シリアルキラーと被害者、双方のすごい孤独
人類という生き物はこれまでウン万ウン十万年という長い期間、ローカル共同体(統一国家のことをグローバル共同体と呼ぶなら)に依存して生きてきたので、共同体性の名残というやつは、まるで尻尾(しっぽ)の名残の尾てい骨のように、あちこちにしぶとく残っている。
そしてそれら共同体性の残滓というやつは、いじめに代表されるような悪質なものも多いのだけど、なんでそれらを悪質と感じるかというと、被害者が共同体を脱した「個」になりつつあって、共同体の規範から自由な個は良い(善い)ものであるという、観念があるからだ。いじめは、そんな‘異質な’個体を排除しようとする。
だが現実は、自由な個は善と良であるだけでなく、悪をはたらく自由を持つ個であったりもする。また、共同体を破壊し空洞化し、人間を個へと分断しつつあるものは、何を隠そう、貨幣経済のグローバル化、のより大々的な進展であるので、そこに共同体のそれぞれローカルな規範に代わるグローバルな規範が共有されないかぎり、貨幣社会は過酷な差異の階層であるので、往々にしてそれは差別の階層ともなり、悪の温床となりやすい。
昔(前世紀前半まで)も、共同体を排除されて共同体に恨みを持つ者が大量殺人を犯す、といったことはまれにあったけれども、概して共同体時代の人類社会は、悪や犯罪が少ない。そのころの民話やお伽話に、悪人はあまり出てこない(盗賊や鬼はよく出てくるが、いずれも共同体外からの侵入者だ)。人類がばらばらの個になり、しかもそれらは各人が貨幣を稼がなければならない、しかし稼げない人の方が多い(階層は下の層ほど多く上へいくほど少数となる)。したがって、現代までの粗放な貨幣経済社会は、もろ、悪の温床である。
学問的動機のない、単なる受験競争への参加も、犯罪の卵と呼べるかもしれない。逆の本当の学問的動機のある人なら、必ずしも特定大学の入学にはこだわらないだろう。
で、現代の粗放的貨幣経済社会は、人間一人々々をものすごーく孤独にするのである。そして片方では、そんな孤独者をかもにする犯罪者(そいつもまた孤独者!)も、あちこちに毒キノコのように生えてくる。
悪をはたらくことは一種の自殺行為、自滅行為なので「得」ではない「損」である、という認識をたまたま持っていることも含め、この私はたまたま運が良かった孤独者であるにすぎない。
それで貨幣経済が人間をばらばらな(そして自由な!)孤独者にし、多くの人の貨幣経済的困窮を生んでいる現代社会では、今の警察の仕事…発生した犯罪への対応…は、law enforcementないし防犯という仕事の全体の、20%ぐらいに位置づけなければならない。そして残る80%は、まだまだ、その真の芽生えがない。
大量の孤独者困窮者を放置する‘粗放な’貨幣経済社会を早急に終わらせることが、政治等の最上位課題にならないと、あかんわ。
たとえば、メディアをもっとメディアの名にふさわしいものに!
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語注: シリアルキラー, serial killer, 連続殺人者
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