裕仁の万世が一、二世となり貫太郎の永遠が寸暇となる愚態
それは最悪の愚策であり、今度の方が前よりもやばい。
最良の賢策は、アメリカ(等)の敵国を、日本の敵国としないことである。
それしかない。第二のピカドンを避ける道は。
今こそ賢人と偉人が必要だが、いません。
お馬鹿な小人(しょうじん)しかいないから、ほんまに、やばい。
「万世の為に太平を開かむと欲す」…裕仁(初めての、最初で最後の、自主的意思表明)(たぶん死刑を免れた唯一最大の理由)
「永遠の平和、永遠の平和」…鈴木貫太郎(臨終時のコトバ)
今こそ、自主的平和外交と自主的平和政策を。
| 固定リンク
コメント
「国民の安全を(武力で)保障する」と言うけど、根本的にしなければいけないのは「危機にさらす原因の解消」だろう。
(以下余談)
究極には、国家という共同体がある限り、国による貨幣に生をしばられている限りは・・・。だって、貨幣は差異(=差別≠平)によって成り立つし、好経済(好景気)の向こうに必ず不経済を生み出すのだから。(人は人のために働くのではなく、カネのために働くのが普通となってしまう。カネを追求する正当性を破壊したい)
投稿: 下村直樹 | 2015年8月14日 (金) 07時49分
お盆の間は稼ぎどきというので、死ぬほど働いた(おおげさ?)。だけどこんなにガンバレルのも、「生活がかかっているから」という目的があるから。だけどやっぱり、無貨幣になると、人はどんなふうに働くのか想像できない部分は、やっぱりある。行事やイベントに、人がドッとくりよせてそれに対応する。まあまぁ、それはアリなんだけど、「昼めし抜きで対応する」というのはナシだろうな。
個人的な欲や生がかかっているから、ここまで経済発展が進んだのだけれども、それも今やToo Muchである。
「経済の好循環を目指す」ということは、(他方に)それ以上の「経済の悪循環を発生させる」ということなんだろうなぁ。学者さんには当然、前から知っていたことでしょうな。
無言交換。キャッシュレス、カード支払いなんかになると、ますますコミュニケーションレスが完成するんだろうなー。恐ろしくも、さびしい。
おカネって怖いなーと思うのは、ハラが減ったとき、たまたま手持ちにカネがなくて、パンの1個も買えないと分かったとき。国家に命を握られている、と知ったとき。
投稿: 下村直樹 | 2015年8月18日 (火) 04時14分
むこうがケンカ腰で来るからと言って、こちらもそれに合わせるなんて子供かっ!!
ケンカはどちらも悪い。と教わったはず。
投稿: 南 | 2015年8月18日 (火) 08時09分
@ iwatani
>今こそ、自主的平和外交と自主的平和政策を。
なんかパワーバランスをかいくぐって、利する、という考え方は嫌いだ。卑怯だ。美しくない。絡め取られてしまい、本質からそれてしまいそうだ。
もっと根本的に、『平和』を実現するために力を入れるには、どうしたらいいんだろうか。と言う事を政治に取り入れて欲しい。
やはり、どの相手(国)にも傾かずに立って、事に望みたいものです。
投稿: 下村直樹 | 2015年8月23日 (日) 03時50分
コミュニケーション忌避は、自分を守るために繰り返されます。現状では自分を守るために、信用も信頼もできないから。国家間なんて、その際たるものだと思います。なぜなら、『不安』こそ『国家』の最大の『成立要因』だから。そこでは、当然のように格差や戦争が必要とされてしまいます。
そしてどうにも、人ひとりひとりのコミュニケーション忌避が、国家というものをつくり上げている気がします。(発展せず、ゆったりと(小さく)安心して生きられれば、国家は要らない。できないのは、人間の傲慢な欲のせい?)
投稿: 下村直樹 | 2015年8月24日 (月) 05時15分
京都への空襲が無かったのは、米軍によって京都が原爆投下の最有力候補地とされていたからで、投下目標からはずされたのは、それは古都が壊滅すればアメリカの占領政策はうまくいかず、日本が
共産化するのではないかという理由からだそうだ。なんちゅうこっちゃ。
投稿: bad | 2015年8月24日 (月) 13時10分
忌避、忌避と言ってますが、コミュニケーション忌避とは何でしょうか。なにもあらゆる所で、笑顔で握手して来いとは言いません。忌避とは、一例として特定の人、モノ、共同体にしか心を開けない状態ではないでしょうか。特定の(自分の)家族、恋人、経済共同体(企業)などにしか心を開けず、他者とはシャットアウト、ひどければ敵対・競争関係になってしまうような状態。とすれば、コミュニケーション忌避とは、卑小な共同体形成願望とも言えるのじゃないでしょうか。
では、communication-fulな状態とは? あらゆる人が、特定の共同体に帰属・依存していない状態=精神面で全てに開かれている状態。こだわり・しがらみが少なく、自分は一個の孤独な(自由な)、ハダカの自己であることを自覚している事。だからこそ、うつろいゆく関係性(ふれあい)を一生懸命大事にしようとする心。つまり、その時その時、その場その場を大事に大切にして生きていく心意気じゃないでしょうか。(なにを書いとんじゃ、オレは。恥ずかしいじゃないか)
投稿: 下村直樹 | 2015年8月24日 (月) 22時02分
いや実に正論だと思います。
投稿: bad | 2015年8月24日 (月) 23時48分