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2015年6月29日 (月)

コミュニケーションの歴史

ふつう、なにかxxxの歴史というと、「xxxはどのようにして始まったか」から書き出すと思うのだけど、コミュニケーションの歴史だけは、相当異常だ。それは、こう書き始めなければならないし、それしかありえない:

人類のコミュニケーション不能(communication-less)はどのように始まったか

そして極論的に単純化していうと、最初は、すべての人間が何らかの共同体の成員であり、どの共同体にも属していない“個人”は存在しない。そして共同体内では伝統的慣習やルールが支配し、毎日の生活において、コミュニケーションは要らない。したがって共同体内の個人間にはコミュニケーション不能だけあれば十分である。言い換えるとそこは、最初にコミュニケーション不能(communication-less)ありき、の世界だ。

単純化しすぎかもしれないが、骨格的にはこれでよいだろう。

そして、コミュニケーションが当時でも必要となるのは複数の共同体間だけど、そこも、最初にあるのはコミュニケーションへの意思ではなくて、コミュニケーション不能、ないし、コミュニケーション忌避(or恐怖)だ。そこから、トレードと戦争がセットになったコミュニケーション不能(communication-less)が、国際ならぬ共同体際(intercommunal)関係を今日に至るまで非常に長期支配する(今は多くの人が国家と呼ばれる大型共同体に属し原初共同体の力は弱いので、家族という弱小血縁共同体や企業という貨幣競争的経済共同体がその大型共同体の“サブコミュニティ”になる)。

文化人類学者から、沈黙交易(dumb barter)というものを習うのだが、よく考えるとそれも即日から、あるいは遅くとも開始の翌日から、貨幣的取引になる(はずだ!)。もちろん形式貨幣が普及するまでは、現物貨幣だけど。

====今日はここまで、続きは明日以降に===

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東南アジアの憂鬱

昔仕事で、東南アジア各国に数日ずついて、お役所めぐりや企業めぐりをしたことがあるんだけど、そのときいちばん感じたのは、どこへいっても、どよーんとした、鈍い、すっきりしない空気感が充満していること。役人たちの表情や態度にも、そのどよーんが感じられる。企業は、華僑経営のものが多いから、それほどでもないが、ネイティブの小企業には独特の暗さがある。

ビルマ(ミャンマーという言葉は死んでも使いたくない!)、カンボジア、タイ、インドネシア、おまけして中国などは、共通して一般市民大虐殺の歴史と、その責任者実行者処分の不徹底、曖昧化の半永遠的持続を抱えている。体の深部に、癒えない、大きな傷がある。

典型的な例がビルマだが、あそこは選挙結果を蹂躙し多くの学生や一般市民を殺して権力を獲得した不法軍事政権が、今でも実質的に国の支配権を握っている。彼らが作ったおかしな憲法のおかしな条文により、スーチーさんの大統領選立候補は不可能になった。

一般市民虐殺がなかったところには、ものすごく大規模なスラム、貧民街をいつまでも解消しようとしない、放置している、という問題がある(フィリピン、ラオスなど)。

東南アジアの社会的空は、毎日、曇っている。かろうじて例外は、ベトナムぐらいか(料理も安くておいしいし、コーヒーも独特のエスニック風味でうまい)。

ついでに言っておけば、南アジア(バングラデシュ、インド、パキスタン、ネパール、etc.)もひどいぜ。ネパールでは、日本ではとっくになくなった、農家の娘売り(インドの売春宿などに)が今でも頻繁だ。

それぞれ、日本人女性などによる局所的ボランティア活動はあるが、焼け石に一滴の水だ。

仮に、日本人がとても高潔な資質と社会創成能力を持っていて、かつ、昔のように軍部の専横を許さず、政府が軍部に屈服することもなければ、

大東亜共栄圏 ー(マイナス) 軍、戦争、武力支配

言い換えると、大東亜共栄圏 version 2.0を、各国の意識層と協力しながら推進すべきではないか。

そう、あのでっかい中国も、もはや、GDPがアメリカを抜く経済大国になったなんて、もてはやしている場合ではない。富裕層が国の将来に見切りをつけて、大量に、脱国しつつあるじゃないか(なのに?orだから?AIIB?)。ここも、当地や諸外国在住の意識層と協力しながら、真の近代化==民主化革命を推進する必要がある。それをしないと、日本やアジアばかりか、世界中がやばい。

(やばいことはすでに、いくつか起きている。)

東南アジアの国々の毎日の曇天は、多少お付き合いのあった私の心の曇天でもある。それが、毎日続いている。

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2015年6月27日 (土)

プログラミングと宗教の完全消去

私の知るかぎり、多くの人びとに伝わる形での明示的な宗教批判は、John Lennonの

Imagine there's no religion.

のみである。ただしこれは原歌詞の正確な形からの引用ではない。

それ以前にはマルクスの「宗教は麻薬である」があるが、しかし、これまでの(似非)socialism思想(似非)communism思想の歴史において、宗教批判がそれ単独でメインの大きなイシューとして取り上げられたことはない。宗教批判そのものが真剣なメジャーなトピックとして追究展開されたことはない。

だから人口に膾炙する形での明示的な宗教批判のディスクールは、Imagineの歌詞が人類の歴史上初めてだ、と言っても過言ではない。

ではなぜ、Lennonのような大物が言ったのに、そして人類のコミュニケーション有能に向けての大進化のための最重要の課題の一つであるのに、なぜ宗教批判は強力に広まらなかったのか。

宗教がコミュニケーション不能旧人類の精神基盤となっている根底的な巨悪であるという認識が、なぜ、まだ広まらないのか。広めようとする人びとが多く発生しないのか。

Lennonの「宗教はないのだから、宗教で殺しあう必要もない。世界中のみんなが、ただの人、ふつうの人として仲良くできるはず」というメッセージが多数の人びとの日常常識にならないのは、なぜか。

いまざっと暗算すると、Imagineの歌詞を重大なものとして受け止め、明示的な宗教否定をしっかり意識的に思想として持っている人は、世界の人口の、多くて0.01%ぐらいだろう。0.001%という線もありうる。要は、今だに、ものすごく、多勢に無勢ということだ。

99.99%の人が、宗教・貨幣・戦争という強固な三点セットの呪縛を破って脱する気がない。やはり、私が前に考えたように、コンピュータとそのプログラミングが、人類の新しい共通言語として普及しないかぎり、ただの人・ふつうの人の普遍的な論理性が、心頭の最上部を支配する事態は訪れないのかもしれない。

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2015年6月25日 (木)

全人類コミュニケーション不能の元凶

朝日新聞という新聞は昔から大っ嫌いであるし、100%軽蔑に値する新聞だと信じている(記者の頭と心が幼稚で自己満足的)。犬猫のお世話用の資材としてとっている新聞が、今はたまたま朝日新聞だ。

(NHKは100%軽蔑に値する放送局。)
※ある日の番組欄より:

LIFE!内村光良ムロ妖怪も竹中直人もカッツアイも大活躍!宇宙人総理が重大発言星野源工場へ行く
完全に人をなめた馬鹿。しかも既成タレント依存コンテンツの過剰。われわれのメディアがタレントに完全に占領されている。

最近は朝刊の一面に金言ミニコラムがあって、朝ごはんを食べながらなど、目に入ることがある。だいたい、どれもくだらない。

今朝(2015/06/25)のは、イギリスの某著作家による、「信条には糊のような固着作用があるので、衣類もそうだが、糊はつけすぎない方がよい」とかいう趣旨の金言(?)が載っている。つねに柔軟な心と頭を持て、ということか。

こういう昔の人のいわゆる名言は、あらゆるパーティーが、自分の利益のために利用しようとする。早速、今日明日あたり、集団自衛権というどの国にもない(ありえない)奇妙なものを押す人びとが、反対派(違憲論者など)を批判するために持ち出すだろう。あの、大朝日新聞に載っておった、と。

一見一般的普遍的に見える談話(ディスクール)が、実は、発話者の特殊意図にまみれている。それを、当人も読者も相対化できない。読者も、自分の特殊意図にまみれた読み方しかしないからだ。

言葉が、コミュニケーションに寄与せず、それぞれの人に紐でつながれたペットの小型犬になってしまっている。人に吠えつき、人を噛ませるつもりかもしれないが、それもすれ違いにしかならないのだ。

※こんなみえみえに多義的なディスクールを立派な(?)金言として紹介するのは、今でも朝日が、頭と心の幼稚な自己満足人間の集団である証拠。

この、悲惨なる、コミュニケーション不能の現状。その元凶の一つ、一方交通的・ふりそそぐ降雨的マスメディア。

今だにとくとく・ゆうゆうたる態度をひけらかしている朝日新聞(ほか)は、100%200%軽蔑に値する。昔の同窓生で、教師とか役人とか有名出版社とか、食いっぱぐれのない道へ進んだやつに、ろくなやつはいない。そういうのが、今ではトップの管理職〜重役だろう。

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うちは新聞がすぐに新聞紙として利用されてしまうので、あわてて原文を引用しておこう:

信条というのは、おそらく硬化というか、いわば心の糊づけであって、糊はなるべく少ないほうがいい。                                  E.M.フォースター
(英語の原文は読んでないが、悪訳くさいな。)

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2015年6月15日 (月)

今やもう遅すぎる(たぶん)

重要な法律にはしばしば、その今後の実装をガイドするために、「施行規則」とか「実施計画」というものが作られる。それらの実装ガイドのことを、ここでは一般化して仮に『実装計画』と呼ぼう。

日本の平和憲法には、絶対的に、実装計画が必要だった。そのことは、この、コミュニケーションに関する論考のいちばん最初に書いた。極論すれば、同じ1000人死ぬのでも、戦死よりは平和死の方がずっとましである、と。平和の実装努力も、いろんな形での犠牲者は生じうる。

でも、そのかんじんの実装努力は、今日までまったくなかった。それは、ゼロだった。

※: 法の条文が、否定形、〜をしない、〜を持たない、等である場合は、それをしないため、せずにすむためには、ナニをする、カニをする、アレをする、コレをしなければならない、〜〜〜という“バックアップポジティブ”が実装計画の主な内容になる。

そこへもってきて、今さら、一連の馬鹿オトコどもがやろうとしていることに、反対したり、違憲をとなえたりしても、そんな、まるっきりパッシブな態度が持つ力はゼロに近いぐらい弱い。害獣を駆逐する力はない、そもそも、その登場と跋扈をまったく防げなかった者たちが、何を今さら…。

しっかりした、多様な内容からなる、実装計画があって、それが今日までコンスタントに充実して実施されていれば、王子様ソーリをはじめ、今の自民党周辺などにはびこる向戦勢力が、芽を出すことすら、ありえなかっただろう。もちろん、今アンポと呼ばれているもののような、超下等国的賤民国的な劣悪資産も存在しえない。

そんな状況になっても、ただ出てきたものにだけ反応するパッシブな動きや言論しかないのでは、事態はもう、ほとんど絶望的だ。しかも選挙民たちのマジョリティにおいても、その反省はなさそうだから、いよいよ、国民の多数が安全保障==向戦努力と信ずる、愚かしい国になっていくのだ、日本は。

それでどうなるか。どうなってもおかしくはない。強大な軍事国家にはなれそうもないから、むしろ可能性として大きいのはThe Next Pica-don(s)かな。

とにかくもう、そっちの方への動きを、止めることはできない。今からでは、何もかも遅すぎる。えんえんと70年も、実装努力ゼロのままだったんだから、この地にどんな毒草がはびこっても不思議ではない。

台風とは対照的に、地震、津波、地すべり、火山の噴火など、地中で起きることへの予測技術・理論はものすごく未発達だ。巨大甚大なやつほど、『突然』起きる。

日本人〜日本社会、そして国際社会の“人間地殻・社会地殻”に、何か大きなポジティブなことに向かう事態の進行が、もしかして、あるのかもしれない。そして私の差異的貨幣論や他者論が、突然、メジャーに注目されたりして。←この最後のセンテンスだけは、よけいな付け足しだけど!!

ず〜〜っと実装計画ゼロだった理由

他者不在

いわゆる平和主義的インテリなども含めて、そしてもちろん若かりし日のわたくしなども含めて、みんな、平和とは自分のことだ、と思ってきた。自分(自国)が、軍備を持たない、戦争をしない、などなど。

ところが、どっこい。平和とは(そしてもちろん戦争も)、自分のことではない。それは、すぐれて、対他関係のイシューである。だから平和の実装計画とは、良好な対他関係を築き、維持し、それらを日に日に増進していく、多面的な活動と事業の計画である。

自分のことしか考えてないところに、そんな計画が芽生えないのは、あたりまえ。

本論考の最大に重要な概念である他者不在は、当然ながら残念ながら、平和が大好きな人たちの脳と心をも、完全に侵しているのだ。みんなみんな、コミュニケーション不能人種だから、当然、そうなるのだが。

だから、この期に及んで、いまだに、そんな「自分のこと観」の平和願望者や学者などが、圧倒的に多いよね。まあ、いったん、毒草たちに完全に負けちゃって、ひどいことになって、平和憲法の実装version 1.0(==不実装)の間違いに気づく、反省する、というところかな。version 2.0の機会が、遅すぎないタイミングで、訪れるといいんだけど。


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2015年6月10日 (水)

グローバル無法地帯: インターネット

グローバル無法地帯については前にも書いたけど、その中にはインターネットも含まれる、ということをここで追記しておこう。

まず、こないだの、日本年金機構のやつは、職員教育の担当部門に完全な責任がある。あるいはその部門を管轄しているさらなる上部に。

メールの添付ファイルは、本当に信頼できる相手からのもの以外は、絶対に開いてはいけない。

このイロハのイのようなことを、彼らは教わっていない。教習所に一回も行ったことのない者が、いきなり路上で車を運転するのと、同じだ。

深刻な問題はWebサイト上の広告だ。広告も、いっさいのクリックをしなければ安全な場合が多いが、ときには勝手に悪いことをしでかす広告もある。問題は、広告配信業者(“広告ネットワーク”)に、チェック能力がないこと。そして、そんな広告が載ってしまったサイト側の多くに、検知と対策の能力がないことだ。

Webサイトも、なんか、よく知らない、よく分からない、いかがわしい(かもしれない)サイトは、自分のブラウザ上で開かないようにするのが、せめてもの自衛策だ。

もっと根本的には、インターネットの基本アーキテクチャそのものを、抜本的に再構築する必要がある。今のインターネットは、お互い信頼できる教育機関や研究機関同士のコミュニケーションを前提としているアーキテクチャだから、それがグローバルに利用されたら無法地帯になるに決まっている。

(今回はこのへんで。)

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2015年6月 5日 (金)

フェミニズム 2.0

これまでのフェミニズム、フェミニズム1.0は、女性の立場を男性と互角にすることを目標としていた。

しかし、オトコ(人類の雄)が地球上(もしくは宇宙内)最悪の害獣であることが明らかになりつつある今日、この、男性と互角路線の価値とイメージは低下している。

本ブログでは、本編やコメントの一部で、「やっぱり女性はエライ!」シリーズを折りにふれ展開しているが、それらの例はいずれも、『女性ならではの』能力や感性に基づく活動例だ。ここに取り上げた少数の例がすべてではなく、地球上各地でさまざまな女性ボランティアが活躍している。

これら、仮称フェミニズム 2.0は、1.0の時代のように、プロパガンダ的な活動、運動、論陣等がなくて、各現場における個々の地味な仕事ぶりがあるだけだ。そのことも、女性ならでは、と言えるだろう。

フェミニズム 2.0は、女性が男性との互角を目指すのではなく、むしろ、女性的な価値が上位に立つことにより、男性主導型の歴史の傷(きず)を、治していくものになるだろう。一部では、傷はますます激症化しつつあるから、その道は前途遼遠だが、でも希望は、そこらの方向にしかない。

でも、頑張るのはよいが、無謀はやめて!と言いたい。自分のイノチも、たいせつに。

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2015年6月 1日 (月)

もうひとつの戦争==貨幣

多くの人が戦争反対を言うが、その人たちの多くを含む多くの人が、もうひとつの戦争を遂行している。貨幣の本質は差異であり、差異の階層だが、そこには階層のより上部を争う普遍的な戦争がある。受験‘戦争’などは、その分かりやすい例だが、その他もろもろ、悪質陰険な害他的行為も多い。その戦争の規模が大きくなり、遂行主体が国家などになると、いわゆる‘本物の戦争’になる。本物の戦争や犯罪の直接の原因や遠因は、往々にして貨幣(==トレード)である。

あの劣悪新興宗教めいた連中が繰り広げている戦争(犯罪)のような犯罪(戦争)は、数世紀にわたって貨幣的搾取と疎外に荒廃させられた地域に、毒シャボテンのように芽生え、育っている。その、ある種、一揆めいた運動に共感する人びとは、必然的に、全世界的に多いから、もう手遅れの癌のように、今後の、世界中各地への‘転移’がおそろしい。

問題は、メディアが実質的に行う教育も含め、最広義の教育が、この、もうひとつの戦争と本物の戦争の一体性を教えないことだ。前者の戦争には、多くの人がまさに‘参戦’していることも、したがって自覚されない。そこに欺瞞がある。そこで多くの場合、大衆的人気度の大きさが、欺瞞性の体に正しさという虚偽の衣装を着せている。大衆は、最広義の教育によって正しく教育されていないのだから。

本物の戦争の真犯人は、つねに、衆愚である。しかし、この真犯人が正当に罰せられた例は歴史上存在しない。…から、今後何度も何度も同じことが繰り返される。最広義の教育も、この、もうひとつの戦争(==貨幣)に加担参戦している以上、必然的に、衆愚に加担する。

解決策はある。貨幣を廃棄し、コミュニケーションをベースに、平等なリソース配分を全地球的に実現することである。「差異」をなくすことである。

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