「自己も他者である」のひとつの視点・言い方
地球上の生命〜生物というやつは、ものすご、複雑不可解である。そもそも、動物/植物の二分制というやつも、その設計動機や必然的意味がよーわからんし、そればかりか、種(種類)もめちゃめちゃ多い。
ほんで一挙に「自己」というところまで話がストーンと落ちてくると、これがまた一匹の生物として複雑不可解のかたまりである。摂食、排泄、呼吸などの生命機能の仕組み。それに関わる臓器や器官もまた、気持ち悪いという形容詞すらふさわしいぐらいに、怪奇である。まあ、触ったりいじったりできるのは、医師のような専門的知識技能のある者が、かろうじてできるぐらいのもんや。こんなぐにゅぐにゅびしょびしょしたもん、さわりとうないわ。
そして複雑怪奇の極みでありながら、植物も含めて生物は意外と弱い。簡単に病気、怪我、障害、死の状態になってしまう。まことに、もろい。
言いたいのは、この複雑怪奇は、わしが設計したもんでも、わしが望んだもんでもない、っちゅうことや。誰に頼んだわけでもないのに、事前事後に説明もなく、ただ、こういう、ややこしい、弱いもんとして今日あたりもまあまあ、生かされておる、ちゅうだけのことや。なんや、これ? この自己っていうやつは?
わからんまま生きて、わからんまま死ぬ。一個の、よーわからん不可解な他者として。その前も、その後(あと)も、わからんままや。
勝手に生を受け、勝手に死を受ける。知らんがな、そんなもん、わては。
というわけで、自己というこのわけわからんけったいなもんも、100%、不可解な他者であるにすぎない。
まあ、できるだけ頑張って生きておる、という仮の自己納得があるだけである。
どの自己もどの自己も、まずその自己自身にすら、不可解な存在にすぎない。生誕も死も、自分のコントロール下にはない。
自己は、なによりもまず、けったいな他者である。
この生の種(たね)を蒔いた者も、最後に刈り取る者も、私ではない。私自身は、何も知らず、何も分らず、ただ生まれ、生かされ、終わらされるだけである。
その存在(とその終わり)の一部始終、わしに自身にまったく責任がないぶん、楽でもあるが。
…、勝手にしてくれ。知らんわ。
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