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2018年5月 7日 (月)

犬は歩かなくても他者不在に当たる

キリシタン遺跡世界遺産うんぬんなんてテレビのニュースから聞こえてくると、またまたそこに、典型的な他者不在の空隙を感じてしまう。

他者不在とは、そのものを、そのものの本質に即して見よう知ろうとせず、こっちの欲望の視野に欲望対象物として置いてしまうことだ。長年の貨幣関係が、それを根深く重症化している。

キリシタンに関しては、その単純軽薄な観光資源化に違和感を感じた。キリシタンって、そーゆーもんか?

(石見銀山や富岡製糸場にも類似の違和感を感じるけど。)

本はたくさん出ているようだけど、かんじんなことが、分かりそうな本はなさそう。良い本をご存知の方は、教えていただきたい。

当時の被宣教者たちの理解視野の上では、宣教師たちはなんて言ったのか?
(また、宣教師自身の意図としては、なんて言ったのか?)

同じく当時の被宣教者たちの理解視座の上で、その教えの何に、どーゆー点に惹かれたのか?

つまり、彼らにおける「キリシタンの教義」とは何だったのか?

ぜんぜん、何もわからんのである。

他者の分らなさを棚上げしたまま、その上に観光というペンキを塗ったくるのは、やはり甚だしき他者不在。

どうせなら、いっそのこと、百姓一揆で磔(はりつけ)打首刑が執行された場所を、世界遺産にしてはどうか。

われわれのご先祖の一部ではないか。何に魅せられたのか、真剣に知る努力をすることが、供養だと思う。


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