公理・定理等
いわゆる定理や公理は、そのものを最初に定義したときに、そのものの性質として、定義の中に含まれている。ではなぜ、定理や公理、そしてそれらの証明方法ににみんな驚き、感心し、珍重がられるのであらうか?
それは、最初の時点で、そのものの定義が、完全には(fullには)対象化されていない、コトバ化されていないからにほかならない。最初にあるのは、そのものに対する、視野狭窄の、単純すぎる、monkey grip的な欲、欲的視野、欲的把握にすぎないからだ。
他者不在。‘そのもの’が、最初の意識中で他者になっていない。自分が定義したくせに。とりあえず、自分のinitialな、ちょっとした、表層的、欲に奉仕してくれる部分しか見えない、見てない。
定理や公理などは、そのものに対して、別の欲をもったとき、それを鏡として現れてくる。
「赤いスイカの汁は白いシャツを赤く汚す」
これを証明せよ。
結局、欲が、その定義を定義しているが、欲自身にはそのことが見えない。
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コメント
ヒトの欲求が、定義を欲しているのだが、ヒト自心自体は、その事態に気が付けないのであろう。
投稿: ぶん | 2016年11月10日 (木) 18時02分
ゲーデルの不完全性定理なんてのはどーなるんでしょうか。
投稿: bad | 2016年11月10日 (木) 22時42分
> ゲーデルの不完全性定理なんてのは
私にはよーわからんので、badさんが考えて、結果を、誰にも分かる言葉で発表してください。
未来のためのコミュニケーション学なんて、とうてい、私一人で構築できるもんやないわ。
投稿: iwatani | 2016年11月12日 (土) 18時46分