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2017年2月27日 (月)

“労働市場”を廃語に

“労働市場”は、オトコの粗雑な脳が考えだした粗雑な概念/言葉のひとつだと思うが、今では為政者や経営者をはじめ、多くの人びとの心脳に無反省無批判に浸透し、今日の粗放な貨幣経済社会を作り出し維持する原因のひとつになっている。

そもそも、市場、マーケットというものは、多数の狭量と恣意とエゴの集積複合体が作り出す貨幣価値動態であり、つまり賭博場の一種である。そして賭博場であるからには、そこには必ず「失敗」がつきものである。

賭博場では、多くの「失敗」と少数の「成功」が相補関係にある。

そして、労働に“市場”を認めるならば、その動態に「失敗」が認められることになる。しかし労働は、他の一般的な市場財と違って、自由化処分財ではない。言うなれば労働は人間の人格とほぼ同一不可分であり、そこには「失敗」は許されない。しかし現状では、多くの失敗者が作り出されている。“市場”(==賭博場)だから、当然である。

「失敗」が許されない==市場視が許されないものが、粗雑粗暴な(そして今や無意識的な)労働市場概念によって、失敗もあって当然とされているところに、今日の非正規労働の過酷な扱いに代表される、あるのがおかしい、あってはならない、不合理な格差社会の起因がある。

たとえば、そういう、迂闊で粗暴な市場概念に立てば、労働も他の一般的自由化処分財と同じく、安く買えれば安く買った者の勝ち、悪いのはそんな安値で売ったやつの方だ、となる。しかし繰り返すと、労働はAさんならAさんという人間が手に持つ、自由可処分財ではない。労働はむしろ、Aさんの生命と人格そのものだ。それは、市場財となってはいけない。

そして、“労働市場”が古語辞典の上にしか見つからなくなった未来の、正しい労働法においては、非正規労働は企業にとって(当然のように)正規労働よりも高くつくものでなければならない。なぜなら非正規労働者には、同一労働同一賃金原則のほかに、正規労働者に与えられているものと同質以上の、福利厚生や教育訓練等を担保しうる、十分な額の給与がプラスアルファされなければならないからだ。

言い換えると、今の(あってはならない)“労働市場”において、安上がりとされている非正規労働労働力は、労働が市場財であることが禁じられた社会の正しい労働法制下においては、やむをえず一時的に使う高価な労働力となる。

#だいたいそもそも、日本企業が、労働力とその代価に関して、そんなえーかげんな経営姿勢をとり続けてきたところに、日本企業の、“挙句の果てに中国に買い叩かれる空洞化”の根因がある。寝てても一生高給が保証される正規社員(職員)や、賃金を超安く値切った非正規労働から、本物のイノベーションが生まれるはずがない。むしろ正規労働者がたくさんいて、彼らのあいだに競争やコラボレーションが日常化していた方が良い。中国の安物産業の土俵に自分も乗ることを、グローバライゼーションと誤解したために、日本企業は道を誤ったと言える。

労働を、セーフティネットもないまま自由な市場財として放置し、さらに今度は露骨な円安誘導。安い給料の価値が、ますます安くなる!! 近年の自民党政権による労働者虐待は、どこかの国々の女性虐待なみに残虐だ。今の野党に、その悪を暴く力はあるのだろうか。

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2017年2月12日 (日)

クロちゃんアホな私を許してな

中学生のころは、動物への関心がまったくなくて、毎日のやることといえば、本を読むか、半田ごてを握っての電子工作か、どちらか、という人間だった。福岡市内の、秋葉原的一画には、よく通(かよ)った。

そして、今でもよくあるらしい、親の、子どもに対する一方的な配念というやつで、あるとき、子犬が一頭やってきた。最初のうーんと小さいときは、自分のふとんの中へ入れて一緒に寝たりしていたが、元々動物に関心がないものだから、そのうち、ほったらかしになってしまった。

食べ物は何を与えていたのか、散歩はさせていたのか、などなど、具体的な記憶がいっさいない。毎日、汚い、冬は寒い納屋につないで放置され、たぶんまだ三歳にもならないとき、死んだと思う。一緒に遊んだ、という記憶もない。死因は、目の瞳が緑色になる、ジステンパーという病気だった。抱きかかえて、橋のない浅い川を徒歩で渡り、町の動物病院へ運んだが、時すでに遅しだった。親から500円札を一枚渡されたが(今の5000円ぐらいの価値か※)、親がその犬に金を使ったのも、後にも先にもそれが最初で最後だっただろう。

※: いわゆる消費者物価指数ベースで計算すると、当時(1950年代後半)の500円はほぼ今の3000円となる。しかし私の主観としては、当時の500円はもっと大金の感じ。

このところ毎日厳寒が続くので、その体重10キロもなさそうな、小柄な黒い雑種犬への、私自身の非情無情を思い出してしまうのだが、当時は社会全体としても、犬や猫は室内飼いすべし、という“常識”はない。予防接種、という慣行もない。今ふうにまともに飼っていれば、三歳にもならずに死ぬことはありえなかったはずだ。

人によくなつき、人を完全に信じている犬は、「純なる魂そのもの」と呼べる宝石のような生き物であり、当時、動物無関心人間だったとはいえ、そんな純なる生き物に粗略な扱いをしたことが、非常に後悔される。その魂に、心から謝りたい。私の人生のその部分は、万死に値する。

幼い犬を冬は連夜、極寒の納屋に暖房も毛布等もなく、戸のない吹きっさらしの中に放置するのは、相当残虐な動物虐待だが、当時の馬鹿な私は全然そのことに気づかないのだ。本当に、ひどいことをした。許される余地はまったくない。犬は、吠えるでも鳴くでもなく、黙ぁっていた。本当に、申し訳ない。

人は、自分の中に、純なる魂そのものを見たとき、感じたとき、その反照として、動物が見えてくるのかもしれない。孤独な個としての自己を、自分の中に(うっすらとでも)感じたとき。それと同じものが、見えてくるのかもしれない。

それが分かっている今の状態で、あの、納屋つきのボロ家(や)に戻り、クロちゃんを抱きしめ、一緒に走ってやりたい。犬に、犬らしい人生を与えたい。

後悔先に経たず。

光陰矢のごとし。




現代も未来も、親が子どものために犬を家庭に導入するときは、その犬の生活・安全・健康・衛生等々に関して親が100%の責任を持つことが重要である。子どもを、“犬の散歩係”とみなしてはいけない。必ず、親が同伴すること。猫やそのほかの動物(あるいは植物)に関しても、同様のことが言える。


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2017年2月 9日 (木)

治安と戦争

このブログでは何度も指摘していることですが、政治家レベルでも、全人民レベルでも、明確に認識しなければならないのは、戦争と治安努力(まだ存在しないグローバル警察の活動)はまったく違う、という点です。

それがないから、いつもいつも、ぐだぐだした議論がえんえんと続いてしまう。警察官が発砲しなければならない状況がどうしてもあるように、南スーダンのように政府軍による残虐な犯罪行為が(抑止力なく!)続いているところでは、PKOが武器を使用する局面が必ずあるはず。

まさに、そのための武装であるはず。おかしな、つまらない、国会議論はえーかげんやめてもらいたい。

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オトコの敗北:東京都政

なにも言うことはない。薄汚い、醜い顔をしたオトコたちが、次々とゴミのように水面に浮上して掃除されていく。まだまだ、とうてい不十分だろう。女性都知事の女性力には、今後もおかしな妥協をいっさいしないことを期待したい。いかがわしい経緯で決まった怪しげな土地と、その上に建てられた物理的科学的にいかがわしい建物は、完全に無視、廃棄する、忘れてしまう、でお願いしたい。

個人的には、オリンピックも廃案にしてもらいたい。国際的に有無を言わせられぬ口実を見つけて…。

例: フクシマ≒チェルノブイリ

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