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2017年5月23日 (火)

ステージ/オーディエンス構造の終焉

コミュニケーションについて考えるこのブログの前身が、2002年から2007年まで書いたこのエッセイ集だ。その中で本日(2017/05/23)どうしても言及しなければならないと思ったこの小論は、副題が「劇場の消滅」なんだ。

でも今は、「ステージ/オーディエンス構造の終焉」にすべきだった、と後知恵で後悔している。

だいたい、コンサートなんて、完全に前世紀の遺物だろーが!!

その構造のダントツの頂点が、奇怪で悲惨な終わり方をしたように。
(一度落としただけで粉々に砕けたガラスの玉ねぎじゃ!)

西欧的近代の他者不在のhubrisが、今奇怪で悲惨な終わり方をしつつあるように。

後期!"#$%のファンが全員バカであることが示すように。

「スター/ファン構造」は今や、カビの生えた、死臭漂う遺跡だろうが!

これ以上言うのは、憚(はばか)られる。それに今では、バカでない、21世紀にふさわしい、静かにがむばっている、えらーい無名人も少なくはない。

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コメント

なんかどんだけ制度を変えようと人間の本質は変わらない気がする。無貨幣制度・厚福祉制度とかどんだけ理想に近づけても、人間は感情の動物である。必ず(人間の条件として)喜怒哀楽がつきまとう。貨幣を撤廃しても、怒り妬み嫉みは出てくるだろう。外側の制度をどんだけいじくっても、人間が理想的になるわけでもあるまい。逆に無貨幣になった時に現れる怒りとはなんなのか。さあ~なんなんでしょう。
まあ人間、その時その時の感情の自縛から解放されることはできないだろうし、しょうがないとも思える。ただ事態の悪化を避けるには、にちにちの生活思想を整えておくことじゃなかろうか。その大元が自分には「因果応報の理」だと思う。なんでも(善悪)したらしただけのことが自分に返ってくるということ。それが悪を起こさない抑止力なんだよ、というのが生きる常識・風潮に強く組み込まれるのが理想じゃないかと思う。  (あー恥ずかしい)(善を進行するのも因果である)

投稿: n,s | 2017年5月25日 (木) 05時20分

最初から論理性が破綻しているオトコの脳。(1)トートロジー、(2)本末転倒、(3)矛盾、全部揃っているのも珍しい。(日本のイナカのオッサンはみなそうか…。)

投稿: iwatani | 2017年5月25日 (木) 14時39分

高いお金を払って(お金を払うのがいやなわけじゃないけど)コンサートに行き、じっと「アーティスト」の演奏を「鑑賞」するっていう図式がどうにもこうにも気持ち悪くなってコンサート(ライヴ)に行かなくなって20年。けどちっとも不満じゃない。
ほら、今でもボウイさんが画面の中で生き生きと歌ってるよ。ネットがあってよかったなぁ!

投稿: 野兎毬子 | 2017年5月25日 (木) 21時59分

「映画館は暗闇のガス室」

「誰かを賞賛してそれで良しとするのは
 代理錯覚」

どちらも私の脳に刺さっているイワタニ語録。

投稿: 南 | 2017年5月26日 (金) 07時22分

爺さん
おもろいのー

投稿: n,s | 2017年5月26日 (金) 20時17分

(我々の間では)そんな言わずもながなテーマについてのコメントは避けといて。
変更
無貨幣になった時に現れる怒りとはなんなのか。

無貨幣になっても現れてしまう怒りとはなんなのか。
(まさか怒りという感情が無くなる訳じゃないでしょう。
 つまりどんな状態でも怒りは存在する。)
       ↓
いやいやいや、おかしいぞ。本末転倒とはこのことか。我々が仏さんのように穏やかな心になった時に初めて貨幣はなくなるということか。ふ~む。そこまでなれる?
(めんどくさいのでブッチャケました)

自分には人が有意義に暮らす・暮らせるための最大の鬼門の一つが貨幣の存在だと思う。どうしてその有無・善悪についてのコメントが少ないのか疑問である。皆さんも無くすのは無理と思うてるんちゃいますか。ここは冷静にフラッと、忌憚のない意見を聞かせ願いたい。    結論なんかは出ないでしょうけど、軽い感じで。

投稿: n,s | 2017年5月28日 (日) 03時28分

貨幣に頼っちゃならんという事。
貨幣は大きくなるほど非道を生み出す
悪魔の手先なので、そんなものをメディウム
なんかに使っちゃ人間の負けである。
そのことを全人類に周知徹底させて猛省を図る。
貨幣にしがみついてちゃ人間の負けである。
我々は最大義の“愛”によってつながって
行ったほうが面白いのである、なんてね。

投稿: n,s | 2017年5月28日 (日) 04時16分

貨幣はいのちと引換えである。貨幣には何の根拠もないが、その無根拠が根拠になっている。くそったれ。

投稿: bad | 2017年5月29日 (月) 13時12分

ブッチャケた話し無貨幣は無理である。日本は鎖国している訳ではないので。さてそれを踏まえた地点で改善策を考えなきゃいけない。まあ貨幣の話だけじゃなく、死生観や家庭観や仕事観など一緒に交えて考えねば、いいものはできないだろうね。特に自己観は大事でしょうね。   軽く軽く。大体最初のコメントどうり外枠の制度なんてあまり大事じゃないと思うので。諸々の思想、思想だよ。  ムキにならないように。  硬直したところからは・・・

投稿: n,s | 2017年5月29日 (月) 23時26分

最初に冗談を一つ。「Imagine No Math」というタイトルの動画がこちらに公開されています(投稿者の名前は"Quirk Side of the Moon"ですw)。タイトルからも判るように、これはあの超有名曲のパロディ(替え歌)です。

この作品は「学校で習う教科としての数学が苦行であった人の妄想をネタにしたジョーク・ソング」としてサラリと流すのが適切かと思われますが、敢えてこの替え歌の歌詞にマジレスすると、この歌詞では「数」と「数字」が混同されている気がします。もしもこの世からあらゆる「数字(number symbols)」が消えて無くなったとしても、「数自体(number itself)」は無くなりませんし、したがって数を研究対象ないし研究基盤とする「数学(math/mathematics)」も無くなりません。なぜなら、数自体とは、個々の人間の主観的で具体的な感覚からは独立して存在する、システマティックな構造を持つ客観的で抽象的な対象物である(と広く信じられている)からです。実際、具体的な数値計算は別にして、抽象度の高い数学になるほど数字そのものはほとんど全く使われなくなります。

「貨幣」と「紙幣や硬貨」の関係についてもこれと同じことが言えそうです。「貨幣の廃止」とは、紙幣や硬貨をこの世から無くすことではありません。近い将来、電子マネーやら仮想通貨やらブロックチェーン技術やらの普及により、あらゆる紙幣や硬貨がこの世から消えて無くなったとしても、貨幣そのものは無くなりません。貨幣自体はシステマティックな構造を持つ抽象的な対象物である(と広く信じられている)ため、それはいかなる形態へも化身して存在し続けることができます。それはわざわざ紙幣や硬貨のような物理的にコストのかかる存在形態を取る必要はないのであり、今後は物理的なコストを最小化できる形態を取るようにさらに進化(というより変態metamorphosis)を続けることでしょう(現に、インドでは高額紙幣を実際に廃止し、スマホもクレカも不要の指紋認証によるキャッシュレス決済への移行を国を挙げて進めているらしい)。

「貨幣の廃止」とは、簡単に言えば「貨幣の存在を前提とする社会構造を根本的に変革すること」です。貨幣の存在を(明示的または暗黙的に)前提としている社会に暮らす構成員同士の関係を極端に単純化して、ネットワークトポロジー風に表すと、スター型が最も近いと思われます。要するに、ネットワークの中心に貨幣が存在しており、この中央ノードを介することでしか構成員(周辺ノード)同士は通信できないという構造です。また、このようなトポロジー構造において、各周辺ノードと中央ノードの間の距離には大きな差があり、中心に近い方がより良好なサービスを受けられるとすると、各構成員はできるだけ中央ノードに近づこうとして競争するでしょう。ここで、この中央ノードである貨幣を例えば火、太陽、神、王、天皇、ロックスター、男根、大規模な中央メールサーバー/Webサーバーなどと置き換えてみると、原始的な祭政一致のムラ社会から今日のインターネット社会("connected society"などとも呼ばれる)に至るまで、ネットワークトポロジー的な構造は全く何も変わっていないことに気付き愕然とします。

スター型のネットワークトポロジーの最大のメリットは実装が容易であること、最大のデメリットは中央ノードがダウンした場合には周辺ノード間の通信が完全に不可能になることだと言われています。しかし私はスター型構造の最大のデメリットとして、その「退屈さ」を挙げたいと思います。例えば、コンサートは言わずもがな、単一の銀幕上に投射される動画に多数の観客が視線を集中させることで成り立つ映画という娯楽提供システムは悲しくなるほど退屈ですし、大規模な鉄塔アンテナから同心円状に放射される電波に乗せて一斉同報(ブロードキャスト)されるコンテンツをテレビジョンセットと言う名の受信専用アプライアンスを通じて一方向的に視聴するという行為も今では退屈過ぎてゲロが出ちゃう。これらはいずれもスター型のネットワークトポロジーという構造に起因する退屈さであり、個々の映画やTV番組の出来不出来に起因する退屈さではありません。

で、「貨幣の廃止」を実現する方法の一つとして有望なのは、このようなスター型の社会構造を徐々に完全接続メッシュ(Fully connected mesh)型の構造へと変革していくことです。そのためには、来るべき社会の構成員である個人一人一人の完全に自発的な努力(例えば電波工学の勉強とか)が不可欠です。ちなみに、goTenna社が開発しているメッシュネットワーク構築デバイスgoTenna Meshを使えば、通信事業者やプロバイダーを一切介さずにメッシュネットワーク参加者同士のP2P通信が現時点で可能なのですが、残念ながら同デバイスを輸入して日本で使用するのは電波法違反になります(デバイスの利用帯域や出力には問題はないが、いわゆる技適マークが取得されていないためです)。というわけで渡らなければならぬ河は多く、進むべき道は依然として険しいのですが、倦むことなく地道に勉強を続けるしかないでしょうね。

投稿: kawabata | 2017年5月30日 (火) 01時00分

はははは、なんのことかぜんぜんわからん。

投稿: n,s | 2017年5月30日 (火) 01時47分

 わかろうとしないひとには、わからない。

 わかろうとしないひとの「わからない」という発言は、だから、無駄口だ。

 われわれにとってだけではない。なにより当人にとって無駄なのだが、それもわからないのだろう。

 止まない無駄口は、虚しく汚い風景として扱うしかない。見たくない風景だがね。

 @kawabata 氏の発言は、私にはよくわかった。風景ではなく、発言として。

 これも要らぬへらず口だったかな。

 

投稿: 市川智 | 2017年5月30日 (火) 14時09分

ここは素直にお二人に謝罪したい。kawabataさんに対しては、あまりの長文とあの時間の自分の頭がその内容を受け付けれる状態ではなかったため、咄嗟に全否定する態度になってしまったのである(次の日会社で読み返したら、ある程度は自分にも理解することはできた)。市川さんには、自分の軽率な発言がえらく腹を立てさせてしまったことに対して。お二人に対して自分がお詫びすべきは、咄嗟的に不用意な発言を出してしまったことであり深く反省しております。すみませんでした。

少しkawabataさんの記事に触れさせてもらうと、「完全接続メッシュ型」とはむかし岩谷さんの出した「ロックからの散弾銃」に書かれていた組織図そのものだなあ、ということ。当時まさかそれが無貨幣(「貨幣の廃止」)時の社会イメージ図になるとは思いませんでした。そのキャプションに「完全な平等相互関係。お互いがお互いを支え、支えられる。」とありました。つまりそんな関係平野には貨幣という支配者から付与されたメディアは要らない、意味がないという事かと。そしてそういう自他の関係があらゆる面で密接充実していけば、ますます貨幣とは邪魔になっていくと。やりとりが自動に機敏に、自発的な両者の話し合いによってのみ可能になっていくと。そういうイメージ。

自分が一番貨幣があってはならないという根拠は、それがある場合人間が「カネを得るために生きる、生きるために生きる」というものすごい低次元な存在に貶められてしまう反発からである。「有意義に生きる、助け合って生きる、仲良く生きる」というのが完璧にあと回しにされてしまうことに対する怒りである。カネの有る無しで生きるか死ぬかが決まるなんて糞くらえである。脅迫社会、競争社会。
というわけで、自分なんかはベイシックインカム制度は面白いと思う次第であります。駄文乱文失礼しました。

投稿: n,s | 2017年5月31日 (水) 07時05分

> …そしてそういう自他の関係があらゆる面で密接充実していけば、ますます貨幣とは邪魔になっていくと。やりとりが自動に機敏に、自発的な両者の話し合いによってのみ可能になっていくと。そういうイメージ。

ごめんね、n,sさん。エラソーに(言いたかないけど)言っちゃうけど、↑この文章読んだ時の私の率直な感想は、“安直に耳障りの良い借り物の言葉を羅列しているだけで、ちっとも心に響いてこない「まとめサイト」のような文章”でした。こんな「まとめ」は嫌だ。ていうか、こんな風に勝手に安易にまとめられてしまっては「困る」。

私、先に投稿したコメント、かなり努力して、あーでもないこーでもないと言葉を選んで時間も結構かけて書いたんすよ。あなたが「散弾銃」のころからの岩谷さんの読者であるのなら、一度よーく考えてみほしいんですが、岩谷さんの文章がなぜ皆(ていうか一部の人?)の心に響くかというと、考え抜かれ研ぎ澄まされた思想が、選び抜かれた言葉でもって簡潔かつ明晰に、それこそ身を削るようにして書きつけられていることが、その文章からビンビン伝わってくるからですよね?

n,sさんは、思いついたことをささっと書いてぱっと投稿するんじゃなくて(そのような投稿がやりたいんなら、自分自身のブログやtwitterアカウントを使うべきです)、もっと自分なりに必死に考えて言葉を選びに選んで書いた文章だけを投稿するようにしてください。これは「私塾XOR」(入塾試験は不要だが)の塾生全員(ROM塾生を含む)を代表しての切実なるお願いです。市川さんに対する謝罪は別にして、私の場合、謝罪は全く不要なので、本当に反省しているのなら行動で示して欲しいです。お願いします。

投稿: kawabata | 2017年5月31日 (水) 18時28分

たしかに。
難しい。

投稿: n,s | 2017年6月 1日 (木) 03時27分

小林麻央さんの死についての報道と受け取り方の有り様も、まさに「ステージ/オーディエンス構造」そのものだと感じる。立派な悲しい話し=スターの話し=雲の上の話し=無縁な話しで終止しちゃうんじゃなかろうか。

テレビ側には格好の素材であり、大スター=商品として売り込める(!)し視聴者(含む自分)も無責任に「うんうん」と頷きながら見ることができる。

では彼女の死を、自分らの生活の血や肉に変えて生かしていくにはどうしたらいいんだろう。自分には「真央さん」にまとわりつくスター性を徐々に剥ぎ取っていく視線が必要じゃないかと思える。やはり彼女を市井の中の一個人にまで引き下げて、自分らと同列の人間として見る姿勢が、絵空事ではない自分に関わる生き様として感受できる状況を生むのではないかと思う。   スターに祭り上げるのでは無く。(スターにされた人は寂しくて泣いてるよ)

投稿: n,s | 2017年6月28日 (水) 07時44分

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