×(せめて)自分(だけ)は自分のもんである。○自分もまた一個の他者である。
(旧人類の)コミュニケーション不能の根本原因は他者不在であり、他者不在の根因は自己疎外である。自己を疎外せず、しっかりと、一個の他者として認識把握するところから、一般的に他者の他者性もしっかりと見えてくる。例:動物園が劣悪な動物虐待であることも、リアルに見えてくる。
自己の、自己にとっての自由性、任意性という幻想に支配されているかぎり、他者もまたその自由性の延長上に置かれる。(しかしそれは無理なので、往々にして犯罪や係争に結果する。) そこで、他者不在となる。
自己は、自己の自由にはならない。自己もまた、自然の中の草一本と変わらない。それを自由にできるのは、神(またの名、自然)のみである。自己に関し、放下し、力を抜くことから、疎外の解消が始まる。自己は、自然の中のあまたの他者の一つにすぎないのだから、自然におまかせするしかないのである。また、それでいいのだ。だから、自然は愛である。
自己放下、自己疎外からの治癒から、やっと、初めて、オトコも、野の草とその花のように、美しくなれるのではないか。マツコ氏が「スカートをはいた男」と否定的に呼ぶ女性政治家、とくに自民党の女性議員は、顔が、異様に醜いと感じる。オトコと横並びの、醜さ、気持ち悪さが、全員に共通している。
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