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2017年12月25日 (月)

消費者という他者不在

他者不在という、コミュニケーション学/コミュニケーション理論の重要概念を理解するためには、動物園をその例として考えるのが、いちばん分かりやすいのでは、とかねてから思っているのだが、果たしてどうだろうか。

いずれにしても、たとえば昨今の、パンダの赤ちゃん騒動も、消費者的==他者不在的ひどさに満ち満ちている。

・パンダという動物は、動物園という環境へ拉致されて、毎日見世物(という任意消費財)にされて、その人生は本当に幸福なのか?

という問いはどこにもなく、(かんじんの、パンダ本人への思いやりはゼロ!!)

・パンダを観光資源や外交資源(?)とする中国の、いや各国の姿勢は、生息地の自然環境に長期的にどんな(負の)インパクトを与えているのか?

という問いもない。

現代世界の三大惨事、四大惨事を、五大惨事にまで拡大すれば、その5番目の大惨事は、十億総消費者化、消費者と呼ばれる醜い人塊の圧倒的な肥大化だ。消費者は(その‘合計’としてはすげえ金持ちだから)ときに“王様”と呼ばれ、その本質の無力無学さや貨幣に支配される惨めさは、欺瞞の背後へ覆い隠される。

そして世界はますます荒廃する。格差は広がり、放置され固着される。

人類のコミュニケーション有能化のためには、多くの人たちのまず意識の脱消費者化が絶対に必要である。とりあえず、子どもたちを動物園という消費財の消費者という位置から、救出しよう。そしてさらに、子どもの全人格として、消費者というクソ地獄からの救出を。パンダへの見方(など)をきっかけに。

※: キリスト教とその構成物(クリスマスなど)の多くも、明らかに、何かの、消費者的隠蔽だわ。


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コメント

奴隷制度を廃止した人類は、
次には消費者制度を廃止しなければならない。

ただ消費するだけの人生になんの意味/意義があるのか?

無意味であるだけではなく、明らかに悪である。

投稿: 南 | 2017年12月26日 (火) 07時42分

テレビでクリスマスソング特集とかなんとかで、消費ミュージックのオンパレード。しんどい日常の上にシリアスなROCKなんて聞きたくないんだろうな。

投稿: bad | 2017年12月26日 (火) 09時33分

パンダもクリスマスも、日本では消費を盛り上げる手段としか使われていない。パンダは人間のエゴに振り回されてかわいそう。クリスマスはといえば、そもそもキリスト自身こんなお祭り騒ぎは望んでいなかったのではと思えてならない(非キリスト教徒ですが)。

投稿: kaoru | 2017年12月26日 (火) 17時22分

資本主義が進むと、当然人間も「取り替えのきく消費物」になってきますよね。それはいやだ。こき使われてポイされたくない。
というわけで、自ら「金はないが時間は潤沢にある」生活を選びましたとさ。めでたしめでたし。

投稿: 地球に落ちてきたのうさぎ鞠魚 | 2017年12月28日 (木) 17時18分

会社において
プライドと利他の相克は、なんとも度しがたい
のである。そこまで聖人になれるか、という話
である。どうしたらよかんべかー。仏さんに聞い
てみよー。

投稿: n,s | 2017年12月29日 (金) 16時39分

ドパミン系神経の細胞体は主に「中脳」にあるが、ヒトでは大脳皮質にも多くあり、チンパンジーなどの類人猿にはないという。何か重要な事ではないか?

投稿: bad | 2017年12月30日 (土) 20時13分

煩悩丸出しの資本主義で、どーやって煩悩を否定すんの?

投稿: bad | 2018年1月 1日 (月) 21時03分

>消費者と呼ばれる醜い人塊の圧倒的な肥大化だ
なんかわかったのである。自分がなんで観光客に危機感を持ったのか。観光客こそいい加減・無責任な消費者だからである。パッと見るだけでサッサと帰っていく。そんな人らを、経済の根幹要因に据えようなんざ、正気ではない。くるくるぱーである。そんなものに地元の人の生活をゆだねられない。不安定・不安そのものじゃないか、いっときのハヤリで激変するのである。そんなのに頼るのは危険そのものじゃないかい。
政府は日本をギャンブル観光立国に仕立てたいと言うけど、とんでもない話じゃないか。馬鹿たれどもが。

消費者=利用するだけの人。ものの生産に関わらない(苦労しない)人達。恥ずべき行為をする者達。この世の終り。

投稿: n,s | 2018年1月 2日 (火) 03時14分

訂正
>自分がなんで巨大な観光客に危機感をもったのか。
>観光客こそが「無責任な消費者」だからである。
>いっときのハヤリで激増・激減するのである。
>とんでもない話である。馬鹿たれどもが。

投稿: n,s | 2018年1月 2日 (火) 15時52分

iwataniさんは消費しては寝そべってる奴はたたあ切ったるという人ですからね。しかし周りはそんな人ばっかりじゃないですか?

投稿: bad | 2018年1月 2日 (火) 17時14分

今ではいろんな運動がある。宗教をやめましょう、という運動もあるし、観光(というタイプの他地域との関係)をやめましょう、という運動もある。それぞれ大きな運動でも著名な運動でもないが、中国の民主化勢力と同じで、1万人に一人か10万人に一人ぐらいは、地域にはいり込んだりして意識的に頑張っている。女性が多い。

投稿: iwatani | 2018年1月 2日 (火) 18時26分

n,sさんは観光客を罵倒してるみたいだけど、怒りの矛先が違うんじゃない?観光客はその時に行ってみたい所・話題になっている所に足を向けてるだけなんだから、罵倒される筋合いはないわよ。n,sさんは、観光客が落とすお金頼りな地域経済に憤りを感じてるのを観光客のせいだと思ってるのよ。
やるべきことは…そうした不安定なものに頼らずにやっていける地域経済の基盤をつくることじゃないの? 成功する保証はないし、すぐには効果が現れないかもしれないけど。少なくとも八つ当たりするよりは建設的じゃない?

投稿: 地球に落ちてきた裸ののうさぎ | 2018年1月 3日 (水) 21時17分

まあ、もっとわしの怒りの理由は近視眼的な理由である。どうにもあんな狭い市場の通路を、巨大な流動物的に押し流されている観光客。もちろんその手には買い物袋なんて持たずに、スイスイと歩いてるだけである。その人海に対して声を枯らしてる魚屋の売り子たち、またあきらめ顔で立ち尽くしてる八百屋や衣料品店や花屋の店員。わしが子供の頃年末は、母と両手にでっかい袋をぶら下げて、客の海の中をくんずねんずで歩いていた思い出がある。それに比べると、今の圧倒的に不毛な光景。
確かに自分の時代と周りの状況は全く違うのであるが、今ほど店舗に格差が出ることはなかったろう。問題は売れていない業種である。たぶん閉店を余儀なくされ撤退するのではないか。市場内のバランスを著しく壊してる。
わしもそこそこに観光に来るのなら嬉しいのである。それをTVで見たか知らないが、どどっと物見遊山的に押しかけて地元の環境を壊していくのは頂けない。それとも単に自分の思い出に固執してるだけなのか。

それと観光客をメインや当てにして経済政策を考えようとしてる、施政者に腹が立つ。    まあこんなとこで。

投稿: n,s | 2018年1月 4日 (木) 02時22分

近江町市場はどうしたらいいんだろう。僕はミスドと近江スーパーに行くぐらいで。

投稿: bad | 2018年1月 4日 (木) 11時02分

It will become great again.は、もうないでしょう。では、どう変わるのが自然だろうか。流れからいくと、観光客専門の食のデパートと化して延命を図るのが妥当じゃないだろうか。ただ飲食店しかないとすれば、観光する面白味は半減していくだろうけどね。まあこれが自然な流れじゃないでしょうか。

投稿: n,s | 2018年1月20日 (土) 00時37分

もっと文句を言うと、ブームに乗ってやってくる観光客に、本当の感受性があるのか怪しい限りである。あんな人の後頭部しか見えないような場所に、よくノコノコやってくると思う。単に話題の場所にいる自分をアピールしたいだけじゃないのか。虚しく寂しい気がする。
わしやったら、本当に人のいない所でたまたま気に入った景色なんかを、1時間ぐらいじっくり見つめ続けたい気持ちに駆られることがよくある。なにも特別なところじゃない、自転車や車でいけるところである。それで充分満たされる気持ちになるのである。慌ただしい観光地とはえらい違いである。

それと消費者って、生産する苦労や喜び・充実感を知らない人。なんでもカネで処理する人っていうイメージがある。自分も同じようなもんだが。

投稿: n,s | 2018年1月21日 (日) 09時49分

日本の団体旅行客にとって、旅行そのものや旅行先のことはどうでもよい。重要なのは、だべりながら団体でぞろぞろ移動する「安堵感」==自己責任のなさ、と、「旅館での宴会」のみ。

京都の錦市場の人たちは、そのことをとっくに承知で、観光客を相手にしないし、目もくれない。聞かれたことには答えるだけ。

市場で重要なのは、「日頃のお得意さんをだいじにする」ことだけや。

昔、観光客としてでなく京都の住民の一人として錦の魚屋さんに鯛を買いに行き、そこのおっさんに、「イケか?シメか?」と、わしの知らんことを聞かれて面食らった。いい勉強にはなったけど。

投稿: iwatani | 2018年1月21日 (日) 19時35分

この間、久しぶりに映画館で映画を見ました。やはり途中からあの言葉が浮かんできました。「映画とは悲しくさせるくらいの退屈だ」。ボウイさんは天才でした。これだけはっきり言ってもらわないと、あのモヤモヤ感は対象化できなかったでしょう。
そしてその虚しさは、消費者の虚しさそのものです。ただ座って、受けているだけ。これはつまらない。やはり・・・

>声を枯らしてる魚屋の売り子たち
年末という切羽詰まったときに、観光客に占拠されると店側はもうやってられないのである。

投稿: n,s | 2018年1月25日 (木) 00時48分

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