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2017年6月22日 (木)

A Song For Europe (仮訳by Iwatani)

Here as I sit
At this empty café
Thinking of you
誰もいないカフェに座ってあなたのことを思い出している

I remember
All those moments
Lost in wonder
That we'll never
Find again
魔法のように消えてしまったあの日々はもうどこにもない

Though the world
Is my oyster
It's only a shell
Full of memories
世界がぼくの牡蠣であっても殻の中にあるのはたくさんの記憶のみ

And here by the Seine
Notre-Dame casts
A long lonely shadow
ここセーヌの河畔ではノートルダムが長い孤独な影を落とす

Now, only sorrow
No tomorrow
There's no today for us
Nothing is there
For us to share
But yesterday
今は悲しみがあるのみで明日はない
私たちの今日もなく
共有するのは昨日(きのう)のみ


These cities may change
But there always remains
My obsession
都市(まち)がどれだけ変わっても
私の妄執はしぶとく生き残る

Through silken waters
My gondola glides
And the bridge, it sighs
絹地のような水面を私が乗ったゴンドラがすべる
橋がありそいつがため息をつく

I remember
All those moments
Lost in wonder
That we'll never
Find again
魔法のように消えてしまったあの日々はもうどこにもない

There's no more time for us
Nothing is there
For us to share
But yesterdays
私たちにもはや時はなく
昨日(きのう)のほかに共有するものもない

Ecce momenta
Illa mirabilia
Quae captabit
In aeternum
Memor
すばらしかった日々は記憶の中にしかない

Modo dolores
Sunt in dies
Non est reliquum
Vero tantum
Comminicamus
Perdita
心にあるは痛みのみ音信は途絶えてしまった

Tous ces moments
Perdus dans l`enchantement
Qui ne reviendront
Jamais
Pas d´aujourd´hui pour nous
Pour nous il n´y a rien
A partager
Sauf le passé
あのすばらしい時と日々は
魔法のように消えてしまった
もう決して戻らないだろう
私たちが分かち合う今日はもはやなく
共有できるものは過去だけだ

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ヨーロッパの栄華は、他者の犠牲の上に建つまぼろしだった。今はその背後にあった問題が、激しく露呈している。どう収拾するつもりか?。私たちはそれを手伝えるか?。アメリカも、そろそろやばいようだけど。なにしろ、たいへんな時代が始まっている。

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アラブ世界とヨーロッパの腐れ縁

この記事は良い記事なので、ひまな人には一読をおすすめしたい。われわれが漠然と知っているヨーロッパの恣意的な搾取史が、シリアを軸として詳細にクロニクルされている。ただし未来に向けての有効な解決策の示唆は、ない。

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2017年6月20日 (火)

世襲と政治家

某国の首相が本質的に馬鹿であることは、これまで何度も指摘しているが、今回は、自らの言語不鮮明不誠実を省みることもなく、一方的に「印象操作」という意味不明な言葉を、蛮刀のように振り回したことの愚かさをまったく自覚せず、再度、派手に振り回している。すなわち、支持率が落ちた原因を即座に再生産する、という不治の馬鹿。

企業トップの世襲に馬鹿があまり目立たず、むしろときには親への批判から良策を採ることもありえるのは、企業は、顧客〜市場という、企業の生死を握る他者の存在を無視できないからだ。

一方国政の場合は、某N国や某S国のように、一般選挙がないから選挙民&多くの政敵という他者がいない。馬鹿総理の某国の場合は、選挙はあるが地方小選挙区制という欠陥制度のため、それが衆愚主義ファシズムが育つ土壌になっている。そのローカルな衆愚は、何があろうとも無感覚であり、ひたすら「××さんのご子息ご孫子」に投票し続ける。※1: アメリカの大統領選挙にも類似のバグがあり、それが今の衆愚ファシズムの招来の原因になっている。※2: “超長期独裁政党一家の実質的世襲”が、某C国の場合だ。

それプラス、一般的に、オトコという生物の脳は概して、論理性が未成熟である(何でもforceに頼るという遺伝子があるため)。悪い意味のローカル性(まわりに他者がいない田舎であること)が、それをより深刻化している。

またまた大悲惨を招く前に、この、馬鹿再生産システムを廃棄できるだろうか。

日本ローカルと、人びとの意識が、今後大きく変わることを期待したい。

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2017年6月10日 (土)

「他者」は絶対不可侵不可触の“それ自身”のことである

哲学、とくに存在に関する一般理論は、その基本前提がガクモン的哲学でも庶民的日常的哲学でも同じだと思うが、単一(single)の存在(宇宙…、世界…)であると思われる。

しかし他者とは、たとえばこの稿ではYouとされているが、Youは、

You came from far far away.
So farther than beyond any measurable distance.

なのである。すなわち他者は、いかなる計測可能な距離よりも遠くにいる。距離が計測不可能ということは、他者と自者は同じ存在(同じ宇宙…、同じ世界…)に属していない、ということになる。同一空間内にあれば、何億キロメートルだろうが、計測可能だ。だが、同一空間内にはいない。

ここで、単一存在という前提は、急に陳腐化する。

他者不在における他者は、他者がその、いるべき場所にいない。不在、である。他者が、それ自身の宇宙にいない。

ではどこにいるのか。それぞれの自者の、眼前に開ける単一宇宙内の、one of成分、要素としてのみ存在する。自者にとってのオブジェクト、目的物として。真の他者は、どっかへ消えて、いない。だから、「不在」という。

計測不可能な別世界から来た、今でもまさにその別世界にいる、不在ではなく真在の他者が、オブジェクト(目的物)としてでなく、別空間、別宇宙に、それ自身としていることが認識されるのは、唯一、「愛」においてのみである。

いわゆるラブソングが、愛の歌であることはない。ありえない。

いわゆるラブソングは、目的物獲得の歌である。

しかしもはや、存在は単一でなく、無限無数に多い複数である。

ひとつひとつの、個、の尊厳とは、そういうことである。

個(==他者)が個として見える、迫ってくるのは、これまた、唯一、「愛」においてのみである。

もちろんそれは、コミュニケーションと平和の基盤でもある。
目的物とされてしまった他者からの、さまざまな復讐もない。


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2017年6月 5日 (月)

貨幣はサブイシューである

このブログが扱うメインイシュー(main issue)はコミュニケーションであり、ほかにメインイシューはない。この環境で貨幣は、したがってメインイシューであるコミュニケーションに属する部品的イシュー、すなわちサブイシュー(subordinate issue, sub issue)のひとつであるにすぎない。

そして、そのように、コミュニケーションという視座の中における貨幣は、コミュニケーションの、特殊な、一様態ないし一様相である。では、貨幣とはコミュニケーションのどんな様相か? 今さら言うまでもなく貨幣は、最初から他者を疎外している、非常に粗悪で有害なコミュニケーション様式である。それが一種の、コミュニケーションの病気であることを指すために、様態や様相よりも容態(ようだい)(ないし容体)という言葉を使う方がふさわしいかもしれない。

こうやって、貨幣を単独の独立のメインイシューとして扱わずに、コミュニケーションという座標系の上に移して見ることは、人類の社会思想の、久々の「一歩前進」なのである。貨幣をメインイシューとして扱っているかぎりは、どうにもこうにも埒があかず、もっとましな社会へと前進することができない。

貨幣の本質がコミュニケーションの問題だ、と分かれば、ふんじゃあコミュニケーションを良くしていけば人類は貨幣という悲惨==差異および差異の階層から脱することができるかもしれない、と思えてくる。そして、貨幣経済という言葉は従来、物々交換(実はここにすでに貨幣の母胎がある!)などのより原始的な経済形態に対して、より効率的一般的な交換価値物形式について言われたが、今後は、贈与経済、共有経済(ないし共生経済)など、貨幣症状のない、あるいは軽い、新しい経済形式に対し、古くて劣位な経済形式を相対化して指すための語彙になる。

説明的に似ているかもしれないが、「鬱(うつ)」を単独の“状態”として扱っていると、迷信のような詐欺的対策がのさばり、ついに本人の自殺を防げないが、今のように“病気”という座標軸上に移してしまえば、その病気(体調異変)に対する有効な治療法がありえる。

貨幣は、まともに扱うことの困難な巨大で厄介な怪物ではない。それは、重病のコミュニケーションの容態にすぎない。治療法はすでに、ささやかながら芽生えている。

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「貨幣をめぐるコミュニケーション」があるのではない。貨幣そのものが(貨幣現象の総体が)コミュニケーションなのだ。有害で病的な。

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