川内原発の阿呆
メルケル氏の論理は、たぶん、子どもにでも分かる単純なものだ:
●人間のやること、考えることに、“完璧”はありえない。
●その穴(見落としや予想外事)から破壊が起こった場合、核エネルギー装置はコントロール不能になる場合もあり、そのときの悲惨度がとてつもなく大きい。
●だから、原発は最初から、作るべきでも稼働させるべきでもない。
ところが川内原発の阿呆は、日本の1930〜40年代までの軍部等とまったく同レベルの阿呆で:
●川内原発の安全性は完璧である。
●だから再稼働させても絶対に大丈夫である。
日本でプログラミングが広く普及しないのも、多くの日本人が、正しい普遍的な論理とは無縁な無責任空間にて生きているからだ。
※引用、ダイヤモンド・オンライン15/08/12より:
新浪 実は最近また『失敗の本質』を読み直しました。痛感しましたね。ここで描かれている旧日本軍的発想が今の日本の企業社会にも残っていると。野中 ほう、具体的にはどんなことでしょう。
新浪 システムによる統合よりも属人的統合を重視することです。端的にいうと、それがITの弱さになって現われていると思います。日本企業はハードをつくらせたら抜群によいものをつくるけれど、ITになると弱くなる。業務の標準化が徹底せず属人的になり、最後は人に頼ってしまうからです。
人に頼れば人を整理しづらくなる。人を整理する発想が経営者になくて、情緒的に判断しますから、ますます業務の標準化が進まない。結果、日本独自のITサービスはなかなか育たない。まさしく悪循環です。70年前に日本はアメリカに負けましたが、今またIT分野で敗北を喫しているのは、失敗から学んでその本質が変わっていないからだと思います。
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コメント
反原発とか脱原発という事よりも、まず、「絶対に大丈夫」とか「安全性は完璧」なんて嘘を平気でつくことが問題です。なんだかなぁ、、その裏には昔の日本軍の時から続く環境の変化に追いていけない「官僚的な・・」気持ちの悪い特質が生き残っているように思えます。
投稿: musataro | 2015年8月12日 (水) 15時38分
好きな言葉
「原発を動かしたいなら、国会の目のまえに、東京のための電気をつくりたいなら、東京のど真ん中に、原発もってこい。」人に迷惑かけるんじゃねー。アホンダラ。
投稿: 下村直樹 | 2015年8月13日 (木) 05時00分
昔、「原子力は最初から兵器として作られたものだ」と指摘した人がいたのを思い出しました。(ダイナマイトのように、民生用に作られたものを兵器に応用したのでは無く)
投稿: こうじ | 2015年8月14日 (金) 00時09分
間違えました。民生用に作られたダイナマイトから、兵器に応用したものが作られたのではなくです。
投稿: こうじ | 2015年8月14日 (金) 01時23分
アホ総理の原発海外トップセールスは取り返しのつかない大いなる愚行だ、という事をひとまず指摘しておいて。
昔hiwa氏が出した「日本再鎖国論」とい本の中で、日本語という言語は論理性には向かない言語であると指摘していたおぼえがある。なぜなら、英語の名詞は“物”をさすのに対して、日本語の名詞は“事”をさす言葉であるから。英語の世界観は「物の有る無しをはっきり峻別する」のに対し日本語のは「無いことも有る」という包括的に肯定の世界観であると。それは日本の世界観は「ものごとは、“事”の豊穣なつながりにより成立している」という事を知っているからである。ということで、日本というのはアメリカのような訴訟社会にはなりにくい性質がある。
ここまでは納得するのであるが、それでは、論理性の弱い日本の国民性は弱点なのか否か。或いは、論理性に強いという事と関係性に重きを置くという事は別次元の事として両立するのだろうか。
いやいやいや、冷静に考えれば関係性という事と論理性という事は、相殺しないのだろう。関係性に重きを置いても悪いことは悪いのだから。もっと言えば、重きを置くからこそ、悪いことは悪いのである。それよりも問題なのは「だめやぞ!」と指摘しにくい日本人のこころの弱さであるまいか。どうも日本人というのは自己保身も加わり、相手の不正を指摘するのを嫌う。これも「出る杭は打たれる」あるいは「人の振り見て我が振りなおせ」の亜流であろうか。どちらも自分の得手なことわざじゃないが。もしそういう「あたたかさと強さ」というのを合わせ持つ人間に各自がなれたら、“鬼に金棒”“馬場に卍固め”のようなスバラシイ社会になるのではないだろうか。
投稿: 下村直樹 | 2015年9月18日 (金) 02時10分
>論理性に強いという事と関係性に重きを置くという事は別次元の事として両立するのだろうか。
どーもやっぱりこのことが気になる。論理性とは、物事の是非とか原因などを突き止めるのが主役のような気がする。すじみちをきっちり組み立てて追求するのに、英語という言語概念は向いているのだろう。
反して日本語というのは、名詞を“事・様態”として捉えるから実体として特定しにくいのでは?で、どうにも悪の原因を糺弾しようにも曖昧になったり、決定打を打てなかったりするのじゃないかしら。これは日本の美徳、あるいは曖昧無責任性なのか、自分には分かりかねるのである。
投稿: s、n | 2015年10月11日 (日) 22時55分