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2018年6月11日 (月)

あの国

あの国(orあれらの国々)は、特定の勢力が無理やりでっち上げた国である。未だに、国際社会の承認も祝福も得ていない。将来、得そうもない。なによりも重要なのは、当該地域の住民の意思とその立国とが、完全に無関係であることだ。住民が待ち望んでいたこと、ではない。むしろ、その立国は地域住民に大きな不幸と不安をもたらしただけだ。

住民の意思に反する、住民の賛同を得ていない新規立国は、デファクトスタンダードの世界法から見て、完全に違法である。だから、あの国(orあれらの国々)は、国として認められない。できるかぎり速やかに、廃国すべきである。

ラディカルという言葉の語源は「根」だが、今の世界には、ラディカルな見直しが唯一の正しいソリューションであるという問題が多い。まず、違法なでっち上げであることを、全世界が認めるべき。そして、違法状態を解消すること。

それに取り組まないから、えんえんと悲惨が続く。

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おっと、ついでに、パレスチナ人やクルド人は、ちゃんとしっかり国を与えた方が良いのか、これもラディカルに早急に検討結論すべきだ。曖昧が、えんえんと悲惨を招いている。クルディスタンって、あれは何だったのか?


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コミュニケーション論の骨子…「他者不在」、人間のレベルでそれは「貨幣関係」

このブログや、その先駆的エッセイ集で展開されているコミュニケーション理論のいちばん中核的な概念が「他者不在」です。それは、ヒトのアタマやココロの中で、他者がきちんと他者として認識確立されてない状態を指します。他者がいなければ、他者とのコミュニケーションもありえません。この不在状況は、今日まで何万年何十万年も続いています。

他者不在の分かりやすい(と思われる)例として、ここではよく動物園を挙げるのですが、確かに動物園は、人間による動物の一方的拉致です。人類がコミュニケーション有能な生き物となった未来においては、動物園は廃止されているでしょう。

他者不在は人間の社会と生活の(そして学問や産業の)あらゆる局面にありますが、中でもいちばん強力でおそろしい他者不在が宗教です。宗教は絶対者/超越者という観念的存在(他者)を、各共同体などが恣意的に解釈した、その解釈の体系です。宗教は、神の動物園です。恣意的解釈なのにでも神は神(絶対者)だから、一つしかないはずの神がほか(他宗教)にもいろいろあることは矛盾しており、許されません。そこでよく宗教は、大量人殺しの動機になります。

人間はすべからく、宗教を取(と)っ払(ぱら)って、ただの人同士になることがコミュニケーション有能化への前提として重要です。

また人間同士の普遍的な他者不在関係が、貨幣(お金)のやり取りです。その関係においては、目の前の人間が人間ではなく、貨幣という価値交換ネットワークの個々のノード(節)になってしまいます。しかも貨幣の価値は「持てる/持たざる」の格差ですから、その構造の最下部に大量の貧困層/限界層を必要とします。貨幣社会は、永遠に過酷な格差社会です。

お金の所有差や収入差のない無格差社会を想像してみてください。そこでは、お金はお金としての価値を持ちません。そんなものは、空気や(日本などにおける)水と一緒で、交換財になりえない。貨幣が価値を持つのは、それがありがたい(有り難い)もの、なかなか得られないもの、すなわち希少性==格差性を持つからです。

今、何百万人という規模に達してしまった難民たちへの国連などによる配給努力や、各地の無名なボランティア努力などは、目の前の人間が「金を持ってるか」という他者不在的認識ではなく、人間そのものとして、どんな状況…助けを必要とする状況…を抱えているかに基づいて、食糧や医療などベーシックな資源の分配をしている。日本も、減反後の広大な不使用農地を、これ以上荒廃させない努力が必要ではないか。

農業は自然という巨大な他者とのつきあいだから、貨幣価値というファインダーの中に見えるものがすべて、という典型的な他者不在の視点は危険だ。…たとえば、災害に弱い地域社会作ってしまう。


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2018年6月 7日 (木)

テレビの古さを痛感

テレビに、6チャンネルだったと思うが、「プレバト」という技能競争番組がある。プレはプレイ、バトはバトルだろう。ヒトがヒトに優劣をつけること自体かったるいので、ほとんど見ないが、今日はご飯を食べながら一瞬見る機会があった。

今日は競争種目の中に、俳句などと並んで「料理の盛り付け」があった。その審判は、あの親の七光がすべての無能料理人、YD氏である。で、彼が一等賞をあげたのが某嬢の「かつおのたたき」なのであるが、それは全然、「かつおのたたき」になっていない。

だいたい、本当に有能な人は、親への本質的な批判からスタートする。親の七光の外へ脱出しようとする。プロ野球選手でも、親がスター級の名選手だったやつはみなだめだ。親とは別方向へ進もうとしなかったからだ。

※: 先代の愚行愚考の批判否定が進化のバネ。日本の不戦憲法もその実装と運用が適切で積極性があれば、本当に人類の進化に貢献しうるだろう。

えーと、それで、その一等賞を得た「かつおのたたき」は、表面をあぶったかつおを刺し身サイズにスライスした柵の形のままを皿に盛り、千切り野菜をわきに添えてある。盛り付けとしては、シンプルですっきりしている。が、ぜんぜん美味しそうでない。

しかし、本物の「かつおのたたき」は、かつおを叩くからたたきと言うのである。あぶったかつおを刺し身サイズに切るが、それらを平らに崩して大きな皿に敷きつめる。その上に、ねぎ、青じそ、みょうがなどの香味野菜の千切りをばらまき、かつおを覆い、その上に橙(だいだい)酢をしぼり、(今ならレモン酢など)、包丁の脇腹でぺたぺたと叩く。もっとも原始の調味料である酢と、香味野菜の香味を、魚肉に浸透させる。それを、野菜もろとも、にんにく醤油で食す。にんにくスライスを最初の香味野菜の仲間にするやり方もある。

そもそもテレビは、今や古い、一方通行のメディアなので、「それはたたきやないでぇ」とコメントすることができない。新しいおいしい食べ方、というわけでもない。

日本の食べ物は、ローカルをローカルに食すにかぎる。それがいちばん、唯一、美味。

土佐高知というローカル他者を忘れて、えらそうに、かつおのたたきはないだろう。

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