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2015年10月12日 (月)

☓記憶遺産○記録遺産

今日は午前中ちょっとネット上で、川島芳子(1907-1948)という人のことを調べる機会があったのだけど、戦争や悪政によって不条理な死を遂げる人びとの大半が無名の人たちだけど、この(当時の)超有名人の場合も、その一生は悲惨極まりない。

ひとことで言うと、(主に日本の)オトコの馬鹿と無神経と乱暴に利用され翻弄され尽くした人生である。

だが、この私のようにたまたま死ななかった無名人がいる意味と、川島芳子などの記録が一般公開的な形で遺っていることの意味は同じだ。言い換えるとその悲惨な人生は、記録が遺っていることで、今および今後のわれわれに役に立っている。それがせめてもの、その霊のなぐさめであり、その酷い人生を生きたことの「意義」である。今後の人類は、断固、脱オトコバカの社会を作らなければならない、と強く示唆する。

川島芳子に関する本はものすごく雑多なので、比較的冷静淡々としていると思える、寺尾紗穂著「評伝川島芳子 男装のエトランゼ」を買ってみた。まだ到着しない。この方には「原発労働者」という良書もあるようだが、内容が事前に想像できてしまう(日本の電力会社電力行政の、まさにオトコ的ひどさ)だけに、ちょっと手が伸びない。

どうでもよいが、この著者の音楽(歌)も、あまり好きではないね。Jポップと並ぶJフォークという感じで。

遺産となるのは、記録であって、記憶ではない。断じて。
隠蔽されている記録がある場合は、それに関するメタ記録も必要である。

以下は、川島芳子が処刑(銃殺刑)直前に書いたとされる“辞世の詩”だ:

家あれども帰る能わず

涙あれども誰に向けて語らん

法あれども正しきを得ず

冤あれども誰にか訴えん

これは記憶ではなくて記録である。記憶はJポップ/フォーク等の世界にたゆたうが、記録は私たちが一歩でも半歩でも前進するための客観的な指標となり力ともなる。


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