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2017年5月15日 (月)

他者不在の起源(のひとつ):太陽神信仰

太陽神信仰は、さまざまな古代文明や古い民族に、わりと普遍的にあるように思われる。自分たちの生命と、それを支える自然要素(獲物や作物など)が太陽のおかげで存在していると見て、感謝し、またそのご機嫌を損ねないように信仰をささげる。多くの場合、生け贄(生きた人間)の供犠が伴ったのではないか。

しかし、ごくふつうに見れば、太陽の表面に見られるフレアや黒点などが太陽現象の一部、すなわち太陽の一部であるのと同じく、地球上の生物も、太陽の一部である。この骨、この肉、その生きることと死ぬること、これは太陽現象の一部であり、したがって太陽の一部である。太陽と、別物ではない。

太陽神信仰には、まず、Awholeの一部であるにすぎないApartsが、Awholeを自己とは別物として措定する錯誤1がある。他者である自己への他者不在。

そしてその、実は存在しない別物、自己もその一部であるに過ぎないAwholeを、信仰や生け贄供犠等によりコントロールしようとする錯誤2がある。自動車のバンパーが自動車全体をコントロールしようとするようなものだ。一般存在と化す他者不在。

この、オトコの粗悪な脳の産物である錯誤は、その後、共同体の政治機構の基盤として、すなわち共同体のアイデンティティそのものである宗教として固定化絶対化される。絶対者超越者のコントロール、という失礼無礼、すなわち他者不在の大黒柱としての宗教が生成する。<イエスという革命児が本当は何を言ったのか…神人一体説…、その理解も未だに普及していない。※>

※: そもそも彼は、キリスト教という新しい宗教宗派ができることなど、まったく期待も希望もしていない。キリスト教は、バカどもの誤解の塊に過ぎない。

今日までの人類史は、論理的錯誤の地獄史である。近視眼的欲が、錯誤を固定継続している。今年が不作で飢饉だったら、それは生け贄の選び方が悪かったからだ、などと(#)。

#: その生け贄の命を代価として、太陽神のご機嫌を買う“貨幣的”取引が行われる。すなわち他者不在に最後の画竜点睛が入れられ、完成する。

今の日本では、一部の馬鹿オトコたちによって、天皇が生け贄化されかかっているのではないか。責任感から、自分は引退したいと言っている老人、という人間のことはとんと無視して。忘れてしまって。あーでもないこーでもない、と“宗教的”に。国旗の意匠を見るだに、太陽神信仰は日本の国家主義(最後の、最悪最凶の共同体)の無意識の基盤かもしれない。

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コメント

何かの彗星か大隕石が何十年後・何百年後に地球に衝突すると証明できたとして、

人間は今とは別の組み合わさり方・つながり方を、
もっと真剣に考えようとするだろうか?

地球環境が激変しても、地球がぶっ壊れても、
人間は、あいも変わらず、今まで通りか?


立法・司法・行政の3権分立に加えて、
4権分立は、ありえるのか?

もう一つの権として、
安部公房は「教育府」を提案、
岡本太郎は「芸術・人間府」を提案した。

今の国家・政治・経済・社会・宗教・教育などは、
もうできあがってしまっているもので仕方ないとして、

今のあり方・やり方と並行して、

人や他の物事の、そのときそのつど・それぞれそれなりの、
つながり・組み合わさりの工夫で、
生きていける範囲が広がればと思う。

教育の自由化なども一つのやり方かもしれないが、

そういう今までと同じ「何とか権」を上から作るというより、

人間のDNAの中に潜む、協力できる力、
協力したい力を、

小さな親切やボランティアや無償の愛
ばかりに頼るのでなく、

今の政治・経済と並列して、
無償の愛を有償にすることができるか?

一つ一つの小さな努力や行為の中で、
無償の愛で生きていくことができる仕組みが、できていけるようにしたい。

投稿: kanaka | 2017年5月15日 (月) 17時15分

性や男女や家族とも、
並列できるか?

投稿: kanaka | 2017年5月15日 (月) 17時19分

狩猟生活から農耕生活へ移行することで人類は退化した、という説を聞いたことがある。

農業とは自然の操作。
来年も今年と同じ気候でなければ困る、という虫の良い期待のうえに成り立っている。

謙虚さの喪失。

投稿: 南 | 2017年5月16日 (火) 07時13分

ユダヤ・キリスト・イスラム教といった唯一神を信奉する宗教てのは、とんでもねえものだと思う。あほか、ばかか、くさっとる。自分は絶対に神にはなれない卑しい存在であり、ただ願うのは神からの教えと救いのみである。
なんでそこまで自分を卑下しなならん。あほか、どこまで教会や支配者に都合よくできているのか分からん。完璧にやつらの思う壺である。あほか、ほんとに支配するためにツゴーよくできている。未開の地に宣教師を送り込んで支配していく過程といい、ろくなもんじゃねえ、インテリやくざである。

まっはっはっは。仏教はちがう。仏教では仏とは何千だか知らないが多数いる。そして仏教は生きてる人間が仏(ブッダ)に成るための教えである。けして死んでからどうこうという教えではない。まさに生きているあいだの関係性を問うている教えだと思う。仏に成る=一体である。つまりこれは、キリスト教に於いて比較すると、ドラえもんとパーマンまでの違いと言えるのである。いきなり陳腐になってしまったなー。しっぱいしっぱい。   しかしパーマンはカッコよかった。

投稿: n,s | 2017年5月20日 (土) 06時41分

考えたくもないが、ある意味現在も生贄の儀式は続いてるんじゃないだろうか、、、

投稿: bad | 2017年5月20日 (土) 14時35分

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