So many people, all the short, fat people,
And all the nobody people,
And all the somebody people,
I never thought I'd need so many people.
人が多すぎる
しかも単なる群れのように
(David Bowie/Five Years)
There are too many people, too much belief
Where there's trouble there's poetry
Your family is a football team
This dot marks your location
Loneliness in a free society
人が多すぎる
それぞれが独自の信条に固執して
(David Bowie/Dancing With The Big Boys)
Too many people that I'll never meet
And I'll never be there for
I'll never be there for
'Cause I'll never be there
人が多すぎる
絶対会うことのない人ばかりが
(Placebo/Too Many Friends)
科学と呼ばれる知は、もっぱら対象知である。対象を対象として措定する主体、“自己”、アートマンは完全に忘却されている。その状態は、いわゆる、本コミュニケーション理論で言うところの、他者不在である。また科学は、一般的な対象に関する一般的な知である。しかし、真の実在は、具体的な個体、その“私”である(無生物ですら!)。したがって科学と呼ばれる知は、実在を記述できない。実在を記述できる知の言葉は、まだ存在しない。
そういう非常に素朴な原始的な知であるために、その測度も幼稚素朴なもののみであり、片方では無限の分割(無限の微小化)、そして他方では無限の延伸・集積・拡大拡張である。その幼稚素朴な無限を追う営みも、今やその極限に近く、科学的知は観測の関数にすぎないが(*)、今では観測のコストがものすごく大きい。ガリレオの時代には、個人が、十分に望遠鏡を持てたのだろう。
※: 何かが見える、のではなく、観測機(器)が構造しているものが見えるだけである。
自分がやってることの正体を自覚せず、ひたすら盲目的に励み続けることを悪無限と呼ぶが、科学はその典型例である。巨額のコストを投じて盗んできた彗星の粉塵から、未曾有の凶悪なウィルスが蔓延し猛威を揮う前に、科学という悪無限に向かう費用は、人類社会の格差是正に向けられるべきである。こっちも、未知のウィルスなみ、あるいはそれ以上に恐ろしいことは、とっくに明らかではないか。
*: ナニナニはカニカニの関数、という素朴な日常表現をここでは使っている。人力飛行機の性能はペダルを踏む者の体力の関数である、など、ちょっとおかしい言い方だが、日常的に定着している言い方のようなので。
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あらゆるものの、“一般的対象物化”は、コミュニケーションの疎という同一の硬貨の裏面だ。疎の逆の、みっしりになったら、王様は裸だや王様の耳はロバの耳と同じく、その滑稽が衆知として定着するだろう。
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