コトの発端
そもそも、私なんかが大学入ったころは、学生は「安保反対集会」に出るのが務めとなっておりまして、安保の何たるかを詳しくは知らない私も、まわりの雰囲気に押されて集会の一員になったことが何度かある。
そのときのニッポンのソーリダイジンが、今のソーリの祖父である。「反安保」==「打倒岸」であった。彼についても私はほとんど無知であったが、「顔が良くない」という印象は確実に持った。それは、今のソーリについても同じ。オトコで、しかも顔の良くない人は、仕事でも良いことはできない。それに“世襲”(親/祖父の七光)が加わると、最悪である。
職人さんのような特殊技能以外は、親(〜親の世代)に対する批判の上に新しい何かを築くのがまともな人間。
安保(1960年代)の前の「警察予備隊」(自衛隊の前身)(1950年代)から、アメリカによる日本の再軍事化は着々と進んでおるのであり、今回のあれも、その第何歩目かにすぎない。きもちわるいことが、えんえん、繰り返され、積み重なっている、ということ。
そのきもちわるさの深化が背景になることによって、「平和憲法」の歴史的重要性も次第に、よりくっきりしてきていると思うが、重要性の認識が最上位的政治勢力にまでは成長していない。
このブログと、前身のエッセイ集で何度も言っているが、「平和憲法」は、その実装努力がこれまで、あまりにも希薄僅少だったのだ。これからが勝負だ!、とも思うけど。でも実装努力の希薄が続けば、「平和憲法」はあいも変わらず日本人にとって、“指のあいだから流れ落ちていく水”みたいなものであり続ける。最終的に無になる可能性もある。そうはならない、という雰囲気も、最近は感じられるけれども。
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コメント
デモをしている若い子らを「安保」の意味も解っていないとか、戦争法案じゃないとか言って批判するオトナ〈知識人、評論家とか〉が多いですが、、、いやいや戦争をし易くしているのは間違いないでしょ。どんなに理屈を並べても。
投稿: musataro | 2015年9月22日 (火) 20時53分
なんかねー、デモに数多くの人が参加してもそんな人らが「貨幣経済」や「トレード信仰」になんの疑問も持たないようだったら、なんの意味もないような気がするんだけど。日常の中にある戦争や格差を否定しないと、根本的に安心できないのでは。量の多さに見合った質の高さもないと、なんかそれも衆愚運動のような気がする。
はっきり言いたい。競争==戦争である。協力==平和である。
投稿: s、n | 2015年11月 5日 (木) 05時04分