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2018年3月21日 (水)

共同体的恣意性

日本では(とくにそのオトコ社会では)ローカルな共同体的恣意性が論理力をお粗末にする、と前に書いたけど、最近はどこかの機関が「エネルギーミックス」なるものをテレビのコマーシャルで宣伝している。

原子力発電の必要性を認めろ!という主旨のCMだと思うが、画面左下に「安全性を第一に優先して計画を進める」とかいう小さなメッセージが出ている。(正確な言葉は、覚えていないが。)

で、ここでの、ひでぇローカルな恣意性は、原発のinherentな非安全性が考慮されていないことだ。安全な原発、なんてない。万一の災害時事故時には、コントロール不能の巨大怪物と化す。廃棄物の安全な処理方法もない。だから女性(==子どもを産む)である某国首相は、単純に原発全廃を決めている。原発があることのリスクと、ないことのリスクを、同じ議論のテーブルに載せることはできない。そんなことをしたら、それもまた、ローカルな恣意性のひとつにすぎない。

半世紀あまり前の、日本の軍部を中心とする指導層の、ひでぇローカルな恣意性と、まったく同じものを現代の日本人オトコの一部、企業経営者や政治家の一部は、もろ引き継いでいる。人間として、進化してない。またまた、民を犠牲にするつもりだ。

だいたいそれは、反省項目、改革項目の中になかったのだから、そのまま残存していて当然か。

でもこれじゃあ、正しい論理力が重要なコンピューター利用能力(プログラミング能力を含む)が、いつまでも日本人に広く定着せず、世界から取り残されるのでは?

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2018年3月19日 (月)

さて次はどうしようか?

たとえば、お金(貨幣)は差異および差異の階層という、非常に悪質かつ残酷なシステムである、という認識や、人類の一般的なコミュニケーション不能の普遍的根本的な原因である他者不在という、自然で無意識な脳内現象の自覚が、全人類に近いぐらい多くの人びとの心や頭に定着しないと、コミュニケーション学やコミュニケーション理論の構築努力も、ほとんど無力で意義がない。

このブログは2008年に始まっているし、その前身であるエッセイ集は2002-2007にかけて書かれている。そろそろ20年近い。

そろそろ、別の展開を考えた方がよい。だが、“子どもにも分かる展開”を考えつくのは、たいへんむずかしい。

こちらも、しばし、必死で考えなければならないけど、みなさまのご意見やアイデアも歓迎したい。

もっと別の人が、別の方法で、活躍した方が良いのかもしれない。

コミュニケーション社会のベースとなりうるか、と期待されたインターネットも、少なくとも現状のバージョン0は、悪貨が良貨を駆逐してしまったような悲惨な状態が、日に日に重症化しつつある。(他者不在の人は他者がいないんだから、全然、対話・会話をしない!)

こいつも、そろそろ、考えどきである。

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