コミュニケーション学の未来
私がこのブログや、その前身であるエッセイ集で展開しているコミュニケーション学ないしコミュニケーション理論の、もっとも中核的な概念は、(今のコミュニケーション不能人類の最大の特徴として):
★他者不在
である、また、とくに人間間(かん)における他者不在==他者疎外の最大のものが
★貨幣経済の一般化
である、後者は間接的には多くの場合、自然に対する他者不在、他者疎外を伴う。
☆貨幣を、今のようにtaken-for-granted、あって当たり前のもの、と遇するのではなく、「貨幣をコミュニケーションのイシューとして見る」視座が、きわめて重要である。
それで、大地震大津波原発事故と、広島の山地の宅地開発土石流被害と、すでに火山性地震のあった御嶽山噴火へ150人登山の三者は、自然を他者として遇さず、わがものにしていた罰として共通している。御嶽山は、山頂に宗教施設があることが、「わがもの化」を象徴している。
だいたいそもそも、貨幣動機が伴うと、自然の他者疎外が行われがちである。
「環境」はどうやらメジャーな問題意識となりつつあるが、「コミュニケーション」はいつごろ、そうなるのか。コミュニケーション学の未来は、実に、危うい。
※「他者不在」については、動物園の例が、いちばん分かりやすいかもしれません。もひとつ、露骨に分かりやすいのが、“言語警察”ないし“言語神”…自分の言語観/感を絶対視して、それと合わない他人の語用や表現を非難・批判する人。この他者不在人種は、なぜか今の若い世代にもけっこういます。自分と違う他者の存在を、認めない人。
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