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2018年1月23日 (火)

恐怖の停電

うちに収まりきれない猫4匹を、板厚わずか5センチの木造小屋に置いている。冬の早朝の室温は外気温と変わらないので、アンカやエアコンで暖房している。人間用の家は、断熱性能がある程度あるから、猫はアンカだけで十分だ。

久々の雪の日の夜9時半、突然の停電になった。この停電が長時間だったらやばい。脳裏を恐怖が走る。

しかし幸い、停電は1時間弱で終わった。小屋へエアコンをリスタートしにいくと、室温はあるべき温度より3〜4度すでに下がっている。1時間足らずで。

で、今回痛感したのは、今では灯油やガスを利用する暖房器具でも、運転には電気を要する、ということ。うーん、無理して原発を増稼働するより、節約すべき電気の無駄遣いがいっぱいあるんだ。

グローバルな依存性と、ローカルな自立(自律)性。後者の比重、充実度を高めることが、近未来の最重要課題のひとつだ、と思う。エネルギーに限らず、もろもろ。

とりあえず大慌てで、電池やマッチで着火できる古典的石油ストーブを買ったけど、今後は、ソーラー発電ならぬソーラー蓄電も必要かもしれない。

恐怖の停電は、重要なことをあらためて眼前に突き付けてくれた。

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2018年1月15日 (月)

なぜ没論理がまかり通るのか

日本人は論理を忌避し、共同体的恣意性に頼る場面がとても多い(しかもそれを美徳とする)から、プログラミングの理解と多少の作成能力をベースとするコンピューター科学(CS, Computer Science)の普及浸透は無理ではないか、と思う機会が多い。

今回は、女性の隠れ家の住所をストーカーに教えてしまい、女性が殺された事件で、その市役所は「殺されることは想定しなかったので無罪(or罪が軽い)」と主張している。

“殺されることは想定できたけど情報を教えた”は、まずありえないことだから、まさに、「想定すべきことを想定しなかった」迂闊怠慢が、市役所の罪の中核ではないのか。

(プログラミングの設計構造は、事実をベースとするのではなく、一般的な論理をベースにしなければならない。事実は、あらゆる可能性をカバーしていない。)
ついでに:
(プログラミングの企画は、起きたことへの対処(救助など)ではなく、それが絶対にorなるべく、起きないことを目的としなければならない。)

いかにも日本的に、「まあ、そこまで想定しなかったんだから、しょうがないね」で済まされるとしたら、今後の日本はますますコンピューター三等国、四等国、五等国となり、やがて、あらゆる海岸が原発事故に汚染されるだろう。

「だって、大きな津波が来るなんて、想定しなかったんだもん!!!」

【追記】今日(1/15)、横浜地裁の、慰謝料110万円(請求額1000万円)の判決が出たらしいけど、お金やその額について考えることも言うことも無意味だ。閲覧制限がかかっているのは、一般公開したら危険があるから、に決まっている。だから市の主張:「情報漏洩によって被害者の死亡まで予測することは難しい」は、完全にナンセンスで非論理的な詭弁だ。しかし裁判官も、この詭弁を納得してしまったのだろうか※。おとろしいなぁ、ニッポンジンの非論理性は!

※: 判決理由の報道では、(閲覧の)「目的を特定できなかったから…」となっている。すなわち裁判官も没論理の同じ穴の狢(むじな)だ。(単純な一般論理では、特定できない==あらゆる危険の可能性がある、となる。)


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2018年1月 5日 (金)

「天然」の本質

天然という形容は、なぜか男性にはなかなかつかないようだ。

女性には、よくつく。三船美佳さん、ヒラリー・クリントン。さとう珠緒さん、ちょっと名前をど忘れした、あの往年の人気タレント、などなど。

その、天然と呼ばれる部分は、脳や心の、ふつうの人間にはない部分である。たいへん気になるので、天然な人には惹かれる。

しかし、天然とは何か、を説明しようとすると、最初から行き詰まる。

非常に図式的な説明をすると、たとえばこうなる:

ふつうの人: 何かの物や労力の提供に代価を求めたり与えたりする。
天然の人: 物や労力は、その場その時の自他の必要に応じて授受するのみである。代価のやり取りは意識にのぼらない。

もしこの図式が正しいとすると、天然は、人類の進化の兆候を表しているのかもしれない。
交換価値ではなく、コミュニケーションによって生きていく新人類の。

(しっかり書くヒマがないので、今回はこの辺で。)


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