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2017年7月30日 (日)

「自己も他者である」のひとつの視点・言い方

地球上の生命〜生物というやつは、ものすご、複雑不可解である。そもそも、動物/植物の二分制というやつも、その設計動機や必然的意味がよーわからんし、そればかりか、種(種類)もめちゃめちゃ多い。

ほんで一挙に「自己」というところまで話がストーンと落ちてくると、これがまた一匹の生物として複雑不可解のかたまりである。摂食、排泄、呼吸などの生命機能の仕組み。それに関わる臓器や器官もまた、気持ち悪いという形容詞すらふさわしいぐらいに、怪奇である。まあ、触ったりいじったりできるのは、医師のような専門的知識技能のある者が、かろうじてできるぐらいのもんや。こんなぐにゅぐにゅびしょびしょしたもん、さわりとうないわ。

そして複雑怪奇の極みでありながら、植物も含めて生物は意外と弱い。簡単に病気、怪我、障害、死の状態になってしまう。まことに、もろい。

言いたいのは、この複雑怪奇は、わしが設計したもんでも、わしが望んだもんでもない、っちゅうことや。誰に頼んだわけでもないのに、事前事後に説明もなく、ただ、こういう、ややこしい、弱いもんとして今日あたりもまあまあ、生かされておる、ちゅうだけのことや。なんや、これ? この自己っていうやつは?

わからんまま生きて、わからんまま死ぬ。一個の、よーわからん不可解な他者として。その前も、その後(あと)も、わからんままや。

勝手に生を受け、勝手に死を受ける。知らんがな、そんなもん、わては。

というわけで、自己というこのわけわからんけったいなもんも、100%、不可解な他者であるにすぎない。

まあ、できるだけ頑張って生きておる、という仮の自己納得があるだけである。

どの自己もどの自己も、まずその自己自身にすら、不可解な存在にすぎない。生誕も死も、自分のコントロール下にはない。

自己は、なによりもまず、けったいな他者である。

この生の種(たね)を蒔いた者も、最後に刈り取る者も、私ではない。私自身は、何も知らず、何も分らず、ただ生まれ、生かされ、終わらされるだけである。

その存在(とその終わり)の一部始終、わしに自身にまったく責任がないぶん、楽でもあるが。

…、勝手にしてくれ。知らんわ。

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2017年7月24日 (月)

愚が愚を選ぶ

20世紀にはナチスの差別殺戮、日本軍部の短く書けない多様なむちゃくちゃ、スターリンの意味不明な自国民大量殺人、と凶器のような大規模愚がのさばったけど、その後あまり大きな変化はないまま年月だけが経っている。

本質的に変わっていないのは、「愚が愚を選ぶ」という鋼鉄のように強固な構造である。

米共和党の中では比較的良識派のマケイン氏(2008年大統領選候補)が、選挙中にトランプおっさんについて「言うことに矛盾が多くてよ−わからん人物」、と評していた。

メキシコ等からの越境入国者が多いのは、ひとつにはアメリカと他の国との産業発達の大差だ。だから産業振興を支援すべきなのに、トヨタ(等)にメキシコに工場を作るな、と言う。そして一方で、越境入国を厳しく禁じようとする。これは、幼児にでもわかる、分かりやすい大矛盾だ。

一方アメリカには、大規模農業をはじめとして、大量の低賃金労働者を必要とする産業がある。低賃金とはいっても、彼らの故国ではアメリカよりも1ドルの価値が大きいから、単純に搾取とは言えない。農業経営者の中には、トランプに対して怒り狂っている人も少なくない。自分たちの伝統的農業が、成り立たない、と。

そこでついにアメリカでも出ました。大量人身売買。密閉された大型コンテナ・トラックに長時間つめ込まれ、炎暑の中を走る(飲み物のサービスなどはない)から、当然、大量の死者が出る。

愚が愚を国のトップに選ぶという構造は、もちろん、現代日本においても健在である。自民党はもちろん、もしかしたら第一野党すら、この構造に依存している。しかも大量虐殺は、全然それとは見えない形で、すでに始まっており、随時、進行している。

しかもこの難問は、解決策が見つかっていない。


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2017年7月22日 (土)

他者(自然)を勉強しろ!

シンボリックなひどさ、と書いたのは、二世代の母が死んで、子が死んで、胎児まで死ねば、文字通り人類滅亡だからだ。それを、オトコはやって平然とした顔をしている。原爆投下無責任、とまったく同じ構図。

シリアも、一刻も早く女性大統領になれば、解決へ向かうだろう。ラッカ解放軍の司令官が若い女性なのが、とても印象に残る。大統領の話題とは関係ないけど、死なないでほしい。

今回は、二つの本から引用してお茶を濁しておこう:

●スイス林業と日本の森林 (近自然森づくり)/浜田久美子/築地書館

【内容紹介】氷河に削られた痩せた国土、急峻な山国のスイスで、豊かな林業が成立しているのはなぜか。 徹底して「自然」を学び、地域社会にとっての森林価値を最大限に上げる「近自然森づくり」を進めるべく、一斉人工林から針広混交林へと移行したスイス林業。 その担い手を毎年日本の森に招き、その取り組みを地域の森林で活かそうと奮闘を続ける日本の林業者たち。 両者を長年取材してきた著者が、日本の森林と林業の目指す姿を探る。【出版社からのコメント】100年、200年先の木材市況など、誰も予測できない。自分たちがコントロールできない100年先の木材価格を当てにして、材木を生産するなど、ナンセンスではないか。日本に比べ、圧倒的に手厚い林業従事者への給与や社会保障を実現しつつ、小規模林業が成り立つスイスは、どのような仕組みを持って、そうした困難な条件を乗り越えているのだろうか。 スイス林業の現場で活躍するフォレスターに同行し、日本の様々な森づくりの現場をていねいに取材しながら、これからの日本列島の森づくりの指針ーーー生産林としてもレクリエーション林としても美しい森が、100年スパンで見て、最も生産性が高い森であるーーーを鮮やかに描く。 森づくりを深く取材しながら、市民としての視点を失わない著者だから書けた本書は、著者の家の内装を施工した有賀恵一さんの共著書『樹と暮らす』と併読していただくと、読書の楽しみが倍加します。

●森林業 (ドイツの森と日本林業)/村尾行一/築地書館

【内容紹介】半世紀以上にわたり、森林生態学、森林運営、国有林経営を研究し、ドイツでも教鞭をとった著者による日本林業回生論。ロマン主義思想とともに発展し、今や一大産業へと成長し、世界をリードするドイツ森林運営の思想と、木材生産の実践、ドイツ最高の頭脳が集まる人材育成・林学教育を解説。それを踏まえて、21世紀の日本社会にふさわしい、生産・流通の徹底的な情報化、乾燥管理、天然更新から焼畑林業までを提言する。【出版社からのコメント】森林ジャーナリスト田中淳夫氏の書評:http://ikoma.cocolog-nifty.com/moritoinaka/2017/05/post-fc19.html ドイツトウヒなどの針葉樹の途上国型一斉造林による、「森林栽培業」を大きく転換して、森のめぐみをていねいに引き出す、「総合森林業」へ大変身を遂げたドイツ林業とドイツ林学。現代ヨーロッパの、ベスト&ブライテストが集う人材育成の仕組みづくりこそ、その変身の鍵であったことを、ミュンヘン大学で教鞭をとったこともある著者が、生き生きと描きます。19世紀、ドイツロマン主義運動が花開いた、ドイツの森と人間社会の歴史をひもとき、かつては、「卑しい職業」とドイツで蔑まれていた林業従事者が、最も人気と尊敬を集める職業に変わっていった様を描く本書は、将来の興隆する日本林業の姿を鮮やかに浮かび上がらせます。スギ、ヒノキだけでなく、広葉樹を含めた美しい日本列島の森に関心を持つ市民と、森林育成、運営に関心を持つ実務家にとって示唆に富む内容になっています。

いずれも、一斉人工林から自然林に近い混交林へ、というところがミソだ。


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2017年7月16日 (日)

今本当に必要なことに気づく視野はオトコには無理

あんなところに原発、も、あんなところを檜の放置林だらけ、などなども、すべて、どこにも美のないことを特徴とするオトコという生き物の無学視野狭窄の産物である。自己利益をベースとする、超ローカルな浅い判断しかできない。落とされずにすんだはずの原爆を、ずるずるしてて二発も落とされたのは、責任は日本のオトコ指導者たちにある。目先の自己利益で、視野が狭く浅い。まわりに死屍累々多大なる犠牲者を作り出し、そして平気だ。

今度は彼らは、高校無償化という黴の生えた古い図面を今ごろ持ちだして、もっともらしく何か言っている。

古い図面ではなく、今と未来に必要なことを考えよう。

それは、義務教育無償を前提として、義務教育の期間を今の倍にすることである。

アメリカのテクノロジー業界のエリートなどが言っている、高等教育無償化では、実は足りない(移民法の緩和に期待するしかない)。テクノロジー業界自身にとって足りないのだから、全社会的にはまるっきり全然足りない。

重要なのは、これまで高等々々と言ってきたものが、今および未来、高等でも何でもなくて「ふつう」&「必須」になることだ。昨日まで高等教育と言ってきたものはすべて、今日および明日以降、万人のふつうの教育になる※。

今および今後の社会や企業などが必要とする労働は、70年前に決まった9年制義務教育では担保できないし、高校の3年間も不十分である。

ふつうのものは、すべからく、義務教育でカバーすべきである。

原爆のときと同じく、これをやんないでえんえんと、ぐずぐずしている国は、たちまち、世界の最下等国になる。間違いない。

少数の一部の技術エリートだけが偉くたって、そんなのは何にも貢献しない。みんなの、全員の、『学』のレベルが上がることが、ものすごく重要である。

しかし、オトコは本当に重要なことに気づかない下等動物だから、何を言ってもだめかもしれない。でもそのとき、救命ボートはどこにもないだろう。

自民党の女性議員たちとは違って、あらゆる意味できれいな、女性がリーダーシップを執るべきだな★。その中に、脱オトコを実践した生物学的雄がいるのは、かまわない。

★フクシマを視察して、「あ、こりゃ、原発ってダメだな」と一発で気づいたドイツの女性首相(物理学博士)は、‘きれいな女性’のひとりと言える。


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2017年7月 9日 (日)

ルーズな土地管理・土地利用の犠牲者

★画像の上でマウスを右クリック、そして「画像だけを表示」をクリックしてみて。

なんとそこには原発もあった!という超ルーズは、先祖代々のものではなく、むしろ先祖たちは、「ここから下には家を建てるな」と厳命していた。ご先祖が死をもって毒キノコだと実証したキノコを、どんなにうまそうだからといって、食べるべきではない。

今回のは豪雨による鉄砲水の被害で、あまりにもできすぎ、シンボリックなひどさをわれわれに伝えた、母60台、娘20代、孫1歳、おなかの中の二人目の孫、全員一挙死だ。

全国の里山を貧弱な檜の放置林にし、今日まで長年放置していれば、その長い年月に豪雨鉄砲水ぐらい必ず起きる。本来の里山は植生が多様豊富で、適度に手入れされた天然林に近く、保水力と表土剥離流出防止機能がある。昔から、これまたご先祖の偉大なる言葉として、「真の治水は山の手入れだ」「治山と治水はワンセット」と言われる。

私も当時(終戦直後)の無知な田舎モンだったら、無知な政策に従って、せっせと里山を削って檜の苗を植えまくったと思われるが、今、林業のしろうとが考えても、それで銭(ゼニ)になる優良材が得られるとは思われない。林業も、プロの仕事として精魂込めてやんなきゃダメに決まってる。

檜の放置林だらけの光景は、日本中至るところにあるから、うちの近くにもうんざりするほどある。何年も何十年も変わらない。

今回の、福岡県朝倉市黒川(くろがわ)地区も、そうだ。

お粗末な檜の放置林(1)

この道路が通れなくなるのは時間の問題。


お粗末な檜の放置林(2)

無意味なままごとのような土嚢。


山中(やまじゅう)檜の放置林

家の背後に竹やぶすらない。


家々の背後も檜の放置林

ここは罹災地の黒川(くろがわ)地区。
鉄砲水の標的になるような場所に家々がある。

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