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2015年11月23日 (月)

狂信ということ

昔の地下鉄サリン殺人事件のときもそうだけど、彼らの信仰内容なんて、当時も、そして今になっても、全然分からないよね。しかも、詳しく知ろう、という気にもならない。人殺しを肯定する教義、というだけで関心は失せる。

だから問題なのは、われわれがこうして生きている同一の社会内での、彼らの「行動」だけだ。
殺人という犯罪。そしてそれに対する法の執行。

狂信集団に対しては、そういう、『表面的な認識』だけが、唯一有意義だ。ほかのことはわからんし、どーでもいい。今回のは殺人だけでなく、ものすごい女性虐待もあるらしいが。

確固たる世界法はまだないけど、共通常識・良識のようなレベルでやりながら徐々に生成していけばよい。

永井豪の「デビルマン」を久々に読んでみたが、あの、初期のヘビメタみたいな、半ばかったるい漫画も、あの『悪魔思想〜悪魔理論』を本気で信ずる人が、万一、いるのかもしれない。

狂信&狂信者は、どうやって生まれるのか、よく分からない。…一種の、病気か。
(それが発生する社会的風土、はあると思うが。)
効果的で強力迅速な、global law enforcementを望むのみ。
第二のサリン事件は、起きてほしくない。

p.s.インターネットは人類が始めて獲得した対話型/会話型のメディアであり、したがって狂信は、反インターネット的なるものの最たるものである。それは、インターネットをインターネットらしく使うことができない。


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コメント

いや~、今回の西欧の状況は恐ろしい程「デビルマン」の世界と似ているな~と思っていました。難民~テロ~難民の流れは西欧を分断させる、いい流れになってしまってます。多分フランスに住むイスラム教徒の中に、飛鳥涼がいるんでしょう。国境封鎖とは両者にとって最悪の状況です。
「デビルマン」から感じることは、「いかに人間の心とは、危ないものか・脆いものか・醜いものか」ということを暴き倒していることだと思う。一番ショックだったのは、タレちゃんの目を開けた首を掴んで降りてくるシーンでした。13才には衝撃でしたね。
教えてくれるのは、人間とは普通から悪人・鬼へと簡単に変容できる存在である、ということだと思います。自分とは危機的状況になると、どんなことでもしでかすチョーヤバイ生き物の可能性があると、教えてくれます。

なお、ISがユーチューブを使ってテロの開戦布告したシーンは、ゼノンが全国世界同時に現れて戦線布告したのと重なります。(対話じゃないよな)

投稿: s、n | 2015年11月24日 (火) 05時40分

訂正
飛鳥 了でした。そして当時12才でした。(変わらんか)
そして永井 豪が唯一同時連載していたのが「あばしり一家」というのも面白いし頷ける。

投稿: | 2015年11月24日 (火) 05時59分

彼らは何と戦っているのか?

キリスト教?資本主義?グローバル社会?

死者の中にはイスラム教徒もいたはず。

手段が目的化してしまっていますね。

投稿: 南 | 2015年11月24日 (火) 15時36分

@南
> 彼らは何と戦っているのか?
こういう詮索をいっさいやめて、「表面的に」だけ見よう、というのが、このブログ記事の主旨です。考えるだけ、時間と労力のムダです。カルトは、しょせん。

まあ今、多くの人にとって、インターネットは豚に真珠ですな。

投稿: iwatani | 2015年11月24日 (火) 19時23分

オウムと言えば、信者にサリンを撒いたのかまいたのかと聞けばいえまいてないと答え、ならグルがまけと言ったらサリンまくかと聞くと、まきますと答えるいうのが彼らなんよという話があったが、

投稿: bad | 2015年11月24日 (火) 23時15分

コミュニケーション不能が結果として貨幣を生んだというのは、どんな科学的真理より否定しがたい真理だ。

投稿: bad | 2015年11月28日 (土) 13時49分

@s,n
訂正 
難民~テロ~難民排除の流れ
これまで軽々しく難民について書いてきたけど、これも対岸の火事的にみていたからである。そんな考えでものをいうのは罪悪である。

ということでふたたび考えてみたい。
「もし自分の住む町に、50人のシリアから(テロリストの可能性のある)難民が移植してきたら自分はどうするだろう。彼らの生活費は自分らの税金をあてるとする。」

これはきびしい。きびしい、きびしい。加害者になるくらいなら、被害者になったほうがいいのだろうか。と、まあ、わし(じぶん)だったらとりあえず助けるほうに一票入れるね。あとのことは、上手くいくように仏様にお祈りしていくと思う。もし最悪の状態(生活環境破壊、自死)になったとしても、それなりにやっていくしかない。人間に与えられた因果として受け入れるしかないのでは。(ほんとかいな)

投稿: | 2015年11月30日 (月) 05時57分

訂正
人間がつくりだした因果として・・・

投稿: | 2015年11月30日 (月) 06時08分

ダブルで名前入れ忘れました。

投稿: s、n | 2015年11月30日 (月) 06時28分

またオウムだけどあの選挙戦での、しょーこしょーこあっさはらしょーこーという歌、なんじゃこりゃと思ったが、、、

投稿: bad | 2015年12月 1日 (火) 13時56分

ついこの間、うちのネコ“チョン”にまた発情期がきまして、1週間ほど「アオーンアオーン」とないて苦しんでいた。過ぎてしまえばなにもなかったように整然としているのだが、最中はほんとに苦しそうである。自分に抱き着くチョンに対してしてやれることは、背中をなぜながら「早くラクになりますように、早く終わりますように」と、み仏に祈ることだけである。まぁそれは一生懸命に祈る。
太古の人達もこんなふうに祈ったのだろう。太古の時代、人々にはなんの知識も知恵も技術もなかった。生きていくことは、あらゆる面で未知との遭遇だったと思う。そんな危機的場面において、人はなにか人智を超えた存在に祈るしか逃げ道はなかったのではないか。それが信仰という行為の第一歩じゃなかろうか。

それが、一神教と多神教に分かれる原因はなんだろう。それは、富の蓄積に関係するんじゃないだろうか。日本は縄文時代が約一万年続いたという。縄文時代とは狩猟採集生活である。野生動物や草木の実が食料である。そういうものは、長々と保存できない。で、富の蓄積は不可能である。そういう条件のもとでは、権力は起こらない。各自が平等である。また、身近具体的な自然に密接しているために、観念的超越的な神という発想も起きにくいのではないか。
なんかあたしには、一神教というのは強い権力志向(暴力者・統治者)から生み出されたものであり、それゆえ、他方に強引に押し進められたきらいがあると思うのである。一方、多神教とはコミュニティ的にまとまってバランスよく平和の中にとどまっていられたのじゃないかと思うんですけど。たんなる推測ですけど。(しかし、一万年はスゴイ)

投稿: s、n | 2015年12月29日 (火) 03時51分

>一生懸命に祈る。
祈りとは、心の矯正につながる。
「自分が正しく生きられるように」
「人とうまく生きられるように」
「人が幸せになりますように
 =自分も幸せになりますように」
なんてね。自分の背中が伸びるように、
天とまっすぐにつながるように、
地面に対して垂直に立てますように、

各自がまっすぐに立てれば(スペースが取れれば)、
誰に対しても自分らしくふるまえる。
恐れも怒りもあることなく自由に話せる。
支配も被支配もあることなく。

そう、自分から(望んで)天とつながることを
意識しなければ、自分にとらわれる。
それを不自由という。
あっちゃ向いて、ホイッ!

投稿: s、n | 2016年1月 2日 (土) 05時19分

>それを不自由という

たとえば、どんな悪人でも悪いことをすれば良心の呵責というものを少しは感じるだろう。その良心というのが、天とつながる元(仏性)だと思うのである。我思うに、その良心というものをねじまげて、傲岸にやりとうすが故に人の顔は、きたなくなるのではないか。その良心(仏性)というものに逆らわない。呵責を感じる故に、人は苦しみ自己疎外へとおし込められるように思う。なぜそのような状態になるかと言えば、人は自分の五感をつうじて我欲というのを得てしまうからである。
まあ、それを断ち切る、支配されないようにするための手段が、自分にとって「天とつながっていること」を意識することなのである。それによって良心に逆らわない、それを活かして生きる生き方ができるのである。
とまあ、天を意識することが我欲に苦しめられずに自由に生きる、自分を活かして生きる正解な方法だと思うのである。   (なんかもっとみんな書いてよ)

投稿: s、n | 2016年2月 3日 (水) 02時27分

iwataniさんはもう馬鹿には書かないとロッキンオンから離れましたが、その後ロッキンオンは全くつまらないもんになりました。

投稿: bad | 2016年2月 3日 (水) 14時25分

@s、n
>(なんかもっとみんな書いてよ)
あんたみたいに一方的にだらだら大量にコメントを書きまくっている人がいると、みんな、引いてしまいまっせ!

オトコの鈍感。

あなたは、前に、「自分のブログを立ち上げろ」と私がアドバイスした人と、同一人物とちがうかな。せやったら、あのころからぜんぜん変化成長しとらんな。基本的な、コミュニケーションレスの姿勢が。

もうちょっと、書き方を工夫したらどうかな。嫌がられんように。もっと、繊細に。

@bad
> もう馬鹿には
このブログにも、最近はその臭気が濃厚にあるね。困ったもんどす、日本のネット社会は(インターネット以前からそう!)。Facebookみたいに、匿名を禁じる手はあるけど、最初から匿名で登録することは抑止できない。


投稿: iwatani | 2016年2月 3日 (水) 18時42分

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