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2018年4月16日 (月)

科学技術と自然との健康的な接点を探そう

科学は一種の全体主義である。

全体主義的な思考の背後には一種の科学がある。

多様なローカリティ(他者性)の集合体である真存在にとって、科学は、当てはまらない場合や害悪である場合が少なくない。

科学は、真存在の肉体から、あらかじめコミュニケーションという血液をすべて抜きっとってもぬけの殻にした状態に対し、執行される。いわば死体群の防腐液漬けのようにして。

里山の防災機能は村落社会の一般的普遍的認識ではなかったと思われるが、たとえば私の住む住宅地の近くの農村部には一箇所だけ、落葉広葉樹を主体とする伝統的里山と、さらに家の背後にいちばん近い部分(いわゆる裏庭の先)を竹やぶのままにしてあるところがある。防災を意図したのか、あるいは針葉樹林による日照の妨害を嫌ったのか、動機はよく分からない(当主はとっくに故人だろう)が、当時の、無差別悉皆植林を勧奨する愚かな行政指導に従わなかった人も、皆無ではなかったのだ。

しかし99%の村民が植林に励み、里山をなくしてしまったのは、経済動機ゆえである。今でも、将来、檜がゼニになると信じている人は、植林林地の里山化を受け入れない。

みんな、林業なんて、分かってない。林業をまじめに実践する気もない。農家の資本回転は短い。春に田植えをすれば、同じ年の秋にはリターンがある。林業は、そうは行かない。林業は難しい。安定収入の保証もない。

しかしなにしろ、こないだまで里山だった裏山を檜の苗びっしりにして、あとは知らん顔で、そんなものが将来ゼニになるはずがない。

しかし一方、里山の古典的経済価値(薪や炭の燃料用、家畜の餌の草、堆肥の原料となる落ち葉、など)は、化学肥料や農薬、石油系燃料など科学技術の産物に押されて、消えてしまった。

今や経済価値がなくなった里山に、将来ゼニになるかもしれない檜苗を植えることは賢明な農業経営である、と誰もが思う。

しかしながら、まじめにプロフェッショナルに林業※しなかった檜が、売れる材になるはずがない。檜の不健康な密集放置林は、さまざまな害をもたらし、最悪の致命的な害が崩土である。ほとんどの場合、人や家畜の命を奪う。

※: 本格的なプロフェッショナルな林業は、里山でやるべきものではない。道路その他の設備の整った奥山でやるべきもん。

だが、その害を巨額な貨幣の負として明示的に計算できる人は、残念ながら昔も今も少ない。崩土で若い妊婦が死んだって、損害額ゼロ円だ!!! わかりやすい、表面的実物的な貨幣…すなわち金(かね)…しか、貨幣価値として認識しない人が多い。

そんな愚の典型として、ここの宅地造成は山を削った斜面の上っ面をコンクリートで固めるという愚かな工事をしてあるのだが、去年の長雨でついに崩落を起こした。コンクリートが大面積で割れ外れて、斜面から落下した。

科学技術の実践は、どんなに大規模でも、試験管の中の隔離された現象だ。そして隔離は完璧ではありえないから、大自然や人の命との対話現象が起きる。試験管の破損による化学物質等の遺漏、不要物の廃棄による自然環境の汚染、などなど、しょせん、完全かつ永遠の隔離はありえない。自然との対話関係のない科学技術は、ありえない。

永遠の隔離がある、との愚かで傲慢な錯覚により、地震津波常襲地帯の海岸に原発を作る。土俵に女は乗れない、というオトコの錯覚。日本は最終的に神風が吹いて戦争に勝つ、というオトコの確信。他者不在は、全地球サイズ、全宇宙サイズの永続する悲惨である。

根張り(ねばり)の強力な本来の里山の樹種なら、崩土は防げたとしても、それを取り戻すには2〜3年、10〜20年では足りない。複数世代にわたる、自然への肯定的な関心の維持が必要だ。

そして、日本の農村から醜い檜の放置林が消え、再び美しい農村を取り戻すだろう。そのとき、できれば再び幼児に戻り、親にきのこ狩りにまた連れてってもらいたい。

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コメント

 里山は、山とのコミュニケーションである。
 というか、山と「C動機」で関わった結果が里山であり、「B動機」で関わった結果が崩落する檜林である。

投稿: 市川智 | 2018年4月16日 (月) 23時21分

交通事故はもう話題にもならない。

死者が出るのが当たり前の社会。

「現代の野蛮」という狂気。


追伸、「試験管」では?

投稿: 南 | 2018年4月17日 (火) 07時24分

あら、よく見ると「官」ですね!

投稿: iwatani | 2018年4月17日 (火) 07時38分

>永遠の隔離がある、との愚かで傲慢な錯覚
「対岸の火事」という状況はありえないですね。
自分の知っている、「私たちはつながっている」というメッセージの確かさを再確認しました。
もっと引き寄せれば、「他人ごとではない、自分ごと」にもなるかと・・・
相互互助。

投稿: n,s | 2018年4月17日 (火) 23時50分

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