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2016年4月19日 (火)

犯罪の原因はほとんど貨幣

これの直前の記事では、熊本市で中学生時代の良い思い出(楽しい友だち)について書いたけど、実は、本当は公開したくない悪い思い出もある。

ある種の動物は、気候などで狩猟条件が悪いときには、優秀な子1〜2頭を残して、ほかの子を殺して食べてしまうらしい。

人間生活の狩猟条件、食糧条件に相当するものは、金(かね)である。

金環境が極端に悪いと、家族内の弱者、親は子を、子は弟妹を、虐待し排除しようとする。

いずれも後日、当事者が謝罪はしたけど、わが家の極貧時代の熊本では、毎日、貧給の仕事で忙しい母は私につらく当たり、私はよく弟をいじめた。重要なことは、その理由動機について何も認識がない動物的自動的行為であることだ。

もちろん、貧しくとも協力して立派に生きていく立派な人たちもいるだろう。

だが、子どもを虐待殺する親に、理由動機の自覚はなく、説明能力もない。

私は勉強が好きなタイプだったから、運良く、犯罪に走ることはなかったが、あの当時のすさんだ心情の理由を具体的に説明することは、未だにできない。

人口のわずか1%が国富の60%を保有しているあの大国で、刑務所が慢性満員、慢性不足なのは、当たり前だ。

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2016年4月17日 (日)

自然と対立する生き方で良いのか?

フクシマのときも思った。あそこはもっと単純明快に、ご先祖たちが「ここから下へは家を建てるな」(==町を作るな)とアドバイスしている。生活環境の、地震をやり過ごせる物理構造は、ありえないものか。地震は、昨日今日始まった人類の体験ではないのに。

熊本市には、中1の半ばから中3の半ばまでいた。なんか人間性が濃くて温かくて、いじめのような空気はゼロのところだった。

長年音信不通だった当時の友だちをFacebookで探してみたが、一人も見つからない。LinkedInもだめだ。インターネットは、まだまだ幼児期だ。

・横井時史(ときふみ)くん: 頭が良すぎて学校の成績が悪い、というタイプ。名前が「時」で始まり、住所が熊本市新屋敷町なので、幕末の思想家横井小楠の子孫である可能性が高い(キリスト教を擁護したという誤解で暗殺された)。

・宮本孝夫くん: 母子家庭で、お母さん(戦争未亡人)は尚絅女子短大の先生だった。家には大量の本(主に文学書)があり、私の読書にも不自由しなかった。同居していたおばさん(叔母?伯母?)は夏にかき氷(+トコロテン)屋をやり、おかげでかき氷はただでなんぼでも食べれた。

・?????くん: 実家が「のしいか」の製造工場で、遊びに行くとのしいかをなんぼでも食べれたが、しまいには飽きて、遊びに行っても食べなくなった。やや肥満の、とてもやさしい男の子だった。

結局その後の私は、狭域的で具体的な人間関係よりも、パブリッシュされる言葉を介しての、広域的抽象的人間関係を重視するようになった。しょうがない。それが、私に課せられた運命なのだろう。横井くんらの、無事を祈りたい。

正しいコミュニケーション理論とその実装には、自然の一員たる小動物としての、自然との、よりおだやかで賢い関係形成もある。絶対に。

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「他者不在」という概念について

「他者不在」は、この、長年よたよた歩きをしている試行的コミュニケーション理論の、どうやら中核的キーコンセプトであることが、固まりつつある。対して「貨幣」、「宗教」などは多くのコミュニケーション不能現象の中のもっとも基盤的普遍的な、ベース現象であり、コンセプト(概念、観念)ではない。言い換えると、「他者不在」に由来する、典型的普遍的な現象の(その二大巨頭が)、「貨幣」と「宗教」である。

※: これは南さんのコメントへのレスでもあるけど、人類のコミュニケーション不能の根因である「他者不在」は、「単一世界観/単一宇宙観」とも言い換えることができる。自分の目の前に広がる世界・宇宙が唯一の世界・宇宙であり、その同じ単一の世界・宇宙を、すべての動植物のすべての魂が共有している、という存在哲学だ。世界が一つしかないと、自分以外のものはその中のオブジェクトとしてべったりと共通化され、それぞれ別の世界と宇宙を持つ「別の主体=他者」ではなくなる。他者はかき消え、他者不在が普遍的に訪れる。たとえば、他人も自分と同じ言語観を持ってるはず、持つべき、と考え、その考えのもとに他人の言説を非難したりする。違う世界がある、世界は複数ある、という認識をコミュニケーション不能人種は持つことができない。


以前、日本の現総理大臣の脳は論理性に欠陥があり危険、という趣旨の記事を書いたけど、まあ、これまでの人生経験・社会経験・見聞経験からしても、論理性を欠くことはオトコという生物のデフォルトのスタンダードであり、大雑把に言うとオトコは脳に論理性のないイキモノである。自分の意思や意図を、ひたすらゴリ押しすることしか能がない。だから対話も会話も成立しない。論理よりも、forceが支配する脳。

この、コミュニケーションについて考えようというブログにも、そんなオトコどものアホなコメントが、常時、とても多い。オトコは、ことほどさように、馬鹿である。いちいち反論するのは無駄と悟ったから、最近は無視しているが。

そして最近気がついたことは、そもそも、真の論理の重要な契機の一つが「他者」である。たとえばオトコは、女性を女性という「他者」として見る努力をしない。自分の手持ちのお粗末な概念を粗暴勝手に当てはめて、女性を理解したつもりでいる(==大誤解)。他者一般に対して、然り。

だから、「他者不在」の脳に、論理性が欠落しているのは、当然のことであった。

「他者不在」は、エベレストのように頑張れば登れる高山ではなくて、それが分からない人、分かる資質を欠いている人にとっては、無限に高い垂直の絶壁であり、登頂(「分かり」に到達すること)は不可能である。

世の中には、言っていいことと、わるいことがある。わるいことの最たるもののひとつは:

オトコの脳には論理(==他者、コミュニケーション性)がなくforceしかないから、男が主導する世界は定期的に、forceによる問題解決、すなわち戦争へと向かうのである。今の日本の総理も、自分が知っているその唯一のソリューションの必須のツールとしての、本格的な軍隊を作りたいのである。お粗末な脳しか持たないオトコどもは、ときどき大量に戦死して、社会のリフレッシュに貢献する必要がある。それが、オトコにふさわしい生き方であり死に方である。オトコはしょせん、戦争のための消耗品である。

とはいえ私が望むものはもちろん、生物学的に死ぬ前にオトコがそのオトコ性を自己否定してオトコ部分を自死し、(弱いオトコ、軟弱なオトコになり)、forceに依存しない、すなわち戦争のない、社会と世界が訪れることである。そして、犯罪と呼ばれるforce現象が残るかぎり、治安とよばれるforceツールを社会は必要とせざるをえない(それは女子でも十分に、あるいは女子の方が上手に、担当できるだろう)。犯罪のない人類社会(それは実現可能)が訪れるまでは。

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2016年4月 4日 (月)

「ためぐち」の効用

この、コミュニケーションをメインテーマとするブログの、前身のようなエッセイ集で、日本人は一般的社会のレベルで「ためぐち」を使うことに対してきわめて否定的である、と書いたことがある。日付は2007年6月となっているから、今からほとんど10年前だ。

そのころは、いわゆるフレンドリーな日本語、なるものを、試作し試用することが、ほとんど不可能であった。最大の原因は、その需要や問題意識が一般的に存在しないからだ。

さて、今は、それから10年近く経つだけでなく、インターネット上で、LINEとかTwitterとか、より気軽なコミュニケーション手段が発達している。

そして、たぶんそのこととパラレルに、売上成績の良いアパレル店員や、機内飲食物サービスのないLCCのCAらにおいて、お客さんとの「ためぐち会話」が発達しつつあるらしい。たまには、テレビ(とくにリアリティ番組)も見るもんである。

お客との会話にためぐちを使うのは、自分が客に対して「上」でもない「下」でもない、「横」の関係、仲間、お友達である、という訴求だ。短時間であれ、そういう関係の雰囲気を築かないと、服がスムーズに売れない、そのLCCの好感度が上がらない、という本能的直感だ。意図的な職業テクニック、と言ってはいけないのだろう。

で、私は何を言いたいのか。何を言っていいのか、分からないのである。まだまだ日本は、ためぐちが猛烈に否定され非難される場の方が多いはずである。「その意図」が理解されない。でも一方で、「あそこのお店へ行くと店員の××と楽しい会話ができる」とか「あの便に乗ると美人CAの○○と短時間、お友達でいられる」てなことは、この孤独先鋭化時代において、ささやかなオアシスだろう。

あの、Apple(等)下請け企業Foxconnに買収されてしまったSHARPについて思うのは、「うちみたいな大企業が単品集中は危険。常時、10テーマ以上のR&Dプロジェクトが動いてないと、明日のメシのタネがなくなるぞ」と、上司にためぐちで言える若手社員が一人もいなかったんだろうな。まじめな話、企業内コミュニケーションにも、ためぐち革命が起きないと、やばいんでないかい。

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2016年4月 2日 (土)

人間の孤独の先鋭化

“先鋭”というのは、“先”が“鋭くなる”と書く。細くなる、尖(とが)る、という意味だ。

孤独のまわりに、生活を支える、やや温かいモワモワが全然ない。北極の氷原で素っ裸でいるような、ヒリヒリの孤独だ。

児童虐待とか、弱者(女性、子ども)暴力支配とか(言葉の暴力、認識の暴力もある)は目立つ現象の一部だが、もっと現実的具体的なレベルでは、いちいち言葉にもできない多様なしんどい生活現象がある。アベノミクスがもたらした貧困格差、とか。

また、インターネットのような、会話により孤独のトンガリ(尖り)をやわらげるべき場所で、貧相な孤独をナイフのように振りかざし威勢をはる孤独者も少なくない。ネット上の匿名性が、この擬似攻撃的なネガティブ性に大きく貢献している。

匿名性は、攻撃的孤独者が着る繭、隠れ蓑だ。

あのとんでもないテロ組織も、やはり、巨大な孤独者集団、と見なすことができる。欧米社会からも、5〜6000人の若者が参加している、といわれる。

孤独の先鋭化の犯人は、ますますグローバル化し、ますます人への支配性を強化していく貨幣経済だ。また、それに対する、否定感、嫌厭感のなさ…むしろ積極的被支配性だ。いや、いくら否定し嫌厭しようと、孤独の現実は変わらない。

だからこそ、ますます、真のコミュニケーションが重要である。先鋭化した孤独に、自己が居座って、あるいは居直って、しまってはいけない。

うちは田舎社会の中で小動物の保護活動なんかやっていて、天涯孤独の寒風にさらされそうだったが、今では少数ながら理解者協力者もいる。しかしまだ、こっちが突然死んじゃったときの手配の確保はゼロだ。そこはまだ、全然、寒風である。

犬猫たちが不幸にならないだけの手配はしなければならないが、そのレベルではこっちの孤独が先鋭状態をずっと維持している。

今はほとんどみんなが、何らかの孤独先鋭化状態を抱えて、ソリューションのない状態だろう。どんだけインターネットが便利でも、この状態は短期的には解決しません。世界中あちこちで、じっと我慢の人生、であります。

そのうちきっと、ネット(網)は、血と体温の通(かよ)う網になっていくだろう。それを、試行していこう。

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