« 2016年8月 | トップページ | 2016年10月 »

2016年9月29日 (木)

NFSに見る古いコンピューター観

昔はネットワークというと、高価な専用ハードウェアで構成される、主に企業内の、ローカルネットワークのことであり、今のインターネットに見られるような、グローバルでオープンでパブリックなネットワークというものは、多くのコンピューター関係者が想定しなかった。

パーソナルコンピューターとその汎用OSが生まれたときも、そうである。

そして、それから半世紀経とうという今日においても、いまだに、“一般的なネットワーキング”は、業界、学会、ユーザー世界等々のコンピューター観において、そのほかの主要成分(中央演算装置、メモリ、ストレージ、各種I/O装置など)と完全に同列同格の一級市民と見なされていない。やむを得ず対応を要する、あとからやってきた、便利だけど厄介なよそ者、である。

この事情をもっと一般化していうと、コンピューターやOSの設計のベースとなる基本的なコンピューター観において、コミュニケーションがトップクラスの第一級市民と見なされていない、待遇されていない、となる。

それにまたインターネットと呼ばれる今日の圧倒的にデフォルトのコモンネットワーキングは、広域的なコミュニケーションを、今の自動車や航空機(物理的高速移動)以上に人類社会の重要な第一級機能インフラと見なそうした場合、その仕様はあまりに粗略すぎる。たとえば、これほどまでに毎日のように、セキュリティが大きなそして一般的な問題となりつづけているようなネットワーキングは、明らかに欠陥品である。車や列車や航空機は、ときどき大事故に遭遇するにもかかわらず、日常的にはまあ安全なものとして利用されている。そのレベルの安心感すら、今のインターネットにはない。

コモンネットワーキングのアーキテクチャは抜本的に再設計すべきであり、すでにそういう試みは各所にある。

ほんで、設計時点でネットワーク、ネットワーキングがハードディスク等と並ぶ第一級市民的要素と見なされていないために、今の広義のパーソナルコンピューターとそのOSは、ネットワーキングとコミュニケーションが大々的に一般化すべき近未来社会から見ると、きわめて、化石的に古く、不具なものなのだ。

というわけで、急に、話題はNFS(UNIX/LinuxのNetwork File System)に移ってしまうのだけど、これが実に、古めかしいクライアント/サーバシステムなのだ。そしてこれを、古めかしいクライアント/サーバシステムと呼ぶならば、今隆盛をきわめるWebも、そう呼ばざるをえないことに気づく。

最近はこのブログ上で、Ubuntu 16.04 LTSの再インストールの話、それに伴う、再インストールする前の旧HOMEのコンテンツに新インストールからアクセスする方法を、話題にしてきた。それは、旧HOMEのあるデバイスをetc/fstabに記述しておいて、その上の必要なディレクトリやファイルには、それらのリンク(UNIX/Linuxのシンボリックリンク)からアクセスする、という結論だった。

今回の話は、同一マシン上ではなく、先日引退していただいた、Ubuntu 14.04 LTS搭載機のHOMEにアクセスしたい、という話だ。ご想像通りこれはまさしく、ネットワーキングの話だ。

その、6年間使ったマシンのHOMEは、jオプションでtarした圧縮tarファイルでも20GB近くあるが、最初に考えたのは、それをDropboxに上げて、今のマシン上にダウンロードする、というアイデアだ。

しかしDropboxは、「アップロード終了まで9時間」と表示し、しかもその9時間表示が全然減らない。アップロードに9時間なら、おそらくダウンロードも9時間だろう。計18時間ではないか。しかも最初の計算通り行って、その時間だ。もっとかかる可能性の方が大きい。

そこでDropboxの利用はやめて、次は、splitコマンドで複数のファイルに小さく分割したのを、USBメモリスティックという小型トラックに載せて今のマシンに運び、catコマンドで再結合する、というアイデアを試みた。

しかし、それら、一つ一つが数GBある分割ファイルは、メモリスティックの容量に十分収まるサイズのはずなのに、「ファイルが大きすぎる」といってコピーを拒否される。3GBぐらいにまで小さくすると、やっとコピーは可能になったが、その“輸送”は、かなりの時間と手間になりそうだ。

そこで、最終的には、NFSの利用に落ち着いた。それは典型的なクライアント/サーバアプリケーションだから、ファイルをサーブする側(旧マシン)上にサーバーをインストールし、受ける側にクライアントをインストールする。

そしてサーバー上では、/etc/exportsファイルで、サーブするディレクトリを指定する。それはもちろん、問題の圧縮tarファイルのあるディレクトリだ。サーバーは、単純なアプリケーション名だけでは起動しない。rc.dなどによるシステムレベルの起動を、しなければならない。ネット上のいろんなページを見て、それらをお勉強した。

もちろん、旧機をしょうっちゅう動かしっぱなしにするなら、圧縮ファイルの作成〜ダウンロードなどせずに、単純に必要なファイルにNFSでアクセスすればよい。今回、引退機の常時稼働はなし!。

クライアントは、旧機がexportしたディレクトリを、こちらの適当なディレクトリへmountすることによって利用可能になる。mountコマンドのファイルタイプオプション-tはnfs、マウントターゲットデバイスは旧機のIPアドレスとexportディレクトリ名で指定する。-t nfsオプションでmountを起動したときの、エラーメッセージが正しい形を教えてくれる。

というわけで、1台のマシン上でなく、ネットワーク上の別のマシンとなると、その上のファイルへのアクセスが、急に面倒な作業になるのである。Webも、サーバーソフトとクライアントソフト(ブラウザー)が、内部で相当複雑な仕事をしている。その複雑さの規模たるや、(比較的単純な?)UNIX NFSの比ではない※。

※: Ubuntuのnfsパッケージは関連ソフトやそれらの構成・設定をインストール時に勝手にやってくれるので、見かけ上の単純さが実現している(参考ページ1)。「Ubuntu NFS」ではなく、「Linux NFS」で検索すると、NFS本来のややこしさが分かる。…今回の私の場合、NSFサーバーはUbuntu 14.04機だ。

どうして、ネットワーク上となると、急にこんだけ面倒になるのか?

ネットワークが、コンピューターシステムの第一級市民、ストレージなどと同格に、デフォルトの標準構成要素だったら、どうなるか。以下、読者には“1を見て100も1000も知る”ことを強制する、超簡単な骨格的書き方をしてみよう。

(1)クライアント/サーバシステムは要らない。たとえばメールなら、CPUとハードディスクの配線の長さが10センチなら、友だちのアキオくんのコンピューターまでの配線は数百〜数千キロメートルだ、と単純に考えればよい。xxxというファイルを、自機のmydirディレクトリに置きたいときはたとえば

cp xxx mydir

だが、xxxファイルをアキオくんへのメールとして送りたいなら、

cp xxx /akio/mail

でよい。cpは、Linux/UNIXのコピーコマンドである。ここでは実装詳細にはいっさい立ち入らないが、もちろんアキオくんは、あなたからのメールを拒否することもできる。このように単純なファイルアクセスですむならば、送るメールと並んで、取り寄せるメールも可能だ。

要するに特定のサーバーはいっさい不要で、ネットワークの構成員各自が、どんな形態の通信でも、まるでローカルのファイルアクセスなみに簡単に、できることになる。

(2)今みたいに私企業が社会ネットワーク(ソーシャルネットワーク)を名乗っているのは、ちゃんちゃらおかしい。人間のほぼ全員が参加している、グローバルでオープンでパブリックなネットワークそのものが、さまざまな社会的機能をもつ本物の社会ネットワークでなければ、ナンセンスである。

(つづく)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2016年9月26日 (月)

とっくに忘れていたfstab、思い出させてくれたUbuntu Forum

私はLinuxのシステム管理者的な作業を、たまにやむを得ずやるだけなので、知らないことも多いし、以前ちょっとやって、忘れてしまったものもけっこうある。

前回の記事では、古いHOMEのコンテンツのリンクを今のHOMEに置く、というアイデアを最後に書いたが、どうも立ち上げ直後には当の古い方のデバイスがマウントされてないのでリンクが死んでいる。そのデバイスのディレクトリを開いた途端、自動的にマウントされてリンクは生き返るのだが、願わくばリンクは最初から生きていてほしい。

そこでUbuntuの(Linuxの)ユーザー・モードが立ち上がる前にそのデバイスがマウントされているためにはどうするか。

立ち上げ時にLinuxがそれをマウントするためには、mountコマンドをどれかの初期化ファイルに書いておけばよいのではないか?それはどこか?

で、正解は、mountコマンドをどこかに書くのではなく、/etc/fstabファイルに、立ち上げ時にファイルシステムとしてマウントされていてほしいデバイスを書く、登録しておくのである。

そのごく基本的な管理者タスクを、あらためて思い出させてくれたのが、フォーラムのこのスレッドであります。昔は、/dev/xxxという書き方でデバイスを指定したが、今はUUIDというものを使うのが、昔と違うところ。この件では、日本語のページにも、参考になるのがいくつかある。

ちょっと困ったことが生じても、ネット上の人たちが解を提供してくれるのが、伝統的に、Linuxの良いところだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脱オトコ修行教程: 第1回: 「オレ」を禁ずる

今日の一般社会に一般的に蔓延しているだけでなく、人類のコミュニケーション有能化を目指す言説の場である本ブログにおいてもときおり、不治の馬鹿オトコがコメント・セクションをしばし賑わす。彼らのいちばん困る点は、あの米大統領候補の困ったオジサンと同じく、自己(の愚かさの)認識力がゼロで、したがって自己改革の意欲もないことだ。つねに、馬鹿オトコ特有の、脳のお粗末粗暴ぶり(基本的な、小学生レベルの、論理性に欠陥があること)を発揮して、しかも、嬉々とし、とくとくとしている。

彼らの助けになるかわからないが、助けになることを祈って、具体的な修行教程を開始したい。

第一回は、自分自身を指すときの、オレ(おれ、俺)という言葉の使用を自己に対して禁ずること。代わりに、わたし、とか、ぼく、などの、やさしめの言葉をもっぱら使うこと。

言葉に対する感覚は人さまざまだが、「オレ」には、ケース(or鞘)のない抜身の銃刀的・男根的・孤独的・自己満足自越的…男性優位主義的・火鉢に一個だけ残った小さな熾火的他社不在性が、すなわちのっけからのノンコミュニケーション性が充満しているのではなかろうか。

いまどき、オレを頻用するオトコは、みな、馬鹿に見える。いや、実際に馬鹿だ。これは私だけの特殊な感性ではない、と思うけどね。

なお、外国の場合は、日本語のオレの使用に相当するオトコ的粗暴的語法を禁ずることにする。

第2回は、「“無限科学”を禁ずる」の予定だ。あるいは、「“対象知”の正当な降位」。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2016年9月19日 (月)

Ubuntu 16.04のGUIの大不具合とその解消のお話

今朝(9/19)いつものようにコンピューター(Ubuntu 16.04)を立ち上げると、通常のGUI画面でありながらGUIが死んでいる。ランチャーがない、トップバーがない、通常のウィンドウ操作がまったくできない、等々。これではまったく、仕事にならない。

昨日(9/18)には、ローカルではふだん使わない特殊なアプリケーションの使用や、常用アプリケーションの特殊な使い方はまったくしていない。エディターとかメールソフトとかブラウザーとか、写真編集用のGIMPとか、前から使い慣れているものばかりだ。

すると、怪しいのは、Web上==ブラウザー上で実行されるWebアプリケーションだ。そのどれかが、LinuxのGUIの設定を一時的に変えて、それを元に戻さずに終了してしまったのだ。Webサイトは毎日いろいろたくさん訪れるから、どんなWebアプリケーションが動いたか、明確な記憶も記録もない。KindleのWeb上のリーダーも動かしたけど、それは、昨日初めて、orごくまれに、動かすWebアプリケーションというわけではない。

予備機の上で、「ubuntu 16.04 launcherが出ない」や「ubuntu 16.04 ランチャーが出ない」でググると、これは珍しい症状ではないらしく、多くの情報がある。解決方法は、4〜5種類に絞られるようだ。たとえばこれなど。しかし私の場合、それらのどれを試みても解決しない。

調べるのもしんどくなってきたので(dconf全体をリセットする手はあったかもしれない…)、Ubuntu 16.04を再インストールすることにした。ただし、仕事をなめらかに続行できるためには、今のHOMEの内容は保全し、再インストール後もアクセスできないといけない。

GUIが死んだ状態でも、画面を右クリックして出るメニューには「端末を開く」があるし、Ctrl+Alt+F1でCLI(コマンドラインインタフェイス)に移ることも可能だ。そして容量の大きいUSBメモリやCD-RなどにHOME全体をコピーする手もある。tar cjvfで圧縮tarファイルを作ってこれら物理メディアにコピーしてもよい。

今回の私の場合は、幸運(?)にも、現インストールでは/homeを別のパーティションにマウントしてある。再インストールでこのパーティションにさわらなければ、保全は完璧だろう。

じゃん!じゃん!と元気よく、単一の現行"/"パーティションにUbuntuのすべてを再インストール。

---ここからが今回の本題---

ところが、旧/homeのパーティションにも、今現在のHOMEにも、GUI(nautilus)からはアクセスできない。これじゃあ、新たな難題が生じただけである。

そこで、心中にひとつの仮説を立てた:「/homeが二つあるのでnautilus(等GUI系ファイルアクセス)が困って頓挫している」。「だから旧/homeパーティションを/homeでなくすればよいのでは」。

そこで、パーティション操作ツールgpartedをインストール。件(くだん)のパーティションは、パーティション名が「UbuntuHome」となっている。これを、適当な名前に変えるだけで、ファイル〜ディレクトリにGUIからアクセス不能、というとんでもない問題は解決した。仮説は、当たっていた。

どうやら「UbuntuHome」はLinuxのれっきとしたシステム予約語で、厳然と、/homeを意味してしまうらしい。これで、/homeが二つあるという状態はなくなった。

旧/home中にある旧HOMEのうち、とりあえず、メーラーが使うディレクトリと、仕事用のディレクトリはリンクを作り、リンクを新HOME中に置く。ほかのディレクトリやファイルに関しても、この、リンク化する手法は可能だが、とりあえずこの二つで、仕事に必要な『継続性』は確保される。

gmailのような、クラウド上のメーラーは、こんなローカルな苦労がまったくないから、ある意味、やはり、(公的責任を十分自覚しているなら)クラウドは偉大だな。セキュリティさえ、もっと確実ならば…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月18日 (日)

本という厄介もの

わたくしの家〜部屋では、いろんな物が頻繁に神隠しになる。さんざん探しても出てこない。最近買ったり使ったりした物でもそうだから、数年〜数十年前の物となると、短時間あるいは短時日での発見は不可能になる。

本もそうである。そこらに散在しているたくさんの本の中に、特定の本を探しだそうとすると、毎度、たいへんな労苦と時間を要する。

タブレットNexus 10で撮った写真をインターネットにアップロードする方法が分からなくて、うちに2冊はあったはずの、日本語で書かれたNexus 10ガイドブックを探した。長時間探して、やっと1冊見つけたけど、写真アップロードの方法は載っていない。

でも、Googleで検索すると、dropboxを使う方法がすぐ見つかる。そしてdropboxアプリをインストールすると、タブレットのカメラで撮った写真のメニューに、「dropboxにアップロードする」が存在する。写真を編集したければ、パソコンの上でdropboxからダウンロードして、GIMPなどを使えばよい。

タブレットで撮った写真はファイルサイズが1メガバイト以上もあって巨大なので、小さく編集したのがこれだ:

Socks2

これも神隠し話題と関連がありまして、けっこう長く履いている靴下だけど、好きなクジラの図案なので気に入っていた(いつどこで買ったかは思い出せない、ユニクロやダイソーではない)。それがある日、片方だけ、洗濯物取り入れ後に、神隠しになった。2週間ぐらいさんざん探して悶々としたが、出てこない。それが今日たまたま、別の人の取り入れ後の洗濯物の山の中にあるのを発見した。長く履いている証拠に、すそなどはすでにヨレヨレである。

(今や誰もが写真や動画を盛大に使う時代であるが、こんな簡単な写真がピンぼけであることでもお分かりのように、私の写真の才能はマイナス100点ぐらいである。)

※: 作成中のテキストが、それを保存してない時点でコンピューターが突然フリーズすると、画面を写真に撮ってからコンピューターを強制再起動すれば、仕事的にはかなり助かる。

NIftyの一方的な都合で、ホームページの引っ越しを強制され、現内容をバックアップする必要が生じた。wgetコマンドを使えば一発だろう、までは分かる。大量のサブディレクトリ〜ファイルに対する再帰的な呼び出し方法を知りたい。Linuxのコマンドのマニュアル本はいろいろあったはずだ。さんざん探して、Red Hatが1997年に発行した2000ページを超えるLinux Manという本を見つけた。ところがこいつには、wgetコマンドは載っていない(本が古すぎるのだ)。Linux上のmanは、とてもわかりにくい。

これも、Googleで一発である:

wget -r ホームページのトップURL

だ。ファイル数500あまり、総量5メガバイトあまりの全コンテンツが、3秒弱でダウンロードできた。私のホームページは画像や動画がほとんどなく、100%近くテキストだから、wgetの仕事も速い。

引っ越しやそのほかの作業のたびに、本というものの重さに驚く。重いだけではない。コンピューター+インターネット上のデジタルデータに比べると、目的とする情報をとても見つけにくい。

いまどき、人に、「本」を読ませる機械、Kindleは、正しい方向性とは思えないなぁ。

eブックは、その基本構造〜構成からして、デジタルにふさわしく変わるべきだ。

そして今更言うまでもなく、本というものの最大の(深刻にして犯罪的かつ病的な)欠点は、その対話性の欠如である。文学は、著者読者の総体が、不治の病気だ。

| | コメント (20) | トラックバック (0)

2016年9月 6日 (火)

Ubuntu 16.04にChromeをインストール

GoogleのChromeブラウザーは、Ubuntuが正規にサポートしているアプリケーションではないので、インストールにトラブルことがある。.debパッケージのダウンロードはできたが、インストールができない。以下に、私の場合の過程を、ご参考までにご紹介しよう。最後のStep 4が、インストールめでたく完了時だ。

Step 1 インストールしようとするとlibpango1.0-0とlibappindicator1がない、と言われる:
--------------------
hirwa@hiwa2016:~/ダウンロード$ sudo dpkg -i google-chrome-stable_current_amd64.deb
(データベースを読み込んでいます ... 現在 205069 個のファイルとディレクトリがインストールされています。)
google-chrome-stable_current_amd64.deb を展開する準備をしています ...
google-chrome-stable (53.0.2785.92-1) で (53.0.2785.92-1 に) 上書き展開しています ...
dpkg: 依存関係の問題により google-chrome-stable の設定ができません:
google-chrome-stable は以下に依存 (depends) します: libpango1.0-0 (>= 1.14.0) ...しかし:
パッケージ libpango1.0-0 はまだインストールされていません。
google-chrome-stable は以下に依存 (depends) します: libappindicator1 ...しかし:
パッケージ libappindicator1 はまだインストールされていません。

dpkg: パッケージ google-chrome-stable の処理中にエラーが発生しました (--install):
依存関係の問題 - 設定を見送ります
man-db (2.7.5-1) のトリガを処理しています ...
bamfdaemon (0.5.3~bzr0+16.04.20160701-0ubuntu1) のトリガを処理しています ...
Rebuilding /usr/share/applications/bamf-2.index...
gnome-menus (3.13.3-6ubuntu3.1) のトリガを処理しています ...
desktop-file-utils (0.22-1ubuntu5) のトリガを処理しています ...
mime-support (3.59ubuntu1) のトリガを処理しています ...
処理中にエラーが発生しました:
google-chrome-stable

Step 2 上で言われたlibappindicator1をインストールしようとすると、また新たな未解決依存を指摘され、'apt-get -f install'の実行を示唆される:
--------------------
hirwa@hiwa2016:~/ダウンロード$ sudo apt-get install libappindicator1
パッケージリストを読み込んでいます... 完了
依存関係ツリーを作成しています
状態情報を読み取っています... 完了
以下の問題を解決するために 'apt-get -f install' を実行する必要があるかもしれません:
以下のパッケージには満たせない依存関係があります:
google-chrome-stable : 依存: libpango1.0-0 (>= 1.14.0) しかし、インストールされようとしていません
libappindicator1 : 依存: libindicator7 (>= 0.4.90) しかし、インストールされようとしていません
E: 未解決の依存関係です。'apt-get -f install' を実行してみてください (または解法を明示してください)。

Step 3 言われたとおり'apt-get -f install' を実行すると、どうやら未解決依存がすべてインストールされたようだ:
--------------------
hirwa@hiwa2016:~/ダウンロード$ sudo apt-get -f install
パッケージリストを読み込んでいます... 完了
依存関係ツリーを作成しています
状態情報を読み取っています... 完了
依存関係を解決しています ... 完了
以下の追加パッケージがインストールされます:
libappindicator1 libindicator7 libpango1.0-0 libpangox-1.0-0
以下のパッケージが新たにインストールされます:
libappindicator1 libindicator7 libpango1.0-0 libpangox-1.0-0
アップグレード: 0 個、新規インストール: 4 個、削除: 0 個、保留: 18 個。
1 個のパッケージが完全にインストールまたは削除されていません。
85.8 kB 中 67.0 kB のアーカイブを取得する必要があります。
この操作後に追加で 570 kB のディスク容量が消費されます。
続行しますか? [Y/n] y
取得:1 http://jp.archive.ubuntu.com/ubuntu xenial/main amd64 libpangox-1.0-0 amd64 0.0.2-5 [41.7 kB]
取得:2 http://jp.archive.ubuntu.com/ubuntu xenial/main amd64 libpango1.0-0 amd64 1.38.1-1 [3,458 B]
取得:3 http://jp.archive.ubuntu.com/ubuntu xenial/main amd64 libindicator7 amd64 12.10.2+16.04.20151208-0ubuntu1 [21.9 kB]
67.0 kB を 0秒 で取得しました (430 kB/s)
以前に未選択のパッケージ libpangox-1.0-0:amd64 を選択しています。
(データベースを読み込んでいます ... 現在 205069 個のファイルとディレクトリがインストールされています。)
.../libpangox-1.0-0_0.0.2-5_amd64.deb を展開する準備をしています ...
libpangox-1.0-0:amd64 (0.0.2-5) を展開しています...
以前に未選択のパッケージ libpango1.0-0:amd64 を選択しています。
.../libpango1.0-0_1.38.1-1_amd64.deb を展開する準備をしています ...
libpango1.0-0:amd64 (1.38.1-1) を展開しています...
以前に未選択のパッケージ libindicator7 を選択しています。
.../libindicator7_12.10.2+16.04.20151208-0ubuntu1_amd64.deb を展開する準備をしています ...
libindicator7 (12.10.2+16.04.20151208-0ubuntu1) を展開しています...
以前に未選択のパッケージ libappindicator1 を選択しています。
.../libappindicator1_12.10.1+15.04.20141110-0ubuntu1_amd64.deb を展開する準備をしています ...
libappindicator1 (12.10.1+15.04.20141110-0ubuntu1) を展開しています...
libc-bin (2.23-0ubuntu3) のトリガを処理しています ...
libpangox-1.0-0:amd64 (0.0.2-5) を設定しています ...
libpango1.0-0:amd64 (1.38.1-1) を設定しています ...
libindicator7 (12.10.2+16.04.20151208-0ubuntu1) を設定しています ...
libappindicator1 (12.10.1+15.04.20141110-0ubuntu1) を設定しています ...
google-chrome-stable (53.0.2785.92-1) を設定しています ...
update-alternatives: /usr/bin/x-www-browser (x-www-browser) を提供するために自動モードで /usr/bin/google-chrome-stable を使います
update-alternatives: /usr/bin/gnome-www-browser (gnome-www-browser) を提供するために自動モードで /usr/bin/google-chrome-stable を使います
update-alternatives: /usr/bin/google-chrome (google-chrome) を提供するために自動モードで /usr/bin/google-chrome-stable を使います
libc-bin (2.23-0ubuntu3) のトリガを処理しています ...

Step 4 再度Chromeをインストールすると、あっさりインストールは完了した:
--------------------
hirwa@hiwa2016:~/ダウンロード$ sudo dpkg -i google-chrome-stable_current_amd64.deb
(データベースを読み込んでいます ... 現在 205094 個のファイルとディレクトリがインストールされています。)
google-chrome-stable_current_amd64.deb を展開する準備をしています ...
google-chrome-stable (53.0.2785.92-1) で (53.0.2785.92-1 に) 上書き展開しています ...
google-chrome-stable (53.0.2785.92-1) を設定しています ...
man-db (2.7.5-1) のトリガを処理しています ...
bamfdaemon (0.5.3~bzr0+16.04.20160701-0ubuntu1) のトリガを処理しています ...
Rebuilding /usr/share/applications/bamf-2.index...
gnome-menus (3.13.3-6ubuntu3.1) のトリガを処理しています ...
desktop-file-utils (0.22-1ubuntu5) のトリガを処理しています ...
mime-support (3.59ubuntu1) のトリガを処理しています ...

[END]

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2016年9月 4日 (日)

マルクス知らずのマルクス忌避

最近、私の大学時代の部活に関連した行事について調べてもらうことがあって、そこで集まった情報の中には、当時の同学年の人たちの名前のほかに、先輩の名前もいくつかある。

先輩の中にMさんという人がいて、とてもやさしい、いい人なんだけど、当時は全国の大学などで「安保反対運動」が吹き荒れている時期である。女子の東大生が気の毒な死に方をしたりした。私のように慢性ボケーっとしているような人(目の前の現実以外のことをつねに漠然と気にしている人)以外の学生の心は、大なり小なり“思想化”するのである。

当時のMさんがマルクシストであったかどうかは、当時も今も分からない。とにかく、あるときたまたま学食で同席する機会があり、そのときMさんは私にこんな話をした:

「マルクスは当時(産業革命直後)のイギリスの工場労働者たち(およびその家族たち)の劣悪で悲惨な状況を見て、その原因と対策を考えたんだ。」

Mさんの話し方は、おだやかで、じゅんじゅんと、やさしい。でも私は、マルクスの思想というやつに積極的な関心を持たなかった。

当時(18〜19歳)の私はまだ、マルクスの著書をまともに読んだ経験がない。マルクスに関しては、世間的俗知を持ってるだけである。その俗知の中でいちばん有名な言葉が「搾取」だ。で、そういう俗知をふまえて、漠然と、こう感じていたのである:

資本家が一方的に取ってたものを労働者も十分に(or労働者が平等に)取る、と言うが、取る取らないという話はそもそも険悪だね。どっちも何も取らない、取るものがない、“取るものがない”という認識を社会の全員が共有している、そういう完全な平和と完全なやさしさの世界が、わたくしは良いね。

当時の私は、貨幣の本質が差異であること、貨幣が持つ(とされる)価値の正体が差異とその階層であること、にまでは気づいていない。ただ漠然と、俗知として知らされているマルクスの思想なるものに、なんかやだな、と忌避していたのだ。

つまり無自覚に、オトコ的指向性を、嫌っていたのだ。繰り返すが、オトコとは必ずしも、ジェンダーとしてのヒトの雄(おす)ではない。

当時はそのことを、Mさんにちゃんと話せるほど、自分の考えが整理対象化されてもいない。ただ、返事もせず黙って、食事を続けた、という記憶しかない。

私の世代にとっては、多くの場合、取る取られるの話は戦争(〜暴力抗争)に直結する。それを、本能的に避けた、という感もある。

とにかく、マルクスをベースとするソーシャリズムやコミューンニズムは、いまや、ひでぇ失敗であることが、とっくに明らかではないか。ただし、モアベターな思想は、メジャーレベルではまだ出てない、と思うが。

力(force)の行使によって獲得された権力の、唯一の得意な政治技術は、力の行使のみである。今度は、自らの、あるいは近隣の、人民に対して。

さてしかし、オトコ性の否定は、どうやってメジャーになりうるか???

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2016年9月 2日 (金)

他者不在オトコの間違ったセックス

日本はあの南アジアの大国、The RAPE NATIONよりましだ、なんてことを自分を慰める、肯定する言葉にしてはいけない。ほっておくと、何年か後には、あそこみたいになるかもしれない。そもそも、昔はそんなことなかったあそこが、なんで近年ああなってしまったのか。

ここで、私なりの、正しい性教育の素材を、ひとつ述べてみよう。意見・反論等は大歓迎する。

ここでの話を単純化するために、(とくに男女の)性交ないし性行為を、あえて二つのタイプに分類しよう:

A. イニシアチブが女性側にある
B. イニシアチブが男性側にある

別の言い方では:

A. 男性が女性のオブジェクトである
B. 女性が男性のオブジェクトである

さらに別の言い方をすると:

A. 女性が積極的で男性が受け身である
B. 男性が積極的で女性が受け身である

そしてこれからが今回の「性教育」の核心部分だが、男性にとって(たぶん女性にとっても)本当に豊かで大きい快感と満足感が得られるのは、Aのタイプの性行為である。

Bのタイプ、男性が(ときには暴力等によって)主導するセックスは、女性にとっては往々にして苦悩、そして男性にとっては、インスタントラーメンをお湯もスープもなく、乾燥麺だけをかじって食ってるに等しい…そんな超貧弱なセックスだ。

すなわちそれは、間違ったセックスである。

あたたかいお湯やスープ(女性の積極的なやさしさ)がつねにあるためには、自分が女性から見て興味をそそられる、魅力的な男になるしかない。(ただし、そう意識したら、絶対になれない。)

女性を他者としてリスペクトしない他者不在の一方的(ときに攻撃的)なセックスは、ラーメン乾麺ばりばり食いの、貧しい人生にしか、行き着かない。それをやめて、本当に豊かな、でっかい快感を伴うセックスを、体験したい、と思わないか?

---この記事は未完成だけど、とりあえずここらで公開しておこう---


| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2016年8月 | トップページ | 2016年10月 »