コミュニケーション学の未来
私がこのブログや、その前身であるエッセイ集で展開しているコミュニケーション学ないしコミュニケーション理論の、もっとも中核的な概念は、(今のコミュニケーション不能人類の最大の特徴として):
★他者不在
である、また、とくに人間間(かん)における他者不在==他者疎外の最大のものが
★貨幣経済の一般化
である、後者は間接的には多くの場合、自然に対する他者不在、他者疎外を伴う。
☆貨幣を、今のようにtaken-for-granted、あって当たり前のもの、と遇するのではなく、「貨幣をコミュニケーションのイシューとして見る」視座が、きわめて重要である。
それで、大地震大津波原発事故と、広島の山地の宅地開発土石流被害と、すでに火山性地震のあった御嶽山噴火へ150人登山の三者は、自然を他者として遇さず、わがものにしていた罰として共通している。御嶽山は、山頂に宗教施設があることが、「わがもの化」を象徴している。
だいたいそもそも、貨幣動機が伴うと、自然の他者疎外が行われがちである。
「環境」はどうやらメジャーな問題意識となりつつあるが、「コミュニケーション」はいつごろ、そうなるのか。コミュニケーション学の未来は、実に、危うい。
※「他者不在」については、動物園の例が、いちばん分かりやすいかもしれません。もひとつ、露骨に分かりやすいのが、“言語警察”ないし“言語神”…自分の言語観/感を絶対視して、それと合わない他人の語用や表現を非難・批判する人。この他者不在人種は、なぜか今の若い世代にもけっこういます。自分と違う他者の存在を、認めない人。
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コメント
「貨幣の一般化」
俺はちょくちょく財布をよそで忘れてしまう。最高に嫌な気分である。(幸いいい人ばっかりでそのまま紛失にはいたっていないけど)忘れていることに気づいた瞬間は、気分は真っ暗である。
どうにも生きる権利、生きていく権力を奪われたようで実に不安になるし、誰かに免許証を悪用されはしないかと気が気で無い。
そんな風に無いと生きていけないもの、また理不尽な負債を強いるものが貨幣ではないか。
だから人間、貨幣の下の奴隷存在にガッチリ当てはまるのである。はははは。貨幣に勝とうと思えば、搾取に精を出してかき集めるのか。それも貨幣に負けて取り込まれている大バカヤローでしかない。はははははは。
投稿: ohiya | 2014年9月30日 (火) 22時31分
貨幣に代わってコミュニケーションが社会を動かす、コミュニケーションが人を動かすとはどういうことだろう。働く動機が、貨幣的欲に基づいていない。真に自分のやりたいこと、或いはその社会にとって必要とされている仕事に取り組むこと。そこには勿論カネによる見返りはない。人命を救う医者も、映画館で働く人も平等である。そこにはなんら上下関係はない。有り得ない。雇用という考えも有り得ない。
人は自分の就いた仕事に、自由と喜びと自負を持ち取り組む。
さあーて、私の貧しい頭には労働量とその仕事に就くまでの難易度の問題が大きくチラついて来る。労働量の問題は、もし一人当たりの負担が大きい職種・職場では平等になるように人員の募集をかければ良い(それほど難しくない仕事ならそれでOKである)。しかし仕事の難易度が高く、すると当然志す人も限られてくるような職場で働く人には、仕事の負担が大きくかかってくるのじゃないだろうか。そんな場合の不公平感はどうするのだろう。
私は、貨幣のない社会を具体的にイメージしたいから書いているのである。具体性とは抽象性の真逆のことであり、微細なことである。その微細なことを考えなくては、無貨幣社会なんてのはまったくの絵にかいた餅でしかないのである。
という前に、最初に大前提があった。それこそ地球規模で各人が「この借りの生を、借りの住まいである地球上において、地球に住む全住民と助け合いながら楽しく全うするのである。」という強い意思決定・意思統一である。これができるかどうかが、最大の問題点のように思える。
ナンダカナァー。
投稿: ohiya | 2014年10月 1日 (水) 04時30分
[変更]
最初に大前提が→最初の最初に大前提が
この借りの生を→この借りの人生を
投稿: ohiya | 2014年10月 1日 (水) 05時25分
「生かされている」という謙虚さ
でしょうか?必要なのは。
権利じゃなくて義務としての人生。
貨幣経済の流動的性質の弊害。
投稿: 南 | 2014年10月 1日 (水) 07時56分
「世界遺産富士山」なるものも、当の富士山自身によって吹き飛ばして貰い、「美しい自然の風景」がいかに恣意的な幻想であるかを痛感する必要があります。
投稿: iris60 | 2014年10月 1日 (水) 11時06分
自然観が個体的でなく、一般論的なわけだ。
投稿: bad | 2014年10月 1日 (水) 11時30分
ROの書評でiwataniさんが柄谷氏を批判していたが、あの人の思考はああいう風に考えるように、彼がプログラミングされ
ているだけという気がしますね。
投稿: bad | 2014年10月 2日 (木) 19時29分
無貨幣はぁ
ありえへんでぇ、
残念やなぁ、ほな
な
投稿: ぶん | 2014年10月 5日 (日) 19時20分
@ぶん
そう断言できる根拠は?
貨幣を温存してコミュニケーションはありえるの?
投稿: iwatani | 2014年10月 5日 (日) 20時41分
一切皆苦ならぬ、一切皆コミュニケーション。
投稿: みなみ | 2014年10月 6日 (月) 08時27分
昔々私共の若い頃、communicationという語は通例uncountableで、語尾にsが付いたときは報道・出版社のこと、もしくは軍事用語(*)で補給・通信線を意味すると習ったものです。
今はむしろs付きで見かけることの多いcommunications(当ブログの副題もそう)は、普通はまず十中八九(電気)情報通信を意味します。
デイトレードやオークションに手を出さなくとも、価格比較サイトで値段を調べてAmazonでお買い物といった具合に、人々と情報通信との関わりには多くの場合貨幣的動機が密接に絡んでいます。言って見れば「情報すなわちお金」なわけです。
悲しいかな文明の進歩は、双方向的、対話的なコミュニケーションがより不要なように不要なようにと進化してきたように見え、sの付かない本来の姿からs付きのcommunicationsが一般化してきた過程はまさにこうした進化(退化)を象徴しているのではないでしょうか?そしてこの進化(退化)を推し進めているものは、まさに人々の貨幣的動機にほかならないのであります。
(*)インターネットの軍事的起源はあまりにも有名であります。
投稿: iris60 | 2014年10月 6日 (月) 13時12分
「貨幣の魔力」
やはりどうにも書いとかないと進めない気がして。俺は販売が好きである。自営商店の子供として生まれた性なのか、売ることが好きである。例えば牡蠣の入った一斗缶を去年6缶売ったとしたら今年はそれ以上売りたいと思う。そしてそれが売れればガッツポーズであり満足である。これが高度経済成長を経験して来た者の性と言うか。
なんにし、売れている=儲かっているという感覚である。それは他との競争という意味ではなく、売り切ったという達成感、売上目標を超えたという喜びである。なんかもし無貨幣社会になったらそういう意欲・喜びは削がれてしまうと思う。
投稿: ohiya | 2014年10月 7日 (火) 02時04分
「無貨幣社会の断片的イメージ」
1 貨幣が無くなれば、みんなが食に関して健康になる。なぜなら、原価を下げるために健康に悪いものを使わなくて済むようになるから。
2 同じように病気に関しても、あらゆる情報がフリーに行き届くようになる。隠してストックしておく意味がないから。専門家という、貨幣的ご利益がない。当然。
3 モノが長持ちする。商品を買い替えさせる必要がないから、モノの品質・持久力は上がると思う。でも新機能・デザインを持った商品は、開発者の表現欲求としてとどこおる事はないのでは。
4 ナマケモノは生きていけない。貨幣がない=働く意欲がわかない、というものはバカにされ居場所はなくなる。働くとは文字どうり、はたを楽にすると捉えるように教える。
5 人材、資源、商品、労働力、etcが過不足なくバランスよく行き渡るのか、とてつもなく不安である。それらを(それぞれに)統括して指示するシステムは、どのように設営されるのだろうか。
投稿: ohiya | 2014年10月 7日 (火) 02時49分
paradise ?
just to say
that popularity breeds contempt .
heaven ?
where nothing is going ,
like new clear mind .
投稿: bun | 2014年10月 7日 (火) 03時51分
this is a pen. (chyu arai)
上のシステムセンターの名前はこう付けよう。
「融和センター」あるいわ「フレンドリーセンター」と。
投稿: ohiya | 2014年10月 7日 (火) 06時13分
断片的イメージの補遺。
1 食物の廃棄は少なくなると思う。余ったモノは、なんとかして分けあって有効に食べていくようになるだろう。
5 前提として全てがバランスよく揃っていないとまずい、ということはない。今の社会も断じていいとは言えない。その都度その都度、過不足はかならず出てくるでしょう。それを情報伝達・公開して解決していく。「自分が何をやりたいのか、できるのか分からない」という人が「必要とされている仕事に就きたい」と思う事も多いだろう。とにかく実直に問題点をオープンにして、人が繋がっていくのを良しとする。
投稿: ohiya | 2014年10月 9日 (木) 03時36分
病気の母親がいるが、どうしてもコミュニケーションが成立しないのである。そんなもんなんだろうか。ここ30年ずーっとなんである。
投稿: bad | 2014年10月13日 (月) 17時55分
@bad
コミュニケーションにかぎらず、いろんな能力や機能は、それの障害者や病気の場合、しょうがないですよ。
でも、ふつうの定義のコミュニケーションではなく、その二人だけの「独特の」コミュニケーションは、ありえるかもしれない。
投稿: iwatani | 2014年10月14日 (火) 08時58分
@bad
iwataniさんとカブりますが、母子関係であれば、いわゆる言語を絶した理解の地平がありえると、私なんかは楽観的に考えてしまいます。でもこうした楽観は、病気の重さによってはそんな甘いもんじゃないよと反発を受けるかもしれませんね。難しいところです。
投稿: iris60 | 2014年10月14日 (火) 11時54分
たとえば京都の予備校の担任(女性)はbad君素朴やから東京いくの心配やわーと言っていた、これがフツーの反応だと思うが、うちの母親は東京の大学受かったらもうそればっかりしか頭になく、とにかくがんばってくれの繰り返しなのである。一体東京くんだりまで行って何をがんばるんじゃ。中央はただ模擬試験で偏差値が受かるレベルだった程度のもんで、別にたいして興味なかったのである。
投稿: bad | 2014年10月14日 (火) 15時23分
兄の場合もひどく一年半宅浪していたが、毎日毎日母親と地獄のようなけんかをしていて大変だった。理由が世間体が悪い,恥ずかしいみっともないというが、原因だった。兄が口が悪いというのも少しあるが、覚えているのはどうして分かってくれないんだと兄がいっていたのと、しまいには母がいきなり笑い出してしまいビックリした事かな。まあフツーじゃないと思うが、、、
投稿: bad | 2014年10月14日 (火) 18時13分
@bad
ご高齢になったらなったで今度は認知症のケアが大変になるかもしれませんが、年々幼児期に戻っていく年寄りを見ていると、まあ大体のことは許せてしまう気になってくる可能性もあります。こちらが許せば向こうもまた昔の頑なさが取れて…という幸福な循環になれば良いのですが、こればかりは(神の?)恩寵によってもたらされるほかはないのかもしれませんね。
投稿: iris60 | 2014年10月14日 (火) 20時18分
@iwatani
>独特のコミュニケーション
そのような解釈の仕方もありますね。
しかしこの間の朝ボブマーリーかけたらクルクルパーと言われて頭にきましたよ。ひとつのドアが閉まっていてもお他のドアーは空いているんだよとマーリー歌っているのに、これだからなあ。
いい音楽なんだけどなー。
投稿: bad | 2014年10月14日 (火) 23時54分
ところでブラジル人の挨拶の言葉知ってる?センズリーナ カキナセーナだって。ははは。そんなワキャない。
投稿: bad | 2014年10月15日 (水) 00時22分
人間の根の深い部分には、人間では手の届かないものです。いや、ほんとに。人間の業(ごう)ってのはその人だけを見ていても、捉えられるものではない。もっともっと見えない深い部分に原因はあるものです。いや、まじで。それを解決した過程は、前にお話しましたよね。So Come On!いや、まじに。
投稿: ohiya | 2014年10月15日 (水) 07時23分
「無貨幣社会の断片的イメージ」
6 人間生きていく意味・目的を捉えやすくなる。猥雑な介在物(money)がない分ストレートに、生きていくことに直面できるのではないか。なんのために生きていくのか、よく見えると思われる。自分や人の生きている姿も、いいのも悪いのもストレートによく見える。
7 全くな個人的な感覚であるが、週の労働は5日間程が適当に思う。半年に一回ほど一週間くらいのリフレッシュ休暇があると嬉しいピー。
8 自分勝手が抑制される。それを乗り越えさせるのは、コミュ二ケーションの楽しさ・面白さである。
9 その町やその都市全体を、コーディネートする人間が必要と思われる。各部署、各産業が好き放題に活動されても困ってしまう。やはり全体を見当して調整する部署が必要でしょう。と言ってもその部署が権力を持つということではない。貨幣がなければ、権力という物もありえないし、皆が平等である。しかし平等であれば、どうしてその提言に執行力が持たされるのだろう。
投稿: ohiya | 2014年10月16日 (木) 03時54分
近代社会は膨大な前進運動だと浅田彰氏は言っているが、その上中身はカラッポだと指摘すべきだ。
投稿: bad | 2014年10月17日 (金) 15時46分
yesのnew albumだが、好きになるまで2ヵ月かかってしまった。
投稿: bad | 2014年10月17日 (金) 21時50分
いいねぇ~
ちなんではたしわかってましぇ~ん!
投稿: | | 2014年10月18日 (土) 01時10分
Big town ? 2061.
投稿: bun | 2014年10月18日 (土) 01時13分
@bad
senserena nd ca qui nasena....
right?
投稿: bun | 2014年10月19日 (日) 06時13分
30年程前カウンセリングを受けていたが、カウンセラー(大阪出身)が何かbadさんて関係というか、、、関係で喋ってくるでしょうといった。関係で喋ったらダメなんだろうか。
投稿: bad | 2014年10月20日 (月) 01時15分
異
性
関係かいな?
投稿: ぶん | 2014年10月20日 (月) 04時12分
同性や。
投稿: bad | 2014年10月20日 (月) 10時42分
@bad
>関係で喋ってくる
まあ普通の言い方で言えば、「何を言いたいのかわからない」という指摘をされるのかもしれませんね。もしくは「君の話は論理的でない」とか(笑)。
この、何かを言い「たい」ということと「論理的」ということは実は同根で、論理的な議論のためにはどこかに議論の始点(支点)を設定せざるを得ません。この始点(支点)こそがまさに言い「たい」という欲望の始点(支点=ファロス)であり、論理(ロゴス)中心主義はすなわちファロス中心主義たらざるを得ないわけです。さもないと、いかなる始点(支点)も持たない議論は、犬が尾を振っているのか尾が犬を振っているのか、つまるところ何を言い「たい」のか相手にはピンとこない話になるからです。
けれども私も(おそらくはbadさんも)そうですが、こうした何かを言い「たい」というファロスがはなから欠落している人間がいて、こうした人間は、これからもずっと反ロゴス=反ファロス中心主義であらざるを得ないのでありましょう。
投稿: iris60 | 2014年10月21日 (火) 11時36分
しかし普通の会話で貨幣経済なんて言葉出てこんからなあ。
投稿: bad | 2014年10月21日 (火) 21時06分
せや、命のやりとりや
それに、銭ゼ二いうんもきかんなぁ
投稿: ぶん | 2014年10月22日 (水) 20時50分
all that's exchanging life giventake
no?
投稿: bun | 2014年10月26日 (日) 06時45分
家の母親の問題は先祖がどうのというより、単にオロカなだけという気がするが、、、、。
投稿: bad | 2014年10月29日 (水) 21時09分
@bad
原因はお母さんではなく、自分の欲。
他人がこうあってほしい、という欲。
お母さんが本当に喜ぶことが、何か、ほかにあるはず。
善人ですら仏性を持つ。まして、悪人においておや。--シンラン
投稿: iwatani | 2014年10月29日 (水) 21時16分
思うに嫁さんもって仕事するぐらいしか考えつかんが、、、。
投稿: bad | 2014年10月29日 (水) 21時34分
「因果関係の万能性?」
因果関係とは、こうだ。物事の生成には必ずその原因があり、あとから結果として現れる。ヒワさんの言う「あとから襲来する他者」というのも、それだろうと思う。そしてその法則として”善因善果””悪因悪果””自因自果”と三原則がある。
アッシは迷っているのである。いろんな事象は因果律に支配されているのか、それともヒワさんがFerry論で言ったようにあらゆる動きは相互関係なく自由なのか。アッシは前者の論に9割ほど傾いている。しかし全部が全部因果律に絡め取られているとは思いたくない。窮屈だし面白くない。
また、こうも考えるん。輪廻思想が真実なら、大昔のある先祖とは、実は生まれ変わる前の(人間以外も含めて)何十代も前の自分自身ではなかろうかと。そして今に生まれ変わった意味とは、その時に体験したことの落とし前をつけるためではなかろうかと。だから過去のある先祖の所業が、今の自分の性格・行動に影響を与えているんじゃないかと。その方が”自因自果”に当てはまると思うのである。。
投稿: ohiya | 2014年10月30日 (木) 00時01分
悪人正機説については、呉智英氏がつぎはぎ仏教入門で、論理的に成立しない事
を指摘していいる。それはそうとして一体何をすれば母親は喜ぶんだろうか。
投稿: bad | 2014年10月30日 (木) 00時40分
話がもとにもどって、人にも依るが北陸あたりから上京した人にとって東京て物凄く寂しい町なのである。病院にいたTさんは能登生まれだが、歌舞伎町にいってしまい60人の女性とやり、とうとう麻薬にまで手を出してしまい、精神状態が元に戻らなくなってしまった。Sさんは25あたりで東京のパイオニアにはいったらしいがbadさん19,20で東京行ったんなら、行っただけも偉いですよと慰められたが、、、。
投稿: bad | 2014年10月30日 (木) 03時08分
歌舞伎町の
おなぐさみかいな、そりゃまた生臭いこっちゃね、
せやけど
ヒワはんにおひやはん、
自因自果?そりゃ何だんねん?
自慰自涜、じいじとく、やったら、よう知ってまんねんけどなぁ
投稿: ぶん | 2014年10月30日 (木) 06時42分
@bad
> 論理的に成立しない事を指摘していいる。
論理ではないものを論理で裁断していい気になっているバカ。今のbadさんと同じタイプの人間、というか、‘オトコ’。表層的な、非本質的なことにばかり、こだわりすぎて、心が盲目になっている。
そういう人を救える人は、その人本人しかいない。ただし、悟る契機が必要。
投稿: iwatani | 2014年10月30日 (木) 09時12分
@iwatani
そうですね。おっしゃる通りですね。本質論は別次元です。
ただし呉智英氏は鋭い所をついている思いますが。
投稿: bad | 2014年10月30日 (木) 11時23分
昨日もお腹の鈍痛が一日中続き、またとうとう救急車で病院だ。内科的にはまた異常はなく帰って来た。デパスやめてから出てきた症状だが、(やめて三週間ちょい)
精神科の女医ももう少し考えてくれたらいいのにと、不思議に思う。
投稿: | 2014年10月30日 (木) 11時52分
@bad
家族の毎日の精神的労力的時間的負担がたいへんなら、医師と相談して即、入院させるべきです。快癒とまでいかなくても、状態が安定するまで。
日本人は杉原千畝さんのように、人間的にずばり突っ込んだ迅速な判断と行動を取らない人が多すぎるから、
・警察はストーカー殺人を防げないし、
・学校はいじめ自殺を防げないし、
・児童相談所は児童虐待を抑止できないし、
・そして家族は家庭内殺傷事件を防げない。
投稿: iwatani | 2014年10月30日 (木) 13時27分
ケアマネと相談し、この間行ったショートステイに行くことになりました。ショートとかデイサービスを利用するとなぜか痛みが緩和されるんだ。本人は行くのイヤだというが。
投稿: bad | 2014年10月30日 (木) 23時05分
日本は具体的に行動をとってくれる人が少ないくせに、相互監視システムばかり発達してるのは何でじゃ。
投稿: bad | 2014年10月31日 (金) 13時32分
母親の状態を見ると、向精神薬は一度やったらおしまいと言ってる内海聡の主張は本当なのかもしれない。僕自身も飲んでるのだが、、、。
投稿: bad | 2014年11月 1日 (土) 00時02分
@bad
ご高齢の場合、漢方のほうが良いこともあるようです。「抑肝散」(ツムラ54)という漢方薬が先日認知症薬としてNHKテレビでも紹介されていました。(漢方はあなどれません。当方の父親が酷い頻尿になり、いろいろ試行錯誤の末たどりついた清心蓮子飲という漢方薬が魔法のように効いてしまい、手術を回避できました。)
投稿: iris60 | 2014年11月 1日 (土) 11時08分
radioheadのparanoid androidて曲聞いたがが、crimson並に暗いぞ。
投稿: bad | 2014年11月 1日 (土) 17時20分
パキシルを飲んで寝たらグルグルーと飛んで回る様な夢を見て、目が覚めたらああ夢だったんだとほんと、胸をなでおろしたし、やめる時は頭にピシピシと閃光が走るような感じがなかなか取れなかった。向精神薬こわいですねー。
投稿: bad | 2014年11月 4日 (火) 21時50分
また母親の嫌な所は非常に権威主義で、中央やめてしばらく経ったら、とうとうPL教団なんてものに(あーー)通い始めたのである。あーーーーー。
投稿: bad | 2014年11月16日 (日) 14時34分
radioheadのcreepという曲なにげに聴いてたんだが、詞を見たら真っ暗の曲なんである。
投稿: bad | 2015年2月17日 (火) 18時25分