共同体的恣意性
日本では(とくにそのオトコ社会では)ローカルな共同体的恣意性が論理力をお粗末にする、と前に書いたけど、最近はどこかの機関が「エネルギーミックス」なるものをテレビのコマーシャルで宣伝している。
原子力発電の必要性を認めろ!という主旨のCMだと思うが、画面左下に「安全性を第一に優先して計画を進める」とかいう小さなメッセージが出ている。(正確な言葉は、覚えていないが。)
で、ここでの、ひでぇローカルな恣意性は、原発のinherentな非安全性が考慮されていないことだ。安全な原発、なんてない。万一の災害時事故時には、コントロール不能の巨大怪物と化す。廃棄物の安全な処理方法もない。だから女性(==子どもを産む)である某国首相は、単純に原発全廃を決めている。原発があることのリスクと、ないことのリスクを、同じ議論のテーブルに載せることはできない。そんなことをしたら、それもまた、ローカルな恣意性のひとつにすぎない。
半世紀あまり前の、日本の軍部を中心とする指導層の、ひでぇローカルな恣意性と、まったく同じものを現代の日本人オトコの一部、企業経営者や政治家の一部は、もろ引き継いでいる。人間として、進化してない。またまた、民を犠牲にするつもりだ。
だいたいそれは、反省項目、改革項目の中になかったのだから、そのまま残存していて当然か。
でもこれじゃあ、正しい論理力が重要なコンピューター利用能力(プログラミング能力を含む)が、いつまでも日本人に広く定着せず、世界から取り残されるのでは?
| 固定リンク | コメント (9) | トラックバック (0)
最近のコメント