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生に特権はない。 せめて、少なくとも、生と死は自然の中において“対等”、ぐらいにならないと、死がいつまでも他者不在の他者として疎外される。
そうすると、生も、貧しく、不幸なのだ。
2015年8月 7日 (金) | 固定リンク
「死ぬ」と言うと人聞きが悪いので
「生前の状態にもどる」と言ってはどうでしょう?
投稿: 南 | 2015年8月10日 (月) 08時06分
@南 よく、小鳥や蟬(セミ)などが路上の任意の場所、随意の場所で生を終えていますけど、自然な安らかさしか感じない光景ですね。
人間の死を、自然のやすらぎとは無縁のネガティブなものにしているのは、戦争、金、家(いえ)など、反自然でコミュニケーション不能の仕組みに、意識を支配されすぎているからです。そこらに遺体を捨てるのが衛生上、問題なら、遺体を焼却〜完全な無機物にしたうえで、海洋葬がいいかな…。
投稿: iwatani | 2015年8月10日 (月) 09時23分
iwataniさんの「ビートルズ詩集」(旧版の方)のジョージ ハリスンの訳詩(確かオール シングス マスト パスだったと思うけど)に「自分の言葉を信じるな」と言うのがあったのを、他者不在論全体を読ましてもらって思い出しました。自分の言葉を信じないと言うことは、自分の発した言葉が否定されて絶えず自分に戻ってき、自分の言葉を客体化し、他者として眺める事だとと思います。自分の言葉に酔って他者が見えないやつらのいかに多いことか。
投稿: こうじ | 2015年8月25日 (火) 23時55分
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「死ぬ」と言うと人聞きが悪いので
「生前の状態にもどる」と言ってはどうでしょう?
投稿: 南 | 2015年8月10日 (月) 08時06分
@南
よく、小鳥や蟬(セミ)などが路上の任意の場所、随意の場所で生を終えていますけど、自然な安らかさしか感じない光景ですね。
人間の死を、自然のやすらぎとは無縁のネガティブなものにしているのは、戦争、金、家(いえ)など、反自然でコミュニケーション不能の仕組みに、意識を支配されすぎているからです。そこらに遺体を捨てるのが衛生上、問題なら、遺体を焼却〜完全な無機物にしたうえで、海洋葬がいいかな…。
投稿: iwatani | 2015年8月10日 (月) 09時23分
iwataniさんの「ビートルズ詩集」(旧版の方)のジョージ ハリスンの訳詩(確かオール シングス マスト パスだったと思うけど)に「自分の言葉を信じるな」と言うのがあったのを、他者不在論全体を読ましてもらって思い出しました。自分の言葉を信じないと言うことは、自分の発した言葉が否定されて絶えず自分に戻ってき、自分の言葉を客体化し、他者として眺める事だとと思います。自分の言葉に酔って他者が見えないやつらのいかに多いことか。
投稿: こうじ | 2015年8月25日 (火) 23時55分