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2016年2月19日 (金)

文脈(コンテキスト)がすべて

丸山さんという人については、昔テレビでよー見たなぁ、ぐらいの認識しかないけど、今回の、「オバマ大統領は黒人だから奴隷の子孫」とか「日本がアメリカの州のひとつなら」などの言葉は、これらを孤立させて見るとたしかに奇異だけど、いろいろニュースをあさって、発言全体の意図を知れば、そんなに悪質な言葉ではない。

言葉の切れ端だけを取り上げて、人の発言を非難する人※が多いが、非難する前に全体の文脈を知るべきである。

※: このブログのコメントにも、そういうお馬鹿な批判や非難が昔からよくある。

言葉の意味は、文脈で決まる。文脈の中に、発話者の本当の発話意図==意味がある。文脈がすべて。

真の文脈が、物理的に目の前にある言葉だけでは分からない場合もある。「その人の全人格的文脈」というやつだ。仏陀の言葉など、その典型だろう。

まあ、なにしろ、文脈(コンテキスト)がすべて、である。

引用に際しても、それの文脈によく注意すべきだ。勝手に都合よく利用するのではなく。

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2016年2月18日 (木)

永遠のすれ違い

これは我が身にももって銘すべきことだけど、何かを、たとえば今の政治家を批判するベクトルないしテンソルと、それを単純に称揚する(たとえば地元の選挙で投票する)人びとのそれらとは、理解等において交差しない。両者は永遠のすれ違いである。

ヒトラーが現れたときでも、こんなやつヤバイと感じた少数派はいたはず。しかし彼らと、ヒトラーに万歳する人びとはやはり交差しない。

現実の歴史は、つねに、多数派馬鹿が推進する。

このブログで言えば、コミュニケーションなんかまったく関心のない人びと。他者理解へと脳が生育していない人びと。自分、しかない人。

申し訳ないけど、テロの被害者に連帯する人びとも、見てるとその多くが単純狭量なエゴイストだ。テロという毒を産んだ原因に、想いが到達していない。だから欧米の現状も、かなり馬鹿。単純にやっつける方へ頭が行っても、原因を取り除く方へ心が行かない。

さて、今後どうなるか。どうもならん、という、不吉な思いしかしないが…。

われわれは、遠い後世のために、エクリチュールを遺すだけだ。


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2月16日は名猫トマスの命日

2008年2月12日
もう、物を食べられないし、お母さんが昨日今日と点滴に行った
から生きているようなもの。
あと数日かな。
人間でいえば、100歳ぐらいだから、死は正常な自然現象だね。
トマスは、12月に急逝された国立ダクタリ動物病院の森田院長
先生が「ライオンみたいに立派な猫だ。とくに、耳の先端のとが
った毛は、ほれぼれする」と言っていた。そのわりには、気の弱
い猫だけど。

今はストーブの真ん前に小さなケージを置いて、強制的に暖めて
いるが、本人はずっと鳴いている(からだの不快感を訴えている
のだと思う)。

2月14日
昨日の鶏の唐揚げのときも、今日のまぐろブツのときも、
寝ていた体を起こして顔を食べ物に近づけて、興味は示す
のだけど、なにしろ何も食べられない。水を飲もうとしても、
もう水も飲めない。もうすぐトマちゃんは、トマスから「トマ
スという猫がが住んでいた肉と毛皮の家、今は空き家」、
「生命体から単なる物へ」変わるだろう。「おい、トマス、
今はどこにいるんだい?」と声をかけてあげよう。

2月16日
トマスは今朝8時30分に、最後の大きな呼吸をした。

8時20分ごろ、寝ていたあんか入りの段ボールつぐらから
出てきて、部屋のドア近くまで来て、大きな声でわれわれを
呼んだ。床に、最後のおしっこをした。それから10分間、
われわれの目の下で、横たわったまま、からだを動かしたり、
口を大きく開けて何かを話そうとした。徐々に、動きの間隔が
長くなり、最後には動かなくなった。

つぐらから出て、ドアまで行き、別れのためにわれわれを呼ぶ
など、トマスはその最期すら、とびきり優秀な心と頭の猫だね。
偉い。

最初に保護したときは、風邪で鼻づまりで物を食べられなくなっていた。頭が良いので、状況と意味(この人たちが自分に医療行為をしてくれる)を理解して、自分からキャリーケースに入った。ふつうの、野良猫の子にはありえない、利口な態度だった。そのトマの治療をしてくれたのが、12月に亡くなった森田院長先生だった。 若葉団地の5階のベランダでネットの外側を歩いていたときは、こっちは一瞬、心臓が凍ったが、トマはゆうゆうとネットのややたるんだ部分を歩いて、端まで到着し、内側へと帰還した。なにごともなかったような顔をしていた。あのころ、ベランダで撮ったトマの写真は、まだ子猫の風貌があって、とてもかわいい。

2月17日
トマスの見事な最期---一般的には、老猫のもっとも標準的な死に方である腎不全では、老廃物を含んだ血液が脳まで行くので、意識が薄れ、眠るように静かに苦痛もなく死ぬと言われている。トマスはそのときすでに、口腔内も肉球もまっ黄っ黄(腎機能停止による黄疸)だった。それでもしかし、わざわざねぐらから出てきてわれわれを呼んだトマスの最後の10分間は、私たちとコミュニケーションし、なにかメッセージを伝え、精一杯、自己表現をするために、最後の呼吸停止直前までがんばった。からだを動かし、口を何度も大きく開けた(もう、声は出ない)。こんなに感動的な死に方は、人間にもなかなかない。私の余生も、そしてすべての人の人生が、このトマスのようでなければならないと真剣に思いました。

今日の午後3時ごろ、トマスがいなくなった「無き空」は火葬された。トマスは 決して大猫ではなかったが(雄の成猫としてふつう)、骨格はがっしりしていて、お骨が猫用の骨壺に入りきらなかった。今まで何度も猫を火葬しているが、こんなことはなかった。お母さんがパンを買ったときのパン屋のポリ袋に、残りのお骨を入れた。いかにもトマらしくて、笑ってしまった。あらゆる点でずばぬけている、名犬ならぬ超名猫だったんだな。わが家の人間たちの、がんばる元気の源泉だったとも言える。死んでからでも、私たちの心の宝物であり続ける。

以上、主に「トマスと一緒」より。

トマちゃん、あなたほどすばらしい猫はいない。
人間よりすばらしい、と言っても、過言ではない。
おおまかに言って人間は、あなたのように美しくなく、賢くもない。…醜く、そして馬鹿だ。

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2016年2月 3日 (水)

世代の更新が人類を徐々に変える

わたくしが20年以上前に某誌に書いた記事の一部を、某大手企業の子会社の教材会社みたいなところの人が、同社の製品に使いたい、と言ってきた。

それは、「テキストの多義性〜多義性のない(orそれを認めない)村社会ではコミュニケーションが不要」といった趣旨の文だったと思うが、20年前と比べると、今、会社などで末端現場で仕事をしている人たちは、まったく新しい世代だ(当時はまだみんな子ども)。

当時は、私の文なんて、誰も真剣に受け止めなかった。旧世代たちは。

このブログ(とその前身のエッセイ集)で追究している「他者不在」という核的概念と、そのもっとも凶悪な現れが「宗教」と「貨幣」であること、他者不在の生き方(“開発”など)は一見効率的だけど、やがて巨大なネガティブ(“他者からの復讐”)に襲撃されるからトータルのソーシャルコストが大きな…そして悲惨な…負であること、

これらの視点は、さまざまなメディアも含む広義の一般教育で取り上げられるようにならないと、全然、浸透普及して行かない。

新しい世代が持つ新しい意識は、社会の変化が強いた“進化”だろう。テキストの多義性を重要な概念として取り上げる、とかも。「人間の多様性」に対し、もはや、知らんふりはできない、前向きに認めざるをえない、今日の社会。

今、一義性を貫こうとすると、殺しを伴う暴力しか手段がないし、その手段は最終的に有効ではない。

「他者」という概念が分かってくるのも、あと一歩二歩という感じではないか。世代の更新に伴う遅々たる進化に、期待しましょう。

(あのイスラエルですら、若い新しい世代が育ちつつあるらしい。やっと、流血の停止へ向かうか…。)


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