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2016年9月26日 (月)

脱オトコ修行教程: 第1回: 「オレ」を禁ずる

今日の一般社会に一般的に蔓延しているだけでなく、人類のコミュニケーション有能化を目指す言説の場である本ブログにおいてもときおり、不治の馬鹿オトコがコメント・セクションをしばし賑わす。彼らのいちばん困る点は、あの米大統領候補の困ったオジサンと同じく、自己(の愚かさの)認識力がゼロで、したがって自己改革の意欲もないことだ。つねに、馬鹿オトコ特有の、脳のお粗末粗暴ぶり(基本的な、小学生レベルの、論理性に欠陥があること)を発揮して、しかも、嬉々とし、とくとくとしている。

彼らの助けになるかわからないが、助けになることを祈って、具体的な修行教程を開始したい。

第一回は、自分自身を指すときの、オレ(おれ、俺)という言葉の使用を自己に対して禁ずること。代わりに、わたし、とか、ぼく、などの、やさしめの言葉をもっぱら使うこと。

言葉に対する感覚は人さまざまだが、「オレ」には、ケース(or鞘)のない抜身の銃刀的・男根的・孤独的・自己満足自越的…男性優位主義的・火鉢に一個だけ残った小さな熾火的他社不在性が、すなわちのっけからのノンコミュニケーション性が充満しているのではなかろうか。

いまどき、オレを頻用するオトコは、みな、馬鹿に見える。いや、実際に馬鹿だ。これは私だけの特殊な感性ではない、と思うけどね。

なお、外国の場合は、日本語のオレの使用に相当するオトコ的粗暴的語法を禁ずることにする。

第2回は、「“無限科学”を禁ずる」の予定だ。あるいは、「“対象知”の正当な降位」。

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コメント

最初のタイトルだけを読んで笑ってしまいました。次は「ボクちん」を禁止されるのですか。

確か氏が「文学」を否定される根拠が、語の一つ一つに嫌らしいイメージ・癖を付け加えて書いてあるからだ、と言っていた記憶があるのですが。

まあ、どうでもいいですけどブログが面白くなるのはコメントにかかっていると思うので、皆さん頑張ってください。見ているだけの人はかかわる資格ゼロなのでカッテニシテください。

投稿: s,n | 2016年9月26日 (月) 19時22分

自分の着るものは自分で管理(洗濯・アイロン・収納)する、というのはどうですか?

投稿: 南 | 2016年9月27日 (火) 07時42分

@s,n
談話(ディスクール)をひとの言葉として引用するときは、その出典を明記するのが礼儀であり、マナー。出典を明記できない談話を、勝手にひとに帰属させてはいけない(それは犯罪に近い)。これまた、オトコの粗暴乱暴。

私が文学を否定する根拠は、ただ一つ、対話性がないことのみ。一種の、恣意的言語使用(書く方も読む方も)だから。

(第3回は、「匿名でコメントを書くな」にしようかな。日本のネット上は、失礼なやつが多いね。しかもそのほとんどが、オトコだ。)

投稿: iwatani | 2016年9月27日 (火) 10時39分

ワイシャツのアイロンがけをずぅっとやっているのですが、時々人に言うのが恥ずかしいなというオトコ的感情がもたげる事がありました。でも最近家人を亡くしてから、娘に協力して炊事、洗濯、掃除とこなしていくと、なんか心が強くなって来る気がします。

投稿: musataro | 2016年9月27日 (火) 20時38分

なんでオレオレ詐欺というが、ボクボク詐欺ていわんのやろ。

投稿: bad | 2016年9月29日 (木) 16時47分

初めて書き込みさせていただきます。

私も、「オレ」という言葉を使う人は好きではありません。私自身は、仕事の場では「私」、プライベートでは「僕」を使うことが多いです。

そんな私でも、思わず「オレ」を使ってしまうことがあります。「オレを馬鹿にしているのか!」等、専ら怒りを表明するときです。すなわち、感情的になっているときに。

「オレ」という言葉からはやはり、自己を強くみせよう、自分の優位性を誇示しよう等、男性の身勝手さ、横暴さを感じますね。

投稿: 高柳 | 2016年9月29日 (木) 21時00分

オトコの世界がなんでイヤか?単調でつまらんからだ。

投稿: bad | 2016年9月30日 (金) 23時38分

#まずは誤記指摘:自己満足「自越」的→もしかして「自悦」ではないですか。

日本人男性が使う一人称としての「オレ(おれ、俺)」と聞いて、真っ先に思い浮かんだのが「筒井康隆」でした。

お若い人は知らないかもだけど、筒井康隆という人はかつて自らのエッセイや小説で一人称として「おれ」を多用したことで有名な作家であり、 1970年代当時のおマセな小学生や中高生(特に男子)に絶大な人気があったのでした。当時のロック音楽ファンの中高生男子の中にも筒井ファンが高い確率で存在しており、私は筒井およびその信奉者が大嫌いだったので、彼らと論争(というか口喧嘩)になるたびに、いつか彼らをギャフンと凹ましてやりたいと常々考えていました(が、適当な言葉はついに思いつかず悶々としていたのが実状だった)。

今この歳(もうすぐ55歳なのです)になって改めて考えるに、当時、筒井の何がそんなに嫌だったのかというと、何やら肛門期への固着(anal retentiveness)を連想させるような、彼の小説や戯曲(演劇)等における「入れ子構造」ないし「再帰構造」への異常なまでの執着、そしてその執着を恥じるどころか隠そうともしない極度の幼児性が気持ち悪かったのだと思う。

もしかして、彼は、幼少時に合わせ鏡を覗き込んだときに、そこに見えた「無限の奥行き」(実際には無限ではないが)の魅力に取り憑かれたオトコの子の一人なのかもしれない。

だが、「入れ子構造」や「再帰構造」の本質とは、「数(かず)自体、number-in-itself」が持つ特性に他ならないのではありますまいか。言い換えれば、「入れ子/再帰構造」の魅力に取り憑かれている人は、可算無限集合である自然数自体が持つ特性に魅せられているだけなのではありますまいか。これはもう大変に困難な課題だとは思いますが、たかだか数(かず)というシステムにすぎないものに神秘性を見い出し、それを崇め奉るような症状(一種の数学コンプレックス?)のことを「入れ子妄執」または「再帰妄執」と冷たく突き放して呼ぶことにし、それらを徹底的に批判しなければイカンのではないかと考える今日この頃。

投稿: kawabata | 2016年10月 2日 (日) 23時58分

@kawabata
「自越的」は造語で、平坦な世界の中で自分(“オレ”)だけが小さな山のように突出、盛り上がっているイメージです。今回、説明の機会が与えられて、良かったかもしれません。

無限については、このスレッド第二回で、無限科学の批判を、予定しています。それは別名、対象知(観測、測定など)の自己無自覚、とも言い換えられます。無自覚の、対象知の、無限反復です。

投稿: iwatani | 2016年10月 3日 (月) 08時32分


>「自越的」は造語で、平坦な世界の中で自分(“オレ”)だけが小さな山のように突出、盛り上がっているイメージ

そうでしたか。誤記かと早合点し、大変失礼しました。

「無限」についてですが、数学者デデキントが「無限集合は存在する」という定理を証明する際に引っ張り出してきた「私本来の我(独:mein eigenes ich、英:my own ego)」という概念は、フォン・ノイマンの「抽象的自我(英:abstract ego)」の原型であり、これらが従来的な科学者の考える自己(自我)イメージの典型なのではないかと、ずっと気になって考えているのですが、まだうまく言語化できていません。

参考文献:数とは何かそして何であるべきか
数について ― 連続性と数の本質

量子力学の数学的基礎


投稿: kawabata | 2016年10月 4日 (火) 11時20分

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