小説という言語表現物
私は小説というものが好きでないし、自分が小説を好きでないこと自体に対しても、さほど関心がないのだけど、このブログの前回で他者不在==自家化という視点を示したので、その視点の補足として取り上げる意味があるかもしれない。
小説は、言葉の自家化の典型的な営みのひとつであるが、しかも同一のテクストが、ある種の病原菌のように複数者に広まり、かつ、その複数者の各個の孤散の状態は、小説がある前と、あるときと、あったあとで、まったく変わらない。小説は、言葉の孤独な消費、孤独な自家化営為、言葉の自慰行為である。
したがって小説というディスクール・エコシステムは、その総体が、コミュニケーションにとって犯罪的である。ものによっては(人数的に)相当大規模なエコシステムでありながら、どんなに大きくても小さくても、そこにはコミュニケーションがゼロである。
そこに100%あるものは、脳天気な自家化のオンパレード。“言葉の自慰的大ドラッグ・パーティー”と書きたいところだが、パーティーにはコミュニケーションのコの字ぐらいはあるので、パーティーという語は、小説という汚穢な社会現象&&言語現象を言い表すのにはふさわしくない。
それは完全に無コミュニケーションで、コミュニケーションの“幻想”やそれに向けてのメッセージ性、アジテーションすらないから、小説はロック音楽などに代表される現代アートの仲間入りをすることがない。
恣意的な自家化が(恣意的でない自家化は言語矛盾だが)、作者→登場人物→読者という階層の上で拡散増幅する。それで、みんな、大満足している。おのれの為した自家化に。なんたる不衛生な消費者現象!!
小説という、不真面目な、不真剣な、言語使用形態を抹殺しよう。神の自家化(宗教)が、唯一絶対神の複数化という、むちゃくちゃな論理状態を招来するように、言語の自家化は長年の人類の孤散状態を放置し、肯定する。言語の自家化という犯罪的行為は、孤独な、そして矮小な、孤散した自己満足の集まりだけを作り出す。
小説家を、自治体の長など、重要な政治家にしてはならない。もう遅いが。
ノーベル文学賞は廃止し、21世紀とその後の世界にふさわしい、「孤散的自慰的==自家化的アートを破壊する新しい形式のアートや表現や議論に与える賞」を新設せよ。ノーベルの意図が、より良き人類の未来にあるのなら。…これはあくまでも、暗喩的説明的パラグラフにすぎないが。
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