論理裁定の必要性
世界司法(+強力な法執行能力)は迅速に必要であり、国連でもどこでもよいが、有効性の点で発起者にいちばんふさわしいところがなるべく早期に発起してほしい。実現までは長期のすったもんだがあると思われるが、実現の必要性という点に関してコンセンサスを形成する努力がまず必要だ(あくまでも法より力!と信じて乱暴狼藉を働いている連中を平定するためにも、世界司法とその法執行機関は必要だ)。
ちっちゃな無人島の領有権問題などで、未来の戦争を恐れるなんて、そんな、あほなー。
(世界司法は、特定一国に属さない地片を前向き法定すべきである。)
そして、上のような広域圏の司法と並行して必要なのが、非常な狭域圏のための司法equivalentだ。
それが、「論理裁定」である。
いじめ、なんとかハラ、かんとかハラ、モンスターなになに、それらに近い非論理のゴリ押しを防止し、いわれなきストレス源をなくし、癌死亡率を減らす。
前回は某国総理大臣の論理性欠如を指摘したが、いまや、まともな対話の成り立たない非論理ゴリ押し人種は多い。このブログにもときどき、どーしょーもない無残でみっともないお馬鹿さんが登場するが、仕事関係のコミュニケーションでも、たいへん疲れるお馬鹿暴弾に遭遇することがある(いずれも100%オトコ)。論理を無視しているのではなくて、脳内に、論理というものが最初から欠落しているのだ。伝統的に、戦争の使い捨て兵器でしかなかったオトコは。
知人で某有名大企業のカスタマサービスをやってる人によると、「単純な、子どもでも分かるような理屈が分からず、一方的に自分の要求や主張を押し通そうとする人が最近多い。全員、若いオトコだ」そうだ。
だから、今では、論理も“社会化”されなければならず、それを担うのが「論理裁定」サービスだ。議会の議事堂だけでない、社会のあらゆる細部に、それは必要だ。
脳内に論理性のない人とは、対話しようにも対話が成り立たない。相手は、同じことを何度も繰り返しつつ、がみがみと怒鳴るだけだ。たとえばこないだの例では、
(1)それまでの議論で証拠(論拠)としては棄却されたものを、またすぐに繰り返してくる;(2)それはコミュニケーションのルール違反*だ、と言っても、またそれまでと同じことを言ってくる;
*: この場合は、ひとの言葉をいきなり自分の語感(観)で勝手に判断解釈評価し、その判断等を正当視すること。(3)こっちが言ってない(書いてない)ことを、言った(書いた)と主張する(←このムチャクチャの例は意外と多い!)。
こういう、非常に無意味に疲れる場面では、当人では無限にらちがあかないから、第三者としての論理裁定サービスの登場が待たれるのである。「ほら、ここの談話の論理構造は〜〜〜これこれだから、あなたのXXXはまったくそれに合ってないよね」、と言ってくれる人が。
もちろん、第三者の言すら無視して無論理の暴虐を続ける人はいると思うが、もうそうなると、こっちは、無視・沈黙・逃げるしかないね。
でもこの超ローカルな司法相当にも、いずれは強力な法執行力が要請され、芽生え、育つだろう。わしなんか、馬鹿を半分ぐらいは楽しんでしまう方だが、なんとかハラやいじめの被害者には、たぶんそんな余裕はない。
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