このブログや、その先駆的エッセイ集で展開されているコミュニケーション理論のいちばん中核的な概念が「他者不在」です。それは、ヒトのアタマやココロの中で、他者がきちんと他者として認識確立されてない状態を指します。他者がいなければ、他者とのコミュニケーションもありえません。この不在状況は、今日まで何万年何十万年も続いています。
他者不在の分かりやすい(と思われる)例として、ここではよく動物園を挙げるのですが、確かに動物園は、人間による動物の一方的拉致です。人類がコミュニケーション有能な生き物となった未来においては、動物園は廃止されているでしょう。
他者不在は人間の社会と生活の(そして学問や産業の)あらゆる局面にありますが、中でもいちばん強力でおそろしい他者不在が宗教です。宗教は絶対者/超越者という観念的存在(他者)を、各共同体などが恣意的に解釈した、その解釈の体系です。宗教は、神の動物園です(言い換えると、すべての宗教が迷信である)。恣意的解釈なのにでも神は神(絶対者)だから、一つしかないはずの神がほか(他宗教)にもいろいろあることは矛盾しており、許されません。そこでよく宗教は、大量人殺しの動機になります。
人間はすべからく、宗教を取(と)っ払(ぱら)って、ただの人同士になることがコミュニケーション有能化への前提として重要です。
また人間同士の普遍的な他者不在関係が、貨幣(お金)のやり取りです。その関係においては、目の前の人間が人間ではなく、貨幣という価値交換ネットワークの個々のノード(節)になってしまいます。しかも貨幣の価値は「持てる/持たざる」の格差ですから、その構造の最下部に大量の貧困層/限界層を必要とします。貨幣社会は、永遠に過酷な格差社会です。
お金の所有差や収入差のない無格差社会を想像してみてください。そこでは、お金はお金としての価値を持ちません。そんなものは、空気や(日本などにおける)水と一緒で、交換財になりえない。貨幣が価値を持つのは、それがありがたい(有り難い)もの、なかなか得られないもの、すなわち希少性==格差性を持つからです。
今、何百万人という規模に達してしまった難民たちへの国連などによる配給努力や、各地の無名なボランティア努力などは、目の前の人間が「金を持ってるか」という他者不在的認識ではなく、人間そのものとして、どんな状況…助けを必要とする状況…を抱えているかに基づいて、食糧や医療などベーシックな資源の分配をしている。日本も、減反後の広大な不使用農地を、これ以上荒廃させない努力が必要ではないか。
農業は自然という巨大な他者とのつきあいだから、貨幣価値というファインダーの中に見えるものがすべて、という典型的な他者不在の視点は危険だ。…たとえば、災害に弱い地域社会を作ってしまう。
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