« 2015年9月 | トップページ | 2015年11月 »

2015年10月22日 (木)

誤解で凍結しているインターネット(ブログのマナー)

先日は日本の某県、今日は某グローバル企業の日本法人だ。どちらも、ブログ上の記事に対して、どこそこを直せ、と言ってくる。犬も歩けば他者不在にぶつかる。

インターネットは、人類が初めて獲得した対話型のメディアである。

そこで、対話の姿勢も見せずに頭ごなしに権威主義的に言ってくるやつらは、まあ、良く言って原始人か土人だ。そんな連中はインターネットを、古典的なブロードキャストメディアのone ofとしか思っていない。

どんな談話においても、オリジナルの発話者には、その人なりの意図や感性、独自の意味体系というものがある。オーディエンスにとって彼/彼女は、完全なる他者である。他者はまず、リスペクトしなければならない(犯罪者は論外だが)。

で、まず、その独自の意味体系とやらを想像してみる。それでもなお、おかしい、間違いだ、と感じられたら、コメントでソフトに打診してみる。

それを読んだ発話者が、あ、自分は間違いを書いた、と理解したら、指摘してくれたことに謝辞を述べるだろう。

そうではなく、独特の意図が込められた表現なら、そのことを説明するだろう。

また、事実に関する記述は、オリジナル発話者に適切で簡便な検証手段がない場合、「Aではない。BだからBに直せ」と言われても、直せないのである。だからコメントにして、両説併記にするのが妥当なのだ。

なにしろ、いきなり頭ごなしの、直せ、は無礼でありインターネット上のマナー違反である。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2015年10月19日 (月)

戦争と治安努力

戦争と治安努力

イギリス、ジョージ6世による対ナチス開戦の国民への報告の一節を、いくつかの機会翻訳にかけてみた。

[原文]
For the sake of all that we ourselves hold dear, and of the world's order and peace, it is unthinkable that we should refuse to meet the challenge.

[Google]
私たち自身が大切にし、世界の秩序と平和のすべてのために、それは我々が課題に対応することを拒否しなければならないことは考えられません。

[nifty]
世界の私たち自身が大切にするすべて、注文、および平和の目的のために、私たちが、困難を乗り切るのを拒否するのは、思いもよりません。

[Bing]
すべては私たちのために自分自身を親愛なる保持し、世界の秩序と平和、それは我々 が課題に対応を拒否する必要があります考えられない。

[excite]
私達自身が大切に保つすべておよび世界の注文と平和で、私達が、挑戦に遭遇するのを断るべきであることが想像不可能である。

[weblio]
そのようなものすべてのために、我々自身は大切なままでいます、そして、世界の順序と平和の、我々が挑戦に会うことを拒否しなければならないことは考えられないです。

[仮訳]
私たちが慈しむすべてのものと、世界の秩序と平和のためには、この難局に立ち向かうことを拒否することは考えられません。

------

“機械”にとっては、相変わらず状況知、ないし文脈知(context)が苦手である、苦手で当然であることは、これらの結果から分かるんだけど※、この短い節のキモは、

平和のためにはこの戦争は拒否すべきでない(拒否したら平和は毀損される)

と言ってることだ。

※: GoogleとBingには、peaceとorderが一緒に出てきたらorderは「秩序」だ、という、とても素朴なレベルの文脈知があるのかもしれない。

私は、西にナチス、東に日本の軍部、というとんでもない連中がのさばろうとしているとき、それはもはや力でしか抑えられないから力に訴えよう、とするこの姿勢は、「戦争」ではなく「治安努力」だったと思う。最後の、??がいっぱい付きそうなソ連参戦も、中国東北部における日本軍部の一掃のためには、あれしかなかったかもしれない。

(なんで今どきこの話を持ち出すかというと、軍部の横暴に嫌気がさした杉原千畝氏(6000人のユダヤ人を救ったとされる人物)には、一般外交官への転身という道があったけど、川島芳子氏には、どんだけ軍部を批判・悪態をついても、自分自身のポジティブな転身の道がなかったこと。これが対照的だなぁ、と思うからだ。)

ついこないだもこのブログに書いたが、原爆すら、日本軍部がもうすこし賢明だったら、落とされずにすんだはず。沖縄戦もひでぇが、今の基地だらけ沖縄は、そのことへの反省やつぐない感が見られないぶん、ひでぇの二乗三乗だ。

そろそろ、なんでもかんでも「戦争」という言葉でひとくくりにするのは、やめにしたい。不毛な議論を避けるためにも。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2015年10月16日 (金)

人格虐待をバネにして

このところ毎日続いている憂鬱感+厭世感の原因は、どうも、川島芳子さんの霊がまだ、“うかばれていない”せいのようだ。

渡邊泰子さんの場合は、最近の有志の努力によって真犯人像がほぼ明らかになっているためか、さまよう霊の重さは空気中にない。

川島さんに関しては、出回っているドキュメントがまだまだ東スポ的な軽薄なものが多い。冤あれども誰にか訴えんの詞に、誠実真剣に応えたものは見当たらない。寺尾紗穂さんの本も、心に強く訴えるのは、芳子さんの詩歌の引用のとても多い、最終章最終節のみで、あとは人間感に乏しい記述の羅列だ。

しかし彼女の人物と性格、思想、そして当時のいくつかの状況から、彼女の無罪は明らかである。ひとつだけ例を挙げると、逃げろ隠れろと勧められながら、それを拒否して堂々と北京に在住を続け、つかまり、銃殺刑に遭っている。彼女の気性からして、自分が本当にやったことは、きっぱり、やったと認めるはず。そうではなく、冤だ、と辞世の詞で主張している。

とにかく、沖縄戦も広島長崎も拉致も何もかもひどいけど、この、一人の女性の、幼時から死刑までの完全な女性虐待、人格虐待の過程もひどい。オトコは本来、ろくな生き物ではないけれども、前世紀前半の日本の上部層においては、ほとんど鬼畜だ。

やさしさと、人間性と、明るさに満ちた日本に、そして世界になるよう、今後も自分にできるかぎりのことをしていくから、芳子さんもときどき、私を、私らを、プッシュしたり導いたりしてほしい。そうすれば私たちも、もっとうまく、前進できると思う。二度と、みっともない日本、みっともない日本人にならないように。

| | コメント (19) | トラックバック (0)

2015年10月12日 (月)

☓記憶遺産○記録遺産

今日は午前中ちょっとネット上で、川島芳子(1907-1948)という人のことを調べる機会があったのだけど、戦争や悪政によって不条理な死を遂げる人びとの大半が無名の人たちだけど、この(当時の)超有名人の場合も、その一生は悲惨極まりない。

ひとことで言うと、(主に日本の)オトコの馬鹿と無神経と乱暴に利用され翻弄され尽くした人生である。

だが、この私のようにたまたま死ななかった無名人がいる意味と、川島芳子などの記録が一般公開的な形で遺っていることの意味は同じだ。言い換えるとその悲惨な人生は、記録が遺っていることで、今および今後のわれわれに役に立っている。それがせめてもの、その霊のなぐさめであり、その酷い人生を生きたことの「意義」である。今後の人類は、断固、脱オトコバカの社会を作らなければならない、と強く示唆する。

川島芳子に関する本はものすごく雑多なので、比較的冷静淡々としていると思える、寺尾紗穂著「評伝川島芳子 男装のエトランゼ」を買ってみた。まだ到着しない。この方には「原発労働者」という良書もあるようだが、内容が事前に想像できてしまう(日本の電力会社電力行政の、まさにオトコ的ひどさ)だけに、ちょっと手が伸びない。

どうでもよいが、この著者の音楽(歌)も、あまり好きではないね。Jポップと並ぶJフォークという感じで。

遺産となるのは、記録であって、記憶ではない。断じて。
隠蔽されている記録がある場合は、それに関するメタ記録も必要である。

以下は、川島芳子が処刑(銃殺刑)直前に書いたとされる“辞世の詩”だ:

家あれども帰る能わず

涙あれども誰に向けて語らん

法あれども正しきを得ず

冤あれども誰にか訴えん

これは記憶ではなくて記録である。記憶はJポップ/フォーク等の世界にたゆたうが、記録は私たちが一歩でも半歩でも前進するための客観的な指標となり力ともなる。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

ノーベル賞(続)

前回の続き:

そしてもうひとつ数万個〜数億個のノーベル賞にあたいすると思われるのは、真のコミュニケーション論、全的充満的関係論に立ったとき、従来の(数学をも含む)自然科学が、その全的存在を記述しておらず、これまた他者不在の視点視野であることを、証明することである。

これだけでなく、未来のコミュニケーション学、コミュニケーション理論の“各論”は、難しい課題がたくさん並んでいるので、今後の後世代は、やることがいっぱいあって、一生、退屈しないね。

| | コメント (14) | トラックバック (0)

2015年10月11日 (日)

ノーベル賞

ノーベル賞に対する関心は、知る人の少ない研究や活動が、一挙に多くの人が知り、関心も持つものになる、というこの一点のみである。

で、そこで、本ブログ等における、(人類のコミュニケーション不能の根因としての)「他者不在」という概念、およびその最大の(==最悪の)現れが「貨幣」(人間(じんかん))、宗教(対絶対者/超越者)、存在疎外(自然や死などとの不仲、など)」であることの認識は、ノーベル平和賞を一度に数万個〜数億個もらうべきほどの意義と価値がある。

微生物や素粒子という悪無限(の中のロシアンルーレット的僥倖)が、それぞれ一つずつもらえるものならば…。

殺し合いをやめさせる努力が一つもらえるものならば、人類を殺し合いしない種へと抜本的に改造するコンセプトは、やはり、数万個〜数億個もらえる価値があると言わざるをえない。

------
私はたまたま死ななくってわりと長く生きた方だから、やるべきことは不条理な死を遂げた、現に遂げつつある、あまりにも大量の人びとの、怒りと悲しみを、なるべく未来へ有効な形で提示することである。たまたま死ななかった者にとって、本当にやるべき重要なことはそれしかない。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2015年9月 | トップページ | 2015年11月 »