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2018年4月23日 (月)

言葉の民主化(という一見陳腐な話題)

新聞など一般的庶民的メディアでも最近はますます、本来そのコト/モノを指す日本語(とくに漢語、漢字熟語)はあるのに、もしくは“作れる”のに、「平仮名英語」を使う例が圧倒的に多い。

創業者→ファウンダー、完全菜食主義(者)→ヴィーガン、主題→テーマ、箱入り袋→バッグ・イン・ボックス、無料旅程→フリープラン、…、これらは文字通り、枚挙にいとまがない→エンドレス。

電子計算機→コンピューターのように、日本語の方が死語になりつつあるものも、少なくない。

そこでひらめいたのは、日本国内でグローバルな言葉であるところの漢語、漢字熟語、ないし、いわゆる標準語は、われわれの言葉ではなくて「官」の言葉だったのではないか?

学校教育も、官の言葉を官の言葉として習う機会にすぎない。

だから今の一般的な文章の中では、「創業者」は官的に硬いから使いたくない。ファウンダーの方が軽くて親しみがありポップだ、つまり、ファウンダーの方は、われわれの言葉、すなわち民主化された言葉だ。

アメリカ人にとっての英語にも、少し昔の(主に西海岸の)ヒッピー全盛期のころに生まれた新言語文化を源泉とするところの、(最近ではテクノロジー界隈も源泉のひとつ)、新スラング的言語系があるが、それは別の機会に。

ちなみに、technologyは、「技術」という日本語で収まる場合と、だめな場合がある。

いわゆる和製英語は、英語ではないから完全に誤称misnomerだけど、やはり日本人による、言葉民主化努力の産物だ、と感じる。

一昔二昔前の「われわれの言葉」、それは各ローカル共同体の庶民の方言だ。それしかない。しかし、でありながら言語民主化努力の中でポピュラーになった方言は、けっこう多い(中でも関西弁〜大阪弁の語彙)。最近の例は北海道方言?「そだねー」、果たして定着するか。

こんなことを考えるきっかけになった、アン・クレシーニさんのKindle本テレビ出演ブログを、おすすめしたい。

この、“大学准教授”の方は、場合によっては本物の英語より和製英語の方が良い、とまで言っている。

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2018年4月16日 (月)

世界一訳詞が難しい歌詞

We skipped the light fandango
軽い曲になったので休んだ
Turned cartwheels 'cross the floor
給仕のカートを部屋の向こうへ転がした
I was feeling kinda seasick
これは船酔いか?
But the crowd called out for more
もっとやれとみんなが騒いだ
The room was humming harder
前よりも騒々しい部屋になってきた
As the ceiling flew away
天井が上の方へ抜けたんだ
When we called out for another drink
もう一杯頼んだら
The waiter brought a tray
ウェイターは空のお盆を持ってきた

このへんは、まだまし。でも、全体の文脈の中では、ここもすでに難しい。全体は、高度な象徴詩で、ふつうの意味での意味はない。だが、「個」というものに関し巨大ピラミッド級の確立と孤独を教える。地球にいながら、自分が別の天体であるかのような違和感。ある英語のサイトが、「これは、この直後に沈没が始まる、タイタニック号の上の最後の夜のダンスパーティーをうたった歌詞だ」、という独創的で奇抜なヒントをくれたので、やや、訳せる気になった※。

※: 上の部分では、すでに床(ゆか)が傾いているようでもある。本人は自分の船酔いだと思ってる。

ひまな人は、このページと、ここからのすべてのリンク先を読んでみよう。

YouTube上には、“現在の”Gary Brookerが歌ってるビデオがある。今の方が、パワフル。


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科学技術と自然との健康的な接点を探そう

科学は一種の全体主義である。

全体主義的な思考の背後には一種の科学がある。

多様なローカリティ(他者性)の集合体である真存在にとって、科学は、当てはまらない場合や害悪である場合が少なくない。

科学は、真存在の肉体から、あらかじめコミュニケーションという血液をすべて抜きっとってもぬけの殻にした状態に対し、執行される。いわば死体群の防腐液漬けのようにして。

里山の防災機能は村落社会の一般的普遍的認識ではなかったと思われるが、たとえば私の住む住宅地の近くの農村部には一箇所だけ、落葉広葉樹を主体とする伝統的里山と、さらに家の背後にいちばん近い部分(いわゆる裏庭の先)を竹やぶのままにしてあるところがある。防災を意図したのか、あるいは針葉樹林による日照の妨害を嫌ったのか、動機はよく分からない(当主はとっくに故人だろう)が、当時の、無差別悉皆植林を勧奨する愚かな行政指導に従わなかった人も、皆無ではなかったのだ。

しかし99%の村民が植林に励み、里山をなくしてしまったのは、経済動機ゆえである。今でも、将来、檜がゼニになると信じている人は、植林林地の里山化を受け入れない。

みんな、林業なんて、分かってない。林業をまじめに実践する気もない。農家の資本回転は短い。春に田植えをすれば、同じ年の秋にはリターンがある。林業は、そうは行かない。林業は難しい。安定収入の保証もない。

しかしなにしろ、こないだまで里山だった裏山を檜の苗びっしりにして、あとは知らん顔で、そんなものが将来ゼニになるはずがない。

しかし一方、里山の古典的経済価値(薪や炭の燃料用、家畜の餌の草、堆肥の原料となる落ち葉、など)は、化学肥料や農薬、石油系燃料など科学技術の産物に押されて、消えてしまった。

今や経済価値がなくなった里山に、将来ゼニになるかもしれない檜苗を植えることは賢明な農業経営である、と誰もが思う。

しかしながら、まじめにプロフェッショナルに林業※しなかった檜が、売れる材になるはずがない。檜の不健康な密集放置林は、さまざまな害をもたらし、最悪の致命的な害が崩土である。ほとんどの場合、人や家畜の命を奪う。

※: 本格的なプロフェッショナルな林業は、里山でやるべきものではない。道路その他の設備の整った奥山でやるべきもん。

だが、その害を巨額な貨幣の負として明示的に計算できる人は、残念ながら昔も今も少ない。崩土で若い妊婦が死んだって、損害額ゼロ円だ!!! わかりやすい、表面的実物的な貨幣…すなわち金(かね)…しか、貨幣価値として認識しない人が多い。

そんな愚の典型として、ここの宅地造成は山を削った斜面の上っ面をコンクリートで固めるという愚かな工事をしてあるのだが、去年の長雨でついに崩落を起こした。コンクリートが大面積で割れ外れて、斜面から落下した。

科学技術の実践は、どんなに大規模でも、試験管の中の隔離された現象だ。そして隔離は完璧ではありえないから、大自然や人の命との対話現象が起きる。試験管の破損による化学物質等の遺漏、不要物の廃棄による自然環境の汚染、などなど、しょせん、完全かつ永遠の隔離はありえない。自然との対話関係のない科学技術は、ありえない。

永遠の隔離がある、との愚かで傲慢な錯覚により、地震津波常襲地帯の海岸に原発を作る。土俵に女は乗れない、というオトコの錯覚。日本は最終的に神風が吹いて戦争に勝つ、というオトコの確信。他者不在は、全地球サイズ、全宇宙サイズの永続する悲惨である。

根張り(ねばり)の強力な本来の里山の樹種なら、崩土は防げたとしても、それを取り戻すには2〜3年、10〜20年では足りない。複数世代にわたる、自然への肯定的な関心の維持が必要だ。

そして、日本の農村から醜い檜の放置林が消え、再び美しい農村を取り戻すだろう。そのとき、できれば再び幼児に戻り、親にきのこ狩りにまた連れてってもらいたい。

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2018年4月12日 (木)

耶馬溪の土砂崩れ

今ならあちこちで写真を見ることができるが、崩壊現場は典型的に、「住宅地のうしろの山が里山(さとやま)になっていない」。檜らしき針葉樹植林の密集(==間伐をまったくしていない“放置林”)が、背後の山林ほぼ全域を填めている。写真で見るとそれらは、まるで「つまようじ」や「マッチ」のような細いものの密集に見える。それらに、土や地盤を保持する力はまったくない。

前回書いた状況のとおりである。(今回もまた、お腹に赤ちゃんのいる若い女性が殺されている。)

(今回、写真は著作権問題がありそうなので、ここには再掲しない。今はインターネットの上のあちこちで、見ることができる。)

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2018年4月 1日 (日)

古典文学という他者

他者不在の頻出する心象のひとつに、「他者のことを分かってるつもり」がある。ここで取り上げるのは、動物園の消費対象ではなく、現地で研究対象にされた(どっちも同じようなものだが!)アフリカの野生のゴリラでもなく、1000年以上前の日本人だ。

わび人のわきて立ち寄る木のもとはたのむかげなくもみぢ散りけり 僧正遍照

これは、9世紀か10世紀、つまり1000年以上前の日本語だ(古今和歌集)。インターネットで調べると、30分も経たないうちに三種の解釈に出会う:


  1. 早逝したナントカ親王を追悼するうた

  2. 独居老人が孤独と寂寥を訴えるうた

  3. 色恋の儚さ移ろいやすさを嘆くうた

どれも、その世界の専門家らしき人の解釈だ。

しかし、作者の真意を知る方法はない。インターネット上の、降霊術でもないかぎり。

そもそも、たとえばこの私は、今の日本語の「わびさび」とか「わび住まい」とか「わびしい」などに登場する“わび”と、上の和歌の冒頭の“わび”との、意味やニュアンスの違いを知らない。というより、今の日本語の“わび”の意味すら、正確には知らない。

わからない、を、率直に認めることが、他者への礼儀ではないか。そしてその後、対話や会話が可能ならすればよい。自分の勝手な解釈で最初から決めつけるのは、たいへんな失礼である。

上の“わび”の例は、この和歌におそらく何十も何百もあるであろう‘分からない’の、ほんの一例にすぎない。解釈者は、自分の単一の解釈を主張するのではなく、多様な、‘ありうる解釈’を挙げて、おもしろい読み物を書く心意気が必要だ。他者は他者である。わかったつもりになるのは、失礼である。それはまさに、他者不在である。

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