“労働市場”を廃語に
“労働市場”は、オトコの粗雑な脳が考えだした粗雑な概念/言葉のひとつだと思うが、今では為政者や経営者をはじめ、多くの人びとの心脳に無反省無批判に浸透し、今日の粗放な貨幣経済社会を作り出し維持する原因のひとつになっている。
そもそも、市場、マーケットというものは、多数の狭量と恣意とエゴの集積複合体が作り出す貨幣価値動態であり、つまり賭博場の一種である。そして賭博場であるからには、そこには必ず「失敗」がつきものである。
賭博場では、多くの「失敗」と少数の「成功」が相補関係にある。
そして、労働に“市場”を認めるならば、その動態に「失敗」が認められることになる。しかし労働は、他の一般的な市場財と違って、自由化処分財ではない。言うなれば労働は人間の人格とほぼ同一不可分であり、そこには「失敗」は許されない。しかし現状では、多くの失敗者が作り出されている。“市場”(==賭博場)だから、当然である。
「失敗」が許されない==市場視が許されないものが、粗雑粗暴な(そして今や無意識的な)労働市場概念によって、失敗もあって当然とされているところに、今日の非正規労働の過酷な扱いに代表される、あるのがおかしい、あってはならない、不合理な格差社会の起因がある。
たとえば、そういう、迂闊で粗暴な市場概念に立てば、労働も他の一般的自由化処分財と同じく、安く買えれば安く買った者の勝ち、悪いのはそんな安値で売ったやつの方だ、となる。しかし繰り返すと、労働はAさんならAさんという人間が手に持つ、自由可処分財ではない。労働はむしろ、Aさんの生命と人格そのものだ。それは、市場財となってはいけない。
そして、“労働市場”が古語辞典の上にしか見つからなくなった未来の、正しい労働法においては、非正規労働は企業にとって(当然のように)正規労働よりも高くつくものでなければならない。なぜなら非正規労働者には、同一労働同一賃金原則のほかに、正規労働者に与えられているものと同質以上の、福利厚生や教育訓練等を担保しうる、十分な額の給与がプラスアルファされなければならないからだ。
言い換えると、今の(あってはならない)“労働市場”において、安上がりとされている非正規労働労働力は、労働が市場財であることが禁じられた社会の正しい労働法制下においては、やむをえず一時的に使う高価な労働力となる。
#だいたいそもそも、日本企業が、労働力とその代価に関して、そんなえーかげんな経営姿勢をとり続けてきたところに、日本企業の、“挙句の果てに中国に買い叩かれる空洞化”の根因がある。寝てても一生高給が保証される正規社員(職員)や、賃金を超安く値切った非正規労働から、本物のイノベーションが生まれるはずがない。むしろ正規労働者がたくさんいて、彼らのあいだに競争やコラボレーションが日常化していた方が良い。中国の安物産業の土俵に自分も乗ることを、グローバライゼーションと誤解したために、日本企業は道を誤ったと言える。
労働を、セーフティネットもないまま自由な市場財として放置し、さらに今度は露骨な円安誘導。安い給料の価値が、ますます安くなる!! 近年の自民党政権による労働者虐待は、どこかの国々の女性虐待なみに残虐だ。今の野党に、その悪を暴く力はあるのだろうか。
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