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先日は肉豚の飼養の残酷さを引用しましたが、今回のこれは、屠畜場における動物の扱いのひどさです。うーん、肉食そのものがいけない、とも言えないし、困ります。
2015年11月24日 (火) | 固定リンク
感情移入し難いだけで、野菜や穀物も生き物。
生きることはそれだけで罪???
投稿: 南 | 2015年11月25日 (水) 08時25分
野生動物を命懸けで狩るか、名前もつけて大事に可愛がって育てた動物を自分で殺すか。肉食はこの二通りでいいのかもしれない。 そういえば、これ以外の肉食には貨幣が介在する。貨幣は塗りつぶす。
投稿: 市川智 | 2015年11月25日 (水) 12時36分
@市川 >貨幣は塗りつぶす。 面白い表現ですね。たしかに貨幣は我々の眼を塗り潰していると思います。本質を見せないように。なんか目隠しをされて前へ前へと脅かされているようで、バカらしさを感じます。だから変なストレスがたまる。くだらないことをする。ネット上のくさった憂さばらし。 貨幣支配って人間を侮辱してますよね。それとも、それがないと成立しないほど人間てさびしい生き物なのかな。もういいかげん、みなさんと毒から目をさまして生きてみたいよね。
投稿: s、n | 2015年11月26日 (木) 09時08分
@市川 >貨幣は塗りつぶす。 すみません、かってに解釈しまして。もう一つの解釈に、貨幣はものを商品として塗りつぶす、全てを均一な商品として塗りつぶす、というのがあるかと思いました。均質という不正。
投稿: s、n | 2015年11月27日 (金) 07時42分
「カナザワ詐欺」という現象が証明するように、貨幣的価値なんて状況次第でどのようにも塗り替えられるものである。あっちゃ向いてホイ! 本質的価値というのは、創りだし利用し利用されるという関係性の中にしかない。それはたかだか人間によって、換算される(べき)ものではない。
なんてカッコイイこと書いても、人の現実!的な労働原理として、「やったらやった分だけ報酬がもらえないと働かない」というのもあると思う。1の労働しかしない者と10の労働をした者が同じ報酬だとしたら、誰が10も働くだろうか。1と10の差を人は求めるのである。 さて、ここで労働・仕事の定義を再考してみたい。1の労働しかしない者と10の労働をする者と書いたけど、労働をその人が自主的にその人の喜びのためにするものと捉えたらどうだろう。そうすれば、あらゆる人が自分のために喜びのために積極的に仕事に参加するだろう。そうなれば、自分の仕事が10だ、相手の仕事が1だと目くじらを立てることもないだろう。どの人も自分の特性・個性に合わせてじぶんの得意なことに取り組んでいけたら、貨幣的にあーだコーダと言う必要もなくなる。自分の仕事を認めることができ、相手の仕事も認めることができる。何のためにやっているのか分からない、ものすごく低次元な目的(生きていく、又は自分のため)のために働かされている時、人は貨幣的に文句を言うのではないだろうか。
人が、もっと高次元的に、活発な(対自的にも)コミュニケーション人間になれたとき、貨幣というものは必要ないのではないだろうか。(世界平和ために)
投稿: s、n | 2015年11月29日 (日) 03時13分
なんか上に書いた社会にはならないだろうな、という予感はする。必要なのに誰にも人気のない仕事もあるだろうし、難しい高度な仕事を目指す動機には個人的な報酬の大きさというのもあると思う。というか、それがないと続かないというか。
私の言いたいことはこうです。 ・貨幣は害毒である。必ず格差を生み出し、それがないと存在意義がないから。 ・しかし人間というのも、その格差を求めることが、仕事に結びついている面もたしかにある。(貨幣が人間を選別する) ・この二律背反にどのように向き合うのかが、人間の課題のような気がする。
前に想ったことは前に出さないと進まないと書いた。やはり、理想をあいまいなままにしてボーッとみているだけというのは決定的につまらないし、なにが有効なのか俎上に乗せて検討してみたいのです。
投稿: s,n | 2015年12月 3日 (木) 07時25分
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コメント
感情移入し難いだけで、野菜や穀物も生き物。
生きることはそれだけで罪???
投稿: 南 | 2015年11月25日 (水) 08時25分
野生動物を命懸けで狩るか、名前もつけて大事に可愛がって育てた動物を自分で殺すか。肉食はこの二通りでいいのかもしれない。
そういえば、これ以外の肉食には貨幣が介在する。貨幣は塗りつぶす。
投稿: 市川智 | 2015年11月25日 (水) 12時36分
@市川
>貨幣は塗りつぶす。
面白い表現ですね。たしかに貨幣は我々の眼を塗り潰していると思います。本質を見せないように。なんか目隠しをされて前へ前へと脅かされているようで、バカらしさを感じます。だから変なストレスがたまる。くだらないことをする。ネット上のくさった憂さばらし。
貨幣支配って人間を侮辱してますよね。それとも、それがないと成立しないほど人間てさびしい生き物なのかな。もういいかげん、みなさんと毒から目をさまして生きてみたいよね。
投稿: s、n | 2015年11月26日 (木) 09時08分
@市川
>貨幣は塗りつぶす。
すみません、かってに解釈しまして。もう一つの解釈に、貨幣はものを商品として塗りつぶす、全てを均一な商品として塗りつぶす、というのがあるかと思いました。均質という不正。
投稿: s、n | 2015年11月27日 (金) 07時42分
「カナザワ詐欺」という現象が証明するように、貨幣的価値なんて状況次第でどのようにも塗り替えられるものである。あっちゃ向いてホイ!
本質的価値というのは、創りだし利用し利用されるという関係性の中にしかない。それはたかだか人間によって、換算される(べき)ものではない。
なんてカッコイイこと書いても、人の現実!的な労働原理として、「やったらやった分だけ報酬がもらえないと働かない」というのもあると思う。1の労働しかしない者と10の労働をした者が同じ報酬だとしたら、誰が10も働くだろうか。1と10の差を人は求めるのである。
さて、ここで労働・仕事の定義を再考してみたい。1の労働しかしない者と10の労働をする者と書いたけど、労働をその人が自主的にその人の喜びのためにするものと捉えたらどうだろう。そうすれば、あらゆる人が自分のために喜びのために積極的に仕事に参加するだろう。そうなれば、自分の仕事が10だ、相手の仕事が1だと目くじらを立てることもないだろう。どの人も自分の特性・個性に合わせてじぶんの得意なことに取り組んでいけたら、貨幣的にあーだコーダと言う必要もなくなる。自分の仕事を認めることができ、相手の仕事も認めることができる。何のためにやっているのか分からない、ものすごく低次元な目的(生きていく、又は自分のため)のために働かされている時、人は貨幣的に文句を言うのではないだろうか。
人が、もっと高次元的に、活発な(対自的にも)コミュニケーション人間になれたとき、貨幣というものは必要ないのではないだろうか。(世界平和ために)
投稿: s、n | 2015年11月29日 (日) 03時13分
なんか上に書いた社会にはならないだろうな、という予感はする。必要なのに誰にも人気のない仕事もあるだろうし、難しい高度な仕事を目指す動機には個人的な報酬の大きさというのもあると思う。というか、それがないと続かないというか。
私の言いたいことはこうです。
・貨幣は害毒である。必ず格差を生み出し、それがないと存在意義がないから。
・しかし人間というのも、その格差を求めることが、仕事に結びついている面もたしかにある。(貨幣が人間を選別する)
・この二律背反にどのように向き合うのかが、人間の課題のような気がする。
前に想ったことは前に出さないと進まないと書いた。やはり、理想をあいまいなままにしてボーッとみているだけというのは決定的につまらないし、なにが有効なのか俎上に乗せて検討してみたいのです。
投稿: s,n | 2015年12月 3日 (木) 07時25分