« 2017年4月 | トップページ

2017年5月23日 (火)

ステージ/オーディエンス構造の終焉

コミュニケーションについて考えるこのブログの前身が、2002年から2007年まで書いたこのエッセイ集だ。その中で本日(2017/05/23)どうしても言及しなければならないと思ったこの小論は、副題が「劇場の消滅」なんだ。

でも今は、「ステージ/オーディエンス構造の終焉」にすべきだった、と後知恵で後悔している。

だいたい、コンサートなんて、完全に前世紀の遺物だろーが!!

その構造のダントツの頂点が、奇怪で悲惨な終わり方をしたように。
(一度落としただけで粉々に砕けたガラスの玉ねぎじゃ!)

西欧的近代の他者不在のhubrisが、今奇怪で悲惨な終わり方をしつつあるように。

後期!"#$%のファンが全員バカであることが示すように。

「スター/ファン構造」は今や、カビの生えた、死臭漂う遺跡だろうが!

これ以上言うのは、憚(はばか)られる。それに今では、バカでない、21世紀にふさわしい、静かにがむばっている、えらーい無名人も少なくはない。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2017年5月21日 (日)

機械翻訳と人間翻訳

12世紀か13世紀に建てられて、今は地域社会の公民館のように利用されている、ロンドン西部郊外の教会St Mary's Perivaleに関する英語Wikipediaの記述の一節に、こんな文がある:

The church is built of rag-stone and flint, and its tower is unusual, being clad in white weatherboarding.

これをGoogle翻訳は、こんな日本語に訳す:

教会はぼろ石とフリントで建てられていて、その塔は白い天気予報で覆われていて珍しいです。

ちなみにMicrosoft Bingの翻訳は、こう訳す:

教会はぼろ石とフリントの構築され、その塔は、白い雨戸に覆われて、珍しいです。

人間(私)が、あちこち調べて苦労しながら訳すと、こうなる:

この教会は砂岩と燧石(すいせき)で作られていて、塔は白い下見板で覆われていて珍しい。

今回私が初めて知った日本語(建築専門用語)は「下見板」だ。「下見張り」とも言うらしい。これは、横方向に張った板の下(下辺)が見えるから下見と言うらしいけど、私たちふつうの日本人が「羽目板(はめいた)」と呼んでるものと同じだ(下図)。

Images_2

だから上の「塔は白い下見板で覆われていて」は「塔は白い羽目板張りで」でもよいだろう。

翻訳は、人間がやっても永遠に難しい作業だから、コンピューター技術にとってはなおさらだ。でも機械翻訳は、日常的なありふれた短い文なら、だいたい役に立つね。今回は、建築の専門語が多すぎたのだ。


| | コメント (5) | トラックバック (0)

2017年5月16日 (火)

自業自得の大規模被害

いろいろ書いてると多すぎて面倒なので、読者は「一を聞いて百も千も知って」ほしいのですけど、Facebookというインターネットサービスはユーザー数が数億という巨怪サイトで(ゆえに巨額な広告収入)あるため、ニュースの頻度も多い。

だが、まず、
これぐらいのネットワーキング機能が、なぜ特定のアカノタニンの巨大サーバーに依存しなきゃできんのか?
という根本的問題もある。

この根本的な問題に迫るために、最近のFacebookニュースを取り上げてみよう。最近の同サイトの新機能を知らせるニュースとして:

Facebook上の「グループ」という機能…同好の士が集まって議論や情報交換をする場だ…に、“グループの管理者が参加希望者に質問をしてその答によって参加の可否を決める”、という機能が新たに付加された。

問題は、なんでそんな機能を、Facebook様が作って提供するまではできないのか?

という点だ。コンピューターやネットワークの機能は、人様の迷惑にならないかぎり、ユーザーが自分で自由に設定できるべきだ。

今のコンピューターやインターネットを自動車にたとえると、「自動車はつねにタクシーやハイヤーなどのサービスを利用して使わなければならない」状態と同じだ。自分で運転できない。Facebookは、巨大ハイヤー会社の一つだ。

そして、今回の、ランサム・ウェア問題だ。今は人間の99.99999%まで、コンピューターやインターネットに関する自主性が育っていない。ハイヤーとタクシーに依存するのなら、自己に運転技術は要らない。

すべてのコンピューターユーザーは自主性を持つべき、お粗末で危険なWindowsを捨ててLinuxに乗り換えよう、という運動があった。「日経Linux」誌などの上で今でも細々とある。私も啓蒙の一環として「Linuxの哲学」という本を書いたことがある(2002年、ソフトバンク社)。

だが、誰も自主性を持とうとしない。ネット犯罪者にとって、今のコンピューターユーザーは、“赤子の手をひねるように”、犯行がらくちんだ。しかも、自主性を持たないコンピューターユーザーは、Facebookのユーザー数以上に膨大な数だ。

今回の件に関しては、Microsoftは、「3月にパッチを公開した」ことを、免罪符とするつもりのようだ。あとは、そのパッチをあてなかったユーザーが悪いのだ、と。

しかし、今日の無自主性のユーザーにそれを求めるのは、無理であり無意味である。Microsoftの態度は、ゆえに、不誠実である。

インターネットもパーソナルコンピューターも、現状は、「超初期的原始時代」と言うしかない。ひどすぎる。お粗末すぎる。

次の「超初期的古代」ぐらいにおいては、“インターネットは自分のサーバーから使う”が常識化していてほしい。Facebookのような巨怪な恐竜は、そのとき、完全に絶滅しているだろう

「Linuxの哲学」で、せめて1年ぐらいは食いたかったが、実際には、1か月も食えない程度の収入しか得られなかった。赤子の手をひねるような大規模ネット〜コンピューター犯罪は、今後もますます頻発するだろう。しょうがないね。

個人だけでなく企業ですら、社員のコンピューター利用教育、そのイロハのイを教えていない。という悲惨な現状。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2017年5月15日 (月)

他者不在の起源(のひとつ):太陽神信仰

太陽神信仰は、さまざまな古代文明や古い民族に、わりと普遍的にあるように思われる。自分たちの生命と、それを支える自然要素(獲物や作物など)が太陽のおかげで存在していると見て、感謝し、またそのご機嫌を損ねないように信仰をささげる。多くの場合、生け贄(生きた人間)の供犠が伴ったのではないか。

しかし、ごくふつうに見れば、太陽の表面に見られるフレアや黒点などが太陽現象の一部、すなわち太陽の一部であるのと同じく、地球上の生物も、太陽の一部である。この骨、この肉、その生きることと死ぬること、これは太陽現象の一部であり、したがって太陽の一部である。太陽と、別物ではない。

太陽神信仰には、まず、Awholeの一部であるにすぎないApartsが、Awholeを自己とは別物として措定する錯誤1がある。他者である自己への他者不在。

そしてその、実は存在しない別物、自己もその一部であるに過ぎないAwholeを、信仰や生け贄供犠等によりコントロールしようとする錯誤2がある。自動車のバンパーが自動車全体をコントロールしようとするようなものだ。一般存在と化す他者不在。

この、オトコの粗悪な脳の産物である錯誤は、その後、共同体の政治機構の基盤として、すなわち共同体のアイデンティティそのものである宗教として固定化絶対化される。絶対者超越者のコントロール、という失礼無礼、すなわち他者不在の大黒柱としての宗教が生成する。<イエスという革命児が本当は何を言ったのか…神人一体説…、その理解も未だに普及していない。※>

※: そもそも彼は、キリスト教という新しい宗教宗派ができることなど、まったく期待も希望もしていない。キリスト教は、バカどもの誤解の塊に過ぎない。

今日までの人類史は、論理的錯誤の地獄史である。近視眼的欲が、錯誤を固定継続している。今年が不作で飢饉だったら、それは生け贄の選び方が悪かったからだ、などと(#)。

#: その生け贄の命を代価として、太陽神のご機嫌を買う“貨幣的”取引が行われる。すなわち他者不在に最後の画竜点睛が入れられ、完成する。

今の日本では、一部の馬鹿オトコたちによって、天皇が生け贄化されかかっているのではないか。責任感から、自分は引退したいと言っている老人、という人間のことはとんと無視して。忘れてしまって。あーでもないこーでもない、と“宗教的”に。国旗の意匠を見るだに、太陽神信仰は日本の国家主義(最後の、最悪最凶の共同体)の無意識の基盤かもしれない。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

« 2017年4月 | トップページ