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2017年9月18日 (月)

小説という言語表現物

私は小説というものが好きでないし、自分が小説を好きでないこと自体に対しても、さほど関心がないのだけど、このブログの前回で他者不在==自家化という視点を示したので、その視点の補足として取り上げる意味があるかもしれない。

小説は、言葉の自家化の典型的な営みのひとつであるが、しかも同一のテクストが、ある種の病原菌のように複数者に広まり、かつ、その複数者の各個の孤散の状態は、小説がある前と、あるときと、あったあとで、まったく変わらない。小説は、言葉の孤独な消費、孤独な自家化営為、言葉の自慰行為である。

したがって小説というディスクール・エコシステムは、その総体が、コミュニケーションにとって犯罪的である。ものによっては(人数的に)相当大規模なエコシステムでありながら、どんなに大きくても小さくても、そこにはコミュニケーションがゼロである。

そこに100%あるものは、脳天気な自家化のオンパレード。“言葉の自慰的大ドラッグ・パーティー”と書きたいところだが、パーティーにはコミュニケーションのコの字ぐらいはあるので、パーティーという語は、小説という汚穢な社会現象&&言語現象を言い表すのにはふさわしくない。

それは完全に無コミュニケーションで、コミュニケーションの“幻想”やそれに向けてのメッセージ性、アジテーションすらないから、小説はロック音楽などに代表される現代アートの仲間入りをすることがない。

恣意的な自家化が(恣意的でない自家化は言語矛盾だが)、作者→登場人物→読者という階層の上で拡散増幅する。それで、みんな、大満足している。おのれの為した自家化に。なんたる不衛生な消費者現象!!

小説という、不真面目な、不真剣な、言語使用形態を抹殺しよう。神の自家化(宗教)が、唯一絶対神の複数化という、むちゃくちゃな論理状態を招来するように、言語の自家化は長年の人類の孤散状態を放置し、肯定する。言語の自家化という犯罪的行為は、孤独な、そして矮小な、孤散した自己満足の集まりだけを作り出す。

小説家を、自治体の長など、重要な政治家にしてはならない。もう遅いが。

ノーベル文学賞は廃止し、21世紀とその後の世界にふさわしい、「孤散的自慰的==自家化的アートを破壊する新しい形式のアートや表現や議論に与える賞」を新設せよ。ノーベルの意図が、より良き人類の未来にあるのなら。…これはあくまでも、暗喩的説明的パラグラフにすぎないが。

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2017年9月11日 (月)

他者不在とは何か

他者不在は、このコミュニケーション学/コミュニケーション理論の(おそらく人類初の)試行的スケッチにおける、最重要な概念のひとつだ。

この言葉を見て、なんだこりゃ?と思う人も多い、と思うから、ちょっと解説しておこう。

他者不在とは、人間の認識構造の中に他者がないことである。

何千年何万年にわたって、コミュニケーション不能を基本資質としてきた人類は、本当はコミュニケーション努力をすべき他者を、何でもかんでも「自家化」してきた。

神(絶対者、超越者)も宇宙も自然も、動物も植物も、そこらの他人も、そして自分自身も。

たとえば神を自家化する行為が宗教である。宗教は往々にして最上位の支配的規律だから、宗教は他者不在構造のトップに位置する。神は唯一絶対神であるはずなのに、宗教の数だけ神がいて、しかもそれら(==複数神)がすべて、各宗教の信者にとっては唯一絶対神だから、ここにはものすごい論理的錯誤(ルビ:むちゃくちゃ)があり、しかも彼らはそのことに気づかない。

みんな唯一絶対神を仰ぐわけだから、みんな仲良くすればよいのに、宗教を異(こと)にする共同体同士は、喧嘩(戦争)ばかりしている。宗教は神という他者への大々々失礼だから、早急に全廃すべきである。

他者不在はその唯一の他者を他者として認めることができず、複数の自家化された「元他者」を作り出す。

宇宙は他者としてリスペクトされていないから、今人類はそこをゴミ屋敷にしつつあるし、他の惑星などを平気で勝手に自分のコロニー(植民地)にする気だ。

一部の珍しい動物が自家化されたものを、動物園と呼ぶ。動物園は明らかに動物虐待だから、絶対に廃止すべきである。

他者の自家化は、いちばん分かりやすい例が、子どもの進路を自分で決めてしまう教育パパママだが、そんな“他者を勝手に操作する”の例は、家庭、学校、会社など至るところにたくさんありすぎる。独裁者〜独裁政権は、自家化に逆らう他人を排除拘束抹殺してきた、いや、している。

自然の自家化は、自然という他者からの厳しい復讐を受けることが多い。アフリカという、何万年もの人類居住の歴史があるところに、なんで今頃急に、おかしなウィルス病が発生蔓延してきたのかというと、その原因は某大国による原始林等の大規模乱開発だ。先祖伝来、荒らすことを禁じられていた原始林の資源略奪は、貨幣制度の強力な支配によって生じた、原住民たちのやむを得ない行為だった可能性もある。

他者不在の起源は、コミュニケーションという意思や努力のないところでは、他者は単なる恐怖と不安のかたまりだから、それらを大急ぎで自家化してしまうのである。

そして、偽り(いつわり)の安心(あんじん)を手に入れて、気持ちが落ち着く。他者は、永遠に疎外されっぱなしになる。

そして他人〜他共同体とは、互いに相手とのコミュニケーションではなく、有価財(のちの貨幣)の等価交換で関係の安定を維持しようとする。

このノン・コミュニケーション状況が、今や全世界全人類を支配しつつある。それこそが、テロをはじめ新しいタイプの犯罪の温床だ。

(この稿、今後更新あり)

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2017年9月 4日 (月)

今どぎつく目立つようになっている世界のからっぽぶり

今荒れ狂っている中東とその周辺ばかりでなく、他の地域や民族、たとえばビルマ西部のロヒンギャの人たちなどもだけど、「昔々は一応みんな融和して今ほどギスギスしたことはなく暮らしていた」と言えるだろう(文献例)。中東も、ヨーロッパ人が木綿布などと交換にコーヒーや香木などを買い入れていたアルチュール・ランボーの時代など、文献等からは概して「のどかな」感じしかない。

荒廃は、貨幣経済のグローバル化とともに始まり、深刻化が進んでいる。

社会のほぼ全員がグローバル貨幣経済へ拉致され、それまで人びとの生活を支えていたローカル共同体は解体無力化する。

日本のような金持ち国は、共同体が担えなくなったぶんを貨幣経済+調停調節機能としての政府で代替しようとするが、それすらまだ十分ではない。日本ですら、クッションのない酷薄な格差貧困が進んでいる。たとえば、伝統的な“三世代家族共同体”がないと、子育てはきわめて困難。

日本ですらそうだから、政府機能が未成熟不安定で、お金もあまりない、というところでは、非常に分かりやすい例としては、金と女を恵んでくれる大規模暴力集団(その資金源の多くは犯罪行為である)に若者が流れる。

経済のグローバル化と並行して、本当に必要なものは、グローバル司法(+司法執行力)とグローバル福祉、すなわち世界政府である。世界政府として今の国際連合は、食糧配布などで努力はしているものの、あまりにも非力である。

一国内で政府のような調停調整調節機能の重要性がいよいよ増しているのだから、まして、世界においておや、だ。

日本国内で、日本政府の日本国民への機能発揮に仮に70点をつけるならば、明示的に存在しない世界政府(国連や一部のボランティア、一部の“国際努力”など)の現状に点をつけるなら、四捨五入で0点か。いや、マイナス点の部分も…。

今若い人は、今後の自分の活躍分野として、何らかの“世界機能”を目指すべきだ。そここそが、文字通り“最後のフロンティア”だから。

(宇宙はフロンティアではない。宇宙のフロンティア視は、失礼野蛮なる他者不在である。)

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