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2017年10月 4日 (水)

ごみの山にすぎないディスクール

人気沸騰中のQ&AサイトQuoraで、各国の義務教育の主要科目にコミュニケーションがあるか、きいてみた。

Does your country have major courses on Communication and/or Relation Building in its compulsory education subjects? Japan does not have it unfortunately. 訳: あなたの国では義務教育の主要科目にコミュニケーションや関係構築があるか? 残念ながら日本にはない。

完全にirrelevantなアンサー。しかも唯一のアンサー:

Check out the Toastmasters Clubs in Japan. They specialize in communication and leadership. They hold meetings in both Japanese and English. Google them to find a meeting that will match your schedule.
大人向けのリーダーシップ育成講座?

Quoraにしては珍しくアンサーがひとつしかなく、しかもそれは、まったく見当はずれの回答である。もうこの質問自体、大量の新しい質問の下に埋もれてしまっていて、これ以上待ってアンサーが来る期待は持てない。

さて、上は、義務教育におけるコミュニケーション教科の有無だが、場所をもっとでかくして、全世界の全思想史(ただし影響力が大きかったメジャーなやつ、有力宗教の教義も含む)、としよう。そしてテーマをやや広げて、他者、複数性、関係性、コミュニケーション、としよう。

その思想の重要な考察(〜〜執筆)テーマとして、上記のテーマがあった思想家、コミュニケーションのあり方について人びとに強い大きな影響をもたらした、あるいはもたらそうとした、思想家は、いただろうか? わりと書物等の公刊点数の多い西欧哲学の人たちも含め、そんな人は一人もいない。

そこで、今日までの人類の全思想史は、その全体が、ごみである(見てのとおり、たいへん有害なごみも多い)。どこかにまとめて山積みにして、焼却した方がよい。

(このブログのコメンターの中にも、その焼却物に加わるのがふさわしい者が、いるかもしれない。今後のその人たちの、言動にもよるが。)

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コメント

書物という表現の仕方が既に非コミュニケーションそのものです。

孤独な部屋に時たま投げ込まれる文字の集まりという絶望的状況。

これまではしょうが無かったかもしれないが、これからはもう少しマシに・・・。

投稿: 南 | 2017年10月 5日 (木) 07時17分

@南
教育機関・寺院教会など、肉体的な場にすら、活発な対話会話関係は伝統的にありませんしね。階層の上部が、威張っているだけ!。

投稿: iwatani | 2017年10月 5日 (木) 07時45分

Kawabataさんへのお返事をしようと思っていたところ新記事が目につきクリックしましたがいつもの事ですが呆れました。括弧内の所に反応したのでなく本文の文章のひどさと内容のなさです。悪文の見本のような文章ですね。以前から思っていた事ですが、そもそも現代思想へ登場以降のあなたの文章のひどさには目もあてられません。西欧全哲学をゴミ箱に放り込むのは、ある意味では私の任ずるところでもありますが、それにふさわしい手続きが必要なのではないでしょか?コミュニケーションの一事でバッタバッタと斬り倒す。それはマンガです。コミュニケーションを云々するなら、人間的主体は関係の要素に如何にして足りうるのかていう要件を展開してからでなければダメです。その肝心な事がどこにも書いてありません。そもそも対話対話というが、対話・議論をしようという姿勢がどこにもない。誰が相手でも、問題が何でも、コミュニケーションの一事で片付けるのだから、そんなもの成立する筈がありません。それから論理とおっしゃるが、例えばプログラミングは論理の対象化とか、ではあなたの頭の中に展開されている思考の枠組みは何かというとアリストテレスが考えた形式論理学でしょうsign02違うというなら、それは何も考えていないか、単にあなたがバカか、あるいは全く違う思考文法で考えているという事です。もしそうならその枠組みをきちんと他の人に解るように展開しなければダメです。私はいきなり失礼なコメントで登場しましたが、それは、そもそもコメントした目的がこのブログの住人になりたいからでなく、これから対人的対社会的表現の世界に出ていくに当たって、腕試しをしたいという気持ちからで、それには岩谷宏は好敵手だと思いましたがさきの理由によりそれは徒労でした。まあ一定の満足は得られましだ。kawabataさんへの切り返しで自分の文章を書く能力にも確信が持てたし、あれを読まれた方は好印象を持った筈です。最後にkawabataさんへのお返事ができなくなったのが心残りです。サヨナラ

投稿: 東村山のジェニー | 2017年10月 5日 (木) 20時11分

> 西欧全哲学をゴミ箱に放り込む
西欧全哲学とは言ってない。否定すべきは、宗教の教義なども含め、教えや主張の中にコミュニケーションの重視や強調を欠いていた全思想史です。今だに続いている悲惨な人類史の、大きな原因のひとつだ、と思います。

> 人間的主体は関係の要素に如何にして足りうるのか
関係というものを、このように単独に、別に、あと付け、外付け的に扱うのは、古い思想の典型的な特徴のひとつです。コミュニケーションの環境を考えた場合、関係は存在に先立ってあるものであり、関係は存在のベース、“存在の正体見たり関係や”であり、関係は存在の骨であり肉であり全臓器です。でもこれは、古典的オトコには絶対に持てない感覚かもしれない。関係を自覚し、そのクォリティを良くしていくことが、コミュニケーション努力。

※:わかるかな。あと付け的に言っちゃったら、その関係は空無でしょう? したら、要素もへちまもありませんよ。

#自分の言語観(ないし貧弱な読解力)を絶対的な基準にして、ひとの言表をけなすのは、みっともないからやめたら。複数性、これもこれからのコミュニケーション理論の重要な概念のひとつ。どうでもいいけど、現代思想の拙文は中学校の教材に使われたこともある。

投稿: iwatani | 2017年10月 7日 (土) 19時02分

度重なる失礼に対して寛大なる御配慮、言葉もありません。私がこれほど失礼な言動な走ってしまった事と、本題に対してどう考えているのか、書くことが許される範囲で、もう少し詳しくお話しさせて頂きます。
この現実世界では関係が存在に先行し、故に、その不備による様々な不幸を払拭するためにもコミュニケーションの充実が必要だという御説、私も同感であり完全に賛成です。

では、お前は一人で何を騒いでおるのか?それは、唯物論現実が絶対的に保証されているのでなければ、事態は少しどころか大きく変わってくるという事です。この宇宙に無から有が生まれ、そして単性生殖から最初の異化・分化である性分化が発生し、革命的な変化が訪れた。どころか性分化は直ちに、異化でなく、同化(種)へと回収される事になった。なっている。この世界では、何かが起きると、何か変化が起きるのでなく直ちに同へと回収される、わずかばかりの時間過程しかなく、これを歴史・出来事といっている。

私が考えている存在・関係は、この現実世界と真に実在している世界にまたがる、そういう次元で考えられています。少し頭のおかしな人と思われるかもしれませんが、ドゥルーズという人の周縁的な考え・超越的経験論によって、唯物論がどうやら、成立しない事が逆証明されています。ちょっと覗いてみてください。それからノミナリズム的歴史観によって完全に破壊されるヨーロッパ人というより西欧人のアイデンティティー、その帰結として基本的人権という考えの堅固性もあやしくなってくる。それから当然生じると予感されるオブジェクション。
ユのこれらなどまだweb上で書ける事です。自分の知的所有権が保証されないと書けない、などという理由でなく、それがもたらす人間的社会に与える決定的なダメージを考えると、思った事を思ったようにフレンドリーな姿勢でとても書けないのです。その思いがこのような大変失礼な言動として発現してしまった。そして私が最も展開したい、どかに発表しなければならないと考えている個体論の与える影響。能動知性論のアポリアに対する解答。それは人間の思考文法そのものを完全に、あやしい、低劣なものとして証明してしまう事になる。まあ、中間子論を発表する前の湯川秀樹のような気分です。当然、原子力開発につながる事を承知で、しかし真理のために、それを明らかした。以上です。

投稿: 東村山のジェニー | 2017年10月 9日 (月) 10時53分

う~ん、コミュニケーションって、まずドゥルーズとかっておぢさんの哲学の本を読まなくちゃならないのかしら?私なんか、週3日行ってる仕事先の変なおじさん・同居している大量に物を溜め込む妹・その引きこもりの娘・たちをどうやりすごすかっていうレベルで苦心してる次元だからなんかピンとこないわ。だって、前述の人たちはそうしたいからそうやってるんでしょ?それを私が変えることはできないんだから。私が距離を置くか逃げるしかないのよね。

投稿: 野兎マリ.アンヌ隊員 | 2017年10月 9日 (月) 22時46分

あれだけ失礼な言動を働いて応答があるとは思っていません。この数日間、仕事をしながら頭の中で岩谷さんとのやり取りをイメージしていたので、その時思った事を書かせてもらって退場しますdownconfidentdown

能動知性のアポリアに対する解答ですが、カントの理性批判が呼び起こした衝撃。人間理性への絶対的制限。近代・現代アートartが精神病者の呻き声にしかなっていない、その根源的原因としてのカント哲学。14世紀から徐々に下降・有限的制限を経てきて、この有り様ですから私がこれからやろうとしている事の与える影響は計り知れない事が予測され、又、数日間の頭の中のシュミレーションで自分の才能を確信しました。まああの70年代の伝説的人物との論争は出来ませんでしたが、これで良かったと思っています。今から2500年の西洋哲学史のてっぺんに行きますsign05run、本当にサヨウナラ

投稿: 東村山のジェニー | 2017年10月14日 (土) 13時12分

東村山のジェニーさんの文には、読者を遠ざけてしまう二大欠点がある:

1)現状の貴文は「テツガク村の長年の住民」にしか理解できない。このブログには、私を含め、そういう希少人種はいない。オープンなネットワークであるインターネットの上では、問題とソリューションをふつうの言葉で述べること。読者として、中学生やそこらのおばちゃんたちを想定するとよい。

2)「自分の才能を確信しました」「てっぺんに行きます」などの軽薄な自画自賛が多すぎて、読者の心を疎外している。文章を、下品にしている。

投稿: iwatani | 2017年10月15日 (日) 08時11分

“XOR=排他的論理和”。岩谷さんとジェニーさんとの間で価値観や考えに亀裂があって、とくに問題はない、…というか、むしろそこでスイッチが入っているということになる。この前提が、このブログを呼んでいる読者にとり不透明であるかもしれないというのは、ジェニーさんの言葉の使い方にひとつ問題がある、との指摘が出たところです。

このブログの読者さまにあらせられましては、一見して両者の亀裂と見える部分にこそ、氏言うところの「コミュニケーション」が、雷鳴のごとく炸裂している。しかしそれは目を背けるような事態ではないということです。むしろ必要となるのは、それを見極める視力の獲得だということです。

一見すると亀裂が“分裂”をまねき寄せているかに見える。しかしそれは、長年の人類の“病癖”、すなわち、“対象化の病い”であり、その実態とはすなわち、“事後的”にできごとを判別~臆断し、そこですかさず自家薬籠(じかやくろう)中の、手垢にまみれた言葉や概念によってのみ言い及ぶという、ある種の慢性生活疾患としての「自家化」の塗布によるものである。(傷口に化膿薬を塗り込めるようなものである。)

しかしてその真因は、亀裂そのものにはない。亀裂の本質とはむしろ、未来のコミュニケーションへの可能性として、人類進化の可能性へと切り開かれる空間なのだ、亀裂とはそういうものなのだ、という認識が必要となる。

(哲学的には、現象における“現前”という事態にまつわるところの“再現前化”の問題。現前状況に際する、意識の、作法の問題ということ。それは、その場面その場面の振るまいであることから、「文脈」という、いわく言い難い、「複数性」にまたがる関係における、微妙な配慮と判断が即応的に必要とされてくる。“関係性の視座”。「スポーツを応援する時、単調なタイコのリズムではだめだろう」。)

人類における“自家化”としての歴史的な慢性疾患は、容易に解消できず、ときに劇薬が必要となる。しかるに、“意味よりも強度”、亀裂、切れ目“そのもの”としてのインパクトも必要であろうし、(関係の現場における“できごと”性…「のれんをくぐって現れたお客の体調を一目で察知し、麺のかたさ、ダシの濃さ、などをその場で加減することは可能であろう。」)

…すくなくとも、亀裂という事態に対して、従来のごとく、使い古された生ぬるい言葉を反復するだけでは、いかに工夫しようとも、事態はいっこうに打開されないのは明らか。

(また、この複雑な現代社会では、それ(=亀裂や打開)を戦争に期待する状況にはない。他者を“外部”として“思考停止”できない。)

一見すると生ぬるい…しかし実態としては極めてシビアな…この社会に生きてている私たちからすれば、Iさんの言葉はきつ過ぎるスパイスであるようにも見える。しかし事態のシビアさは、それこそかつて氏が声高に警告していたそのままに、より深刻さを増している。

貴重なアドバイスをよく吟味し、自らの処方箋とすべきである。よしんば自らの処方箋を完備し得たと思い込むのは自由であるが、おそらくは、じゃっかんの改良の余地がある。

投稿: s-d | 2017年10月15日 (日) 12時08分

ジェニーさんへ。

80年代のRO、懐かしいですね。私も毎月、岩谷さんの原稿を楽しみにしていました。今はもう閉店して久しい、駅前商店街の書店の、同じコーナーにありました。

原稿の中でたまに言及される哲学に関するお話は、当時高校生の自分でもなんとか咀嚼できる程度に噛み砕かれた内容で、自分の場合も、その延長線上でしばし、「思考」の世界に翼を羽ばたかせてきました。

カントの“物自体”という、よくわけの分からないような、いわゆる「アプリオリ」なるものを、「能動的知性」、つまり、世界を刷新すべく、その斬新なる知性を用いることで、あらたな人間の精神が、その領域を自ら切り開くべく、それを切れ目、トリガーとすること。

有効な方法論のひとつではないでしょうか。さほど詳しいわけではありませんが、自分もそう考えています。

つまり、物自体=アプリオリとして、私たちの今現在の、世界に対する共通認識の土台となっているものを、コミュニケーションという生活慣習のレベルで、根底から突き崩す必要があるということです。

そしてその革命は、革命理論などとして恣意的な、政治的なものであるよりも、むしろ生物学的な、人類の精神の「進化」の文脈としてあるような、より自然発生的なものではないでしょうか。

「近代・現代アートが精神病者の呻き声にしかなっていない」というのは、それが無意識の声、あるいは叫びであるということで、そこに新たな「共通認識」、あるいはその基盤が与えられていないということでしょう。

これを逆に見れば、その無意識の声…精神病者のうめき声のようなものを、新しい世界の新しい言葉とするなんらかの文法のようなものが必要とされるということです。

ひとつ、Iさん(=岩谷さん)が取り組まれている、コンピューターの文法やコミュニケーションの世界。これは、“超越”的な領域の話であるよりも、現実世界の、生活レベルの人間のやりとり、ふるまいのレベルにおける文法の話ですよね。(RO時代の記事:「人殺しラーメン屋になるな」)

「意味よりも強度」に関しては、ロックの振るまい、みぶりといったものが、それに臨む意識のあり方も含めて、レゲエやパンクロックの台頭として、余計なものを振り落とすかたちでより純化された。それを身振りとしての強度の問題として捉えれば、亀裂が亀裂そのものの力により、それを塗布するノリの成分を振るい落としたと考えることができる。

自分がここで学んでいるのも、また違った意味でそれを発展させた方向としての、“新しいコミュニケーションにおける新しい作法”ではないかと考えています。

私たちの日常空間に突如として現れたパソコン…それは“単なる電化製品ではない”…の登場にまつわって、やはり、早くも生じた人類の病癖としての塗布病。自家化病。その付帯物を払い落とすべく、まったく新しい、それこそ未知の“なにものか”として、“パーソナルコンピューター”を“再定義”すること。

それが、各々が、自らの個体性に任じて、敢行すべき試行としてあるということ。

(この場合の「パーソナル◯◯」は、パソコンに限定されないと考えています。それはI氏にとって、そこがたまたま、パソコンを話題にする場所であったというだけの話ではないのでしょうか? 「ロック」の場合にそうであったように、氏の展望は、その本質として、「パソコン」の領域を大きくはみ出しています。(それがウザくて仕方がないと、技術者たちは言う…RO時代とおなじではありませんか!)

その場所で、かつてのロックにおける新しい世界へ向けての“トランスフォーマー”としての作法が、類似の方法論として展開されているように思うのです。

私たちの中に刻まれているIさんの新鮮な言葉は、いつまでも老いることがありません。それはかつての私たちにおいて、大きなインパクトとしておとずれた、その体験という亀裂に着床したひとつの種子であり、それは、氏による徹底的な錬金術、訓練~ディシュプリンを通して汲み上げられた、純度の高い“をち水”により生長を続けています。

(※をち水=をとめ、をとこたちが飲む、若返りの妙水。)

お互い、がんばりましょう!!

投稿: s-d | 2017年10月15日 (日) 12時18分

岩谷さん、s-dさん お二人の玉章 拝見させていただきました。ご両人のご配慮 心にしみました。

今後は、極力、ジャルゴン・哲学的概念・用語を排し、自らの個体論に磨きをかけるための良きヒントとして活用させていただき、そのおり、ひらめいた事などあれば、コメントさせて頂きたいと思っています。

敬具

投稿: 東村山のジェニー | 2017年10月15日 (日) 22時36分

iwataniさんのコメントに先を越されたけど、哲学用語多用の長文も小説臭さを感じてしまう。語彙に酔っているというか。また語意にしても自分のイメージによるところが多く、その掛け合いによって自分の世界に入るというか。   小説に似ていると思う。

投稿: n,s | 2017年10月17日 (火) 06時53分

アホっぽくて申し訳ないですが、コメントは長くても10行位にした方がよろしいかと思う。

投稿: musataro | 2017年10月17日 (火) 19時43分

musataroさん、私も賛成なのだ!そんなに長文が書きたければ、自分のブログやら何やらでどんだけでも書けばいいのだ!管理者の承諾がなくても載るからって、イミフな長文は迷惑なのだ!

投稿: のうさぎマリオのパパ | 2017年10月17日 (火) 21時11分

「長文が迷惑」というのには賛成できない。
 私はあまり長文を書いていないけれど、そのうち書くかもしれないし。

 明瞭でコミュニケイティヴな長文は、むしろ歓迎したい。

投稿: 市川智 | 2017年10月18日 (水) 00時18分

人様のブログのコメントのことよ!ヨロピク!(笑)

投稿: のうさぎマリオのパパ、的な? | 2017年10月18日 (水) 09時28分

突如始まった「イミフ長文コメント撲滅キャンペーン」に関して一言。

最近の長文コメントと言えば、東村山のジェニーさん、s-dさん(これ昔の「最期の奴隷」さんの別名だよね?)、そしてkawabataが投稿したものが思い浮かぶため、このキャンペーンは、これらの人たちが書いた長文コメントを「意味不明のゴミ」として断罪し、このカテゴリーに分類されるコメントを今後は有害物として排除しようと呼びかけているように見える。その気持ちはよぉーく分かる。これらの人たちのコメントにはいずれも難解な哲学用語がドヤ顔的に散りばめられており、重篤な厨二病患者の男子に特有のナルシス臭ないしオナニー(キャッ!)臭、イワタニ教信者の成れの果てのオジサン臭も濃く漂っているため、人によっては嫌悪感を催すかもしれない。そのような悪い点については、これらの人々も今では深く反省しているであろうし、今後は「寸鉄人を刺す(殺す?)」ような珠玉のコメントを目指して、日々研鑽に励んでいくに違いないと私は思う。

しかし、そもそも本サイトは「来るべきリアルなコミュニケーションサイエンスについて考える」場所のはずである。だから、すべてのイミフ長文コメントを本サイトから排除すべきではない。問題となるのは誰がそれをイミフと判断するかだ。野兎マリ.アンヌ隊員さんにとってはイミフでも、他の人にとってはイミフではない長文コメントが今後出てくる可能性は大いにある。最終的な判断は本サイトの所有者である岩谷さんに委ねられるのだから、一介のコメンテーターがイミフ長文コメント排除キャンペーンを独断で展開するのは、それこそブログ主に対してシツレーではないかとも思えるのだがどうですやろ。

ついでに本スレッドの元記事についてコメントすると、どんなクソ文書であろうと今時「焚書」はないんじゃないでしょうか。逆に、いかなる悪書であろうと誰もが読めるようにネット上で無料で公開する方が反面教師として役に立つことが多いのではないかと思われます。岩谷さんもそれらのメジャーなクソ文書をすべて読まれたからこそ「全部ゴミ」と判断されたわけですし。例えば、西田キタローとか三木キヨシとかクキ周造とかが書いた文章は現在ネットで誰でも無料で読めますが、これらの哲学者の文章を読むと、この時代の日本の哲学のレベルの低劣さがよぉーく分かり反面教師としては有益だと思います。

いかん、また長くなりそうなので、この辺で止めます。

投稿: 茅ヶ崎のSweet Jane(aka kawabata) | 2017年10月18日 (水) 13時30分

のうさぎマリオのパパ、的な? さん

 もちろん、私が言っているのは、「人様のブログのコメント」のことです。よろぴく(笑)。

投稿: 市川智 | 2017年10月18日 (水) 23時22分

badはん、出番でおまっせー。
たけなわでおまっさかい、はよしんとー。

投稿: n,s | 2017年10月18日 (水) 23時32分

ワイ何いえばいいか?個体、他者不在、コミュニケーションの問題、とかは論理の問題というより、ある種生まれつきというか、直感で分かってないとアレではないか?

投稿: bad | 2017年10月19日 (木) 00時25分

それと長文はいただないですね。

投稿: bad | 2017年10月19日 (木) 00時50分

いただないでは無くいただけないでした。

投稿: bad | 2017年10月19日 (木) 00時51分

不毛な揚げ足取りはこのへんにして(おいおい)、iwataniさんの問いかけに自分なりに答えるとすれば、ブッダくらいじゃないのかしら?
別にあたしが実生活でブッダの教えをどうこうとかっていう、そんな話じゃなく、シンボルとしてそのたたずまいをいつも心に留めておく、っていうのかな。
あ、念のため言っておきますが、いっさいの「宗教」は信じておりませんので。

投稿: 素っ裸のうさぎ | 2017年10月19日 (木) 20時41分

bossのgt-1というマルチエフェクターが無茶苦茶ほしくなってきた。(欲望は欠損の表現である。)しかしドゥルーズは欠損の表現ではないと言っている。さーてどうしたもんか。どうせ買って遊ぶだけやんけ。

投稿: bad | 2017年10月26日 (木) 12時11分

このあいだ、獅子舞の打ち上げ会をおでん屋でやった(むっちゃハヤっていた)。しかし今でも「男一匹ガキ大将」の銀次的なやつがいるのに驚いた。若いやつで「カッコいいすっよねー」を連発していたし、子供好きなのも意外だった。
自分としては、(保存)会の役割は浅く広くひろげて、なるべく全員参加するような方向へ持っていきたいのであるが・・・・。

投稿: n,s | 2017年10月29日 (日) 05時19分

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