重要な法律にはしばしば、その今後の実装をガイドするために、「施行規則」とか「実施計画」というものが作られる。それらの実装ガイドのことを、ここでは一般化して仮に『実装計画』と呼ぼう。
日本の平和憲法には、絶対的に、実装計画が必要だった。そのことは、この、コミュニケーションに関する論考のいちばん最初に書いた。極論すれば、同じ1000人死ぬのでも、戦死よりは平和死の方がずっとましである、と。平和の実装努力も、いろんな形での犠牲者は生じうる。
でも、そのかんじんの実装努力は、今日までまったくなかった。それは、ゼロだった。
※: 法の条文が、否定形、〜をしない、〜を持たない、等である場合は、それをしないため、せずにすむためには、ナニをする、カニをする、アレをする、コレをしなければならない、〜〜〜という“バックアップポジティブ”が実装計画の主な内容になる。
そこへもってきて、今さら、一連の馬鹿オトコどもがやろうとしていることに、反対したり、違憲をとなえたりしても、そんな、まるっきりパッシブな態度が持つ力はゼロに近いぐらい弱い。害獣を駆逐する力はない、そもそも、その登場と跋扈をまったく防げなかった者たちが、何を今さら…。
しっかりした、多様な内容からなる、実装計画があって、それが今日までコンスタントに充実して実施されていれば、王子様ソーリをはじめ、今の自民党周辺などにはびこる向戦勢力が、芽を出すことすら、ありえなかっただろう。もちろん、今アンポと呼ばれているもののような、超下等国的賤民国的な劣悪資産も存在しえない。
そんな状況になっても、ただ出てきたものにだけ反応するパッシブな動きや言論しかないのでは、事態はもう、ほとんど絶望的だ。しかも選挙民たちのマジョリティにおいても、その反省はなさそうだから、いよいよ、国民の多数が安全保障==向戦努力と信ずる、愚かしい国になっていくのだ、日本は。
それでどうなるか。どうなってもおかしくはない。強大な軍事国家にはなれそうもないから、むしろ可能性として大きいのはThe Next Pica-don(s)かな。
とにかくもう、そっちの方への動きを、止めることはできない。今からでは、何もかも遅すぎる。えんえんと70年も、実装努力ゼロのままだったんだから、この地にどんな毒草がはびこっても不思議ではない。
台風とは対照的に、地震、津波、地すべり、火山の噴火など、地中で起きることへの予測技術・理論はものすごく未発達だ。巨大甚大なやつほど、『突然』起きる。
日本人〜日本社会、そして国際社会の“人間地殻・社会地殻”に、何か大きなポジティブなことに向かう事態の進行が、もしかして、あるのかもしれない。そして私の差異的貨幣論や他者論が、突然、メジャーに注目されたりして。←この最後のセンテンスだけは、よけいな付け足しだけど!!
ず〜〜っと実装計画ゼロだった理由
他者不在
いわゆる平和主義的インテリなども含めて、そしてもちろん若かりし日のわたくしなども含めて、みんな、平和とは自分のことだ、と思ってきた。自分(自国)が、軍備を持たない、戦争をしない、などなど。
ところが、どっこい。平和とは(そしてもちろん戦争も)、自分のことではない。それは、すぐれて、対他関係のイシューである。だから平和の実装計画とは、良好な対他関係を築き、維持し、それらを日に日に増進していく、多面的な活動と事業の計画である。
自分のことしか考えてないところに、そんな計画が芽生えないのは、あたりまえ。
本論考の最大に重要な概念である他者不在は、当然ながら残念ながら、平和が大好きな人たちの脳と心をも、完全に侵しているのだ。みんなみんな、コミュニケーション不能人種だから、当然、そうなるのだが。
だから、この期に及んで、いまだに、そんな「自分のこと観」の平和願望者や学者などが、圧倒的に多いよね。まあ、いったん、毒草たちに完全に負けちゃって、ひどいことになって、平和憲法の実装version 1.0(==不実装)の間違いに気づく、反省する、というところかな。version 2.0の機会が、遅すぎないタイミングで、訪れるといいんだけど。
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