった。それが、すべての始まり。

日本のおじさん族は、論理が嫌いだ。彼らが好きなのは、閉所的排他的な共同体的恣意性のみ。


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2018年6月11日 (月)

あの国

あの国(orあれらの国々)は、特定の勢力が無理やりでっち上げた国である。未だに、国際社会の承認も祝福も得ていない。将来、得そうもない。なによりも重要なのは、当該地域の住民の意思とその立国とが、完全に無関係であることだ。住民が待ち望んでいたこと、ではない。むしろ、その立国は地域住民に大きな不幸と不安をもたらしただけだ。

住民の意思に反する、住民の賛同を得ていない新規立国は、デファクトスタンダードの世界法から見て、完全に違法である。だから、あの国(orあれらの国々)は、国として認められない。できるかぎり速やかに、廃国すべきである。

ラディカルという言葉の語源は「根」だが、今の世界には、ラディカルな見直しが唯一の正しいソリューションであるという問題が多い。まず、違法なでっち上げであることを、全世界が認めるべき。そして、違法状態を解消すること。

それに取り組まないから、えんえんと悲惨が続く。

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おっと、ついでに、パレスチナ人やクルド人は、ちゃんとしっかり国を与えた方が良いのか、これもラディカルに早急に検討結論すべきだ。曖昧が、えんえんと悲惨を招いている。クルディスタンって、あれは何だったのか?


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コミュニケーション論の骨子…「他者不在」、人間のレベルでそれは「貨幣関係」

このブログや、その先駆的エッセイ集で展開されているコミュニケーション理論のいちばん中核的な概念が「他者不在」です。それは、ヒトのアタマやココロの中で、他者がきちんと他者として認識確立されてない状態を指します。他者がいなければ、他者とのコミュニケーションもありえません。この不在状況は、今日まで何万年何十万年も続いています。

他者不在の分かりやすい(と思われる)例として、ここではよく動物園を挙げるのですが、確かに動物園は、人間による動物の一方的拉致です。人類がコミュニケーション有能な生き物となった未来においては、動物園は廃止されているでしょう。

他者不在は人間の社会と生活の(そして学問や産業の)あらゆる局面にありますが、中でもいちばん強力でおそろしい他者不在が宗教です。宗教は絶対者/超越者という観念的存在(他者)を、各共同体などが恣意的に解釈した、その解釈の体系です。宗教は、神の動物園です(言い換えると、すべての宗教が迷信である)。恣意的解釈なのにでも神は神(絶対者)だから、一つしかないはずの神がほか(他宗教)にもいろいろあることは矛盾しており、許されません。そこでよく宗教は、大量人殺しの動機になります。

人間はすべからく、宗教を取(と)っ払(ぱら)って、ただの人同士になることがコミュニケーション有能化への前提として重要です。

また人間同士の普遍的な他者不在関係が、貨幣(お金)のやり取りです。その関係においては、目の前の人間が人間ではなく、貨幣という価値交換ネットワークの個々のノード(節)になってしまいます。しかも貨幣の価値は「持てる/持たざる」の格差ですから、その構造の最下部に大量の貧困層/限界層を必要とします。貨幣社会は、永遠に過酷な格差社会です。

お金の所有差や収入差のない無格差社会を想像してみてください。そこでは、お金はお金としての価値を持ちません。そんなものは、空気や(日本などにおける)水と一緒で、交換財になりえない。貨幣が価値を持つのは、それがありがたい(有り難い)もの、なかなか得られないもの、すなわち希少性==格差性を持つからです。

今、何百万人という規模に達してしまった難民たちへの国連などによる配給努力や、各地の無名なボランティア努力などは、目の前の人間が「金を持ってるか」という他者不在的認識ではなく、人間そのものとして、どんな状況…助けを必要とする状況…を抱えているかに基づいて、食糧や医療などベーシックな資源の分配をしている。日本も、減反後の広大な不使用農地を、これ以上荒廃させない努力が必要ではないか。

農業は自然という巨大な他者とのつきあいだから、貨幣価値というファインダーの中に見えるものがすべて、という典型的な他者不在の視点は危険だ。…たとえば、災害に弱い地域社会作ってしまう。


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2018年6月 7日 (木)

テレビの古さを痛感

テレビに、6チャンネルだったと思うが、「プレバト」という技能競争番組がある。プレはプレイ、バトはバトルだろう。ヒトがヒトに優劣をつけること自体かったるいので、ほとんど見ないが、今日はご飯を食べながら一瞬見る機会があった。

今日は競争種目の中に、俳句などと並んで「料理の盛り付け」があった。その審判は、あの親の七光がすべての無能料理人、YD氏である。で、彼が一等賞をあげたのが某嬢の「かつおのたたき」なのであるが、それは全然、「かつおのたたき」になっていない。

だいたい、本当に有能な人は、親への本質的な批判からスタートする。親の七光の外へ脱出しようとする。プロ野球選手でも、親がスター級の名選手だったやつはみなだめだ。親とは別方向へ進もうとしなかったからだ。

※: 先代の愚行愚考の批判否定が進化のバネ。日本の不戦憲法もその実装と運用が適切で積極性があれば、本当に人類の進化に貢献しうるだろう。

えーと、それで、その一等賞を得た「かつおのたたき」は、表面をあぶったかつおを刺し身サイズにスライスした柵の形のままを皿に盛り、千切り野菜をわきに添えてある。盛り付けとしては、シンプルですっきりしている。が、ぜんぜん美味しそうでない。

しかし、本物の「かつおのたたき」は、かつおを叩くからたたきと言うのである。あぶったかつおを刺し身サイズに切るが、それらを平らに崩して大きな皿に敷きつめる。その上に、ねぎ、青じそ、みょうがなどの香味野菜の千切りをばらまき、かつおを覆い、その上に橙(だいだい)酢をしぼり、(今ならレモン酢など)、包丁の脇腹でぺたぺたと叩く。もっとも原始の調味料である酢と、香味野菜の香味を、魚肉に浸透させる。それを、野菜もろとも、にんにく醤油で食す。にんにくスライスを最初の香味野菜の仲間にするやり方もある。

そもそもテレビは、今や古い、一方通行のメディアなので、「それはたたきやないでぇ」とコメントすることができない。新しいおいしい食べ方、というわけでもない。

日本の食べ物は、ローカルをローカルに食すにかぎる。それがいちばん、唯一、美味。

土佐高知というローカル他者を忘れて、えらそうに、かつおのたたきはないだろう。

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