自然の多様性
かつて、しばらく野菜作りをして、学んだことの一つが、「自然の中にはあらゆる多様性がある」ということだ。わずか10平方メートルぐらいの畑にキャベツや白菜を作っても、わずか4〜5株のトマトを作っても、大きさ、形、色沢、虫などの有無、などなどの多様性がある。均一でもなく、均質でもない、多様が自然の本当の姿だ。
人間も同じで、一人一人が多様の一員であり、ある個体がどんな特性を持たされたかは、偶然でしかない。
あらゆる多様が存在しなければならないのだから、どの特性もその存在意義は平等で互角だ。
ある特定の、狭い範囲の特性だけを肯定し、他を否定する、人間の歴史的性格は、疎外と差別に満ち満ちた劣悪なコミュニケーションレスの社会を作り、維持してきた。またそれは、自然に対する抑圧や無理にもつながっている。
そうやって否定される特性の持ち主が、たまたま自分だったり、自分の家族だったりしても、悪いのは否定する方であり、多様をつねに作り出している自然には何の罪もなく、多様の一員である個体にも、なんら、否定されるいわれはない。堂々と、あるがままに、自然の中に居直っていればよいのである。A特性とB特性は、それが、どちらもある、という意味において、互角平等なのだから。
ただし、人間の社会、その劣悪な社会が作り出す多様には、否定すべきものも多い。その話は、まったく別の話だが。
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コメント
@iwatani
>人間も同じで、一人一人が多様の一員であり、ある個体がどんな特性を持たされたかは、偶然でしかない。
概ね本稿の趣旨に賛同しますが、あくまでも私見ですけど、私がこういう性格・特性をもって誕生したのは“吹く風”のような偶然じゃなく必然のような気がするのです。私は輪廻とか因果律(善因善果・悪因悪果・自因自果=自分でまいた種は必ず自分に還って来る事)を信じています。厳密に証明はできないから信じるというのです。
それで、今の自分がいる意味とは、過去自分が生を受け行ったことの精算・オトシマエをつけるために生を受けたのではないか、と。もしそうなら、この世において自分の性格を正し、特性を生かして「自他共に喜びのうちに(社会に貢献し)、この生を全うする。」ことが究極の理想・目的ではないかと思うのであります。
投稿: ohiya | 2015年4月14日 (火) 08時00分
病院で知り合ったHさんだが、僕と同じ年でロックも好きな人だが、15歳から病院にかかっていて、真如苑やキリスト教にも入信しているが、治らないというか思うに一種の性格みたいなもんでそんなもん直そうというのが無理じゃないかという感じがするのだ。でも自分は神だ本物の神だとか言うので困るなあ。彼は。
投稿: bad | 2015年4月14日 (火) 12時54分
誰もが自分自身にとっては本物の神である。
投稿: 市川智 | 2015年4月15日 (水) 11時12分
でも最近は落ち着いてきたが、以前は電話で3,40分一方的にガーッとしゃべりまくるので、ほんま疲れましたね。
投稿: bad | 2015年4月15日 (水) 14時47分
そうだよなあ。。自分こそが本物の神だ!的な押し付けは勘弁して欲しいですね。色んな野菜が共存して器に収まっているのが、美しいといおうか、、、
投稿: musataro | 2015年4月17日 (金) 01時28分
いじめに関して言えば、ヤクザに借金払えんならこのダムに飛び込んでくれやと
いじめられている方は恐喝されている様なもんで、そんな気持ちは到底親に言ってもわからんだろうと、思って言えないのだ。で最悪の場合自殺という事になる。
投稿: bad | 2015年4月22日 (水) 18時00分
自殺というのはいじめられっ子にしたら、起死回生の大逆転劇にも見えるんじゃないか。悲劇のヒーローとしていじめっ子に制裁を加えるための大バクチ的な。スマホとかSNSって人を幸せにするんだろうか。俺は最初期の携帯電話を持つのも、店舗の中でも一番最後だった。あんなもん、人を縛るものにしか見えなかったので。
@iwatani
>A特性とB特性は、それが、どちらもある、という意味において、互角平等なのだから
これまたしつこいが、播種と母性本能にも言えるのである。母性本能が正しい本能というなら、同等に播種本能も正しい本能と言えるのである。臆するなかれ、既婚男性諸氏よ、と言えるのはいつの世のことだろうか。アーメン・・・
投稿: ohiya | 2015年4月22日 (水) 23時16分
どうにも、前に読んだトピックに出会えなくてここに書かせてもらいます。
昨日は完璧なお天気だった。お昼過ぎに近くの温泉(金沢には近くにちょこちょこ温泉がある)に行き、その帰りに犀川の川べりに立ち寄ってみた。最高でしたね。川には清涼な雪解けの水が、とうとうと流れているし、空の色はなんというか春真ん中のきれいな青空だし。そして川辺をみれば、新緑の若葉の緑と青空とのコントラストが際立っており、とにかく緑が映えていた。風は寒くもなく暑くもなく、これまたいい加減に爽やかに体に運んでくれる。なんとなく釣り人も見えるし、小さい小鳥なんかも一生懸命飛んでいる。いやー、いいなー、最高だなー、と感心することしきりでした。
自然は素晴らしい。自然は“愛”である、とは名言・真実であるけど、ではなぜ、人類社会は愛じゃないのだろうか。我思うに、人間だけが強い“不安と欲”を併せ持っているからである。小鳥は一生懸命に“今”を生きている。今空を飛ぶことに余念がない。ご飯を探すのに精一杯生きている。そこにはほかに、未来への不安も欲もない。ただ本能の命ずるままに、今を生きている。明日という考えもないのかもしれない。一瞬先に敵に襲われ絶命したとしても、それはそこで終わりあとは昇天していくだけである。その今だけを生きる姿勢・潔さが、自分から見ると美しいと思えるんじゃないかと。(こんなふうに感じるのも人間の勝手さかもしれないが)
これとは逆に、人間は業が深い。業が深い故に自然に逆らい、ここまで発展してきたと思う。それは、先に述べた不安と欲が深いからである。人間はその取り止めようもない、“想像力”の持ち主であるが故に、あらゆる思念を抱く。「あれをしたい、これをしたい、ああなりたい、こうなりたい、いたいのはイヤだ、はらへるのもイヤだ、死ぬのはもっと怖い。」
では、その人間が“美しく”なるにはどうしたら良いのだろう。それは、人間がその欲(想像力)というモノの保持者であることを強く認識することじゃないだろうか。そういう“負”の考えを持ち、それを実現させるために一生までも費やしてしまう生き物であると。それに対する嫌悪感、恐怖感を持ち、そうならないようにするために、思考力を、“正”の方向に思いっきり動かすこと。
「私とあなたはつながっている。一体である。敵とか味方とかある訳がない。一体なのだから。あなたが辛ければ、私も辛い目に会うだろう。あなたが喜べば、私も喜びに会うだろう。必ず私たちは、不可分の存在だから。それを気づけないのを、稚拙というんだよ。」
ーー本稿未完ーー
投稿: ohiya | 2015年4月27日 (月) 06時52分
ワル乘りついでに書かせてもらいます。
人間として生まれた意義はなんだろう。仏教では、あらゆる生類に“仏性”があると説きます。仏性とは、仏になる性・種(たね)を言います。その中でも、特に人間はその種を大きく伸ばし成長させ、み仏という存在にちかずけさせる事ができる、生きものだと思います。他の生類は、その本能に命ずられるままに、忠実に一生を終えていきます。人間だけが、自己や他己、そして自然との関係について大きく悩みながら、作用を起こしながら生きていく。そこに人間たる意味があると思うのです。他の“自然”にはない、成長・進歩の鍵が・・・。己の小さい煩悩・我欲というものを昇華させ、他者と調和しながら生きていく。その可能性が大きくあるのが、人間という生き物だと思えるのである。言い換えれば、煩悩や恐れという存在を認めて、それを乗り越えていく努力ができるのも人間だけではないのだろうか。
その努力をできるか、否かが、人間として生まれた意味を問うている・決めているのではないかと思うのである。チリリリン。
投稿: ohiya | 2015年4月28日 (火) 01時07分
>「私たちはつながっている。」
たぶん「ラジカルなコンピュータ」(岩谷宏著)にあった一文です。「そしてそれは、つねに同量あるいはそれ以上の外部不利益である。そしてその外部不利益がやばいのは、この宇宙は本当は唯一の宇宙唯一の座標系であって、“外部”なるもの本当はどこにもないから、外部不利益が実はさまざまな破壊として内部(というより、ただ一つしかないこの全体宇宙)を侵食するからである。」
「風が吹けば桶屋が儲かる。」という諺があるが如く、我々の間には必ず連鎖が起こるのだと思われる。「対岸の火事」というのは、大局に立ってみると有り得ない間違いだと気付かされるはずです。
投稿: ohiya | 2015年4月30日 (木) 00時04分