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2014年7月16日 (水)

自己の生も死も他者である

自然は他者であり、生も死も自己も自然の一部でしかない。誤解を恐れずに言えば、原発(国の金)で地域が潤っていたことよりも、自然の威力の中で多くの死が発生したことの方が、健全であり愛であり幸福である。自然は、愛である。

他者不在という重要な概念*。そして、それを比喩的に表現する「動物園」への他者の恣意的囲い込み。
*:ココロとアタマの中に他者がきちんとくっきり他者として存在せず、“マニピュレーションの対象物”と化していること。例:自分の子をマニピュレートする教育ママ。

人類はまず、宗教という「神の動物園収容行為」を完全に廃棄する必要がある。

しかし、他者不在も動物園も、わかりにくい、伝わりにくい、という欠点がある。

コメントで、みなさまの名案や迷案を求む。

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コメント

「他者の恣意的囲い込み」
俺が頭にくるのは、クーラー、エアコン、カーエアコンの過剰な氾濫である。他者である夏という季節を、侮蔑している人間のオゴリである。あほかっ!巡り来る一年の3ヶ月ぐらい、耐えて見せろ。どうも、熱中症・食当たり云々騒いでいるが、自分の小さかった時代はそこまで人間弱くなかった気がする。
自然に順応せず、自分の都合のいいように自分の狭い周りだけ、環境を整えるなんざ、「恣意的囲い込み」意外の何者でもないだろう。どれだけ何のために、電機を使っているのか。そして、それ以上の害毒を周りに巻き散らかしている。恥って言葉知ってますか。恥を知りなさい。

投稿: ohiya | 2014年7月17日 (木) 00時44分

「愛も他者である。」
”愛”とはなんぞや。
愛とは、たいがいの事には大騒ぎしないことである。
また、大騒ぎしないといけないような事件を起きないようにすることである。
愛とは、生であり死であり、自然である。
愛とは、誰でもが愛し合える世の中である。
愛とは、まっすぐに今日と明日のことを考えることである。

Love is you. You and me.
Love is knowing, We can be (love).

愛とは、僕とあなたのあいだに有り、
どちらの所有でもない、関係性のことである。
            

投稿: ohiya | 2014年7月17日 (木) 01時56分

たとえば

心臓を動かしているのは私(の意思)ではない。

なんかはいかがでしょうか?。

投稿: 南 | 2014年7月17日 (木) 08時08分

いいですねぇ。

自分の意力でなくしては何で?

神さま、仏さま?

創造主、自在神?

いずれにせよ、自分の所有物だといえる根拠がなさそうな気がしますので、他の臓物についても提供意思を持つに至りません。

投稿: 分 | 2014年7月17日 (木) 19時15分

「他者顕現」のプラカードを持って
一人でフルチンの大行進。

投稿: ohiya | 2014年7月17日 (木) 22時42分

@ohiya
しょうもないこと書くんじゃなかった。
その前のコメント{変更}

愛とは、誰でもが愛し合える世の中である。
→愛とは、誰もが愛という社会に参加できること。

投稿: ohiya | 2014年7月18日 (金) 04時46分

最初から「他者」「コミュニケーション」という言葉を前面に押し出してしまうと、むしろ事の核心が蔽い隠されてしまううらみがあるので、まずはいったんそうした概念を括弧()に入れたアプローチが必要ではないでしょうか?

動物園の比喩は、なるほど他者性抑圧の象徴であることについては多くの人が「その通りですねえ…」と同意はするものの、なぜそこまで強いこだわりを持たねばならないのかについては、それだけでは正直ピンと来ないというのが大多数の本音かと思います。

さて、ここではひとまず「他者」概念を括弧()に入れて見ますと、動物園と原発が驚くほどよく似ていることに気付きます。どちらも「閉じ込める」ということをその本質としており、動物達や核燃料物質の「リビドー」は完全に抑圧、もしくはより狡猾にコントロールされます。

動物園も原発も、多くの人が「あんまりイイもんではねえなあ…」と思いながらも、絶対悪とまでは断じきれずにいるところも非常によく似ています。

毎日何百万頭とも知れぬ家畜達、無数の昆虫や細菌を殺戮しながら生活している人間が、動物園に捕らわれたごく少数の動物達を憐れむのはどう考えてもバランスを欠くことと、毎年、何万もの人が大気汚染や炭鉱事故で死ぬのに、チェルノブイリを除けば直接的な死者のない原発を危険視するのがバランスを欠くことも、両者よく似ています。

裏を返せば、こうした「論理的には明らかにバランスを欠いているでしょ?」という批判を跳ね除けて「No!」と断言できる感性を持たない限り脱動物園は達成され得ず、またこのことは脱原発についても同様ということになります。

けれども、世のすべての人にそうした感性を期待することはおそらく困難であるのみならず、個々の感性が複数の人々の合意に結びつくには理論の支えが必要となります。かくして、そうした理論の核として導入されるであろう鍵概念が、ほかでもない、岩谷さん流に言えば、「他者」であり「コミュニケーション」なのであろうということは、漠然とながら予見できると言って良いと思います。

そうした暁には、上記の動物園と原発の類比は単なる類比を超えた論理性を獲得できるのかもしれませんが、それがどのような理論であるのかを明晰に見通すことは、残念ながら今の私にはまだできません。

投稿: iris60 | 2014年7月20日 (日) 11時59分

いやー、久しぶりにiris60さんの、難しい回りくどい文章を読めて嬉しく思います。昔の数々の非礼お詫びします。
また私の、直対応した軽い反応を書いてみたいと思います。
>何万頭もの家畜、無数の細菌を殺戮しながら・・・・
その既製事実とコミュニケの問題について考えていくことは、そのフィールドがちがうように思います。それを同じ議論内で語ることに意味はないような気がするんですが。

(順序が逆になりましたが。)
>それだけでは正直ピンと来ないというのが、大多数の本音ではないかと思います。
そこをもう一度、再考してもらおうとするのが、本ブログの意味合いかと思います。みんなにそこを考えてもらうために、いろんな例題をだしてみようよ、てなことじゃないでしょうか。


投稿: ohiya | 2014年7月20日 (日) 12時56分

アイリスさんに同じです、わたしも iwatani 語の「他者」にはピンときませんし「自己」についても語彙がわたくしとは異なります。ドナーカードのはなしは、それ(他者=他人)を皮肉ったつもりだったのです。

わたしは自者です。

投稿: 分 | 2014年7月20日 (日) 18時14分

うぅ駄目だ。皆さんの言ってる事がよく解らない!笑
震災の原発事故の時、「想定外の事が・・」という言葉をよく耳にしましたが、iwataniさんの文章を読んで、想定外の事が起こるのが「自然」であり、それが又「他者」なんだなと思っているのですが・・・つまり人はなんでもかんでも分析可能で「Aとは何々である!」と決めつけたくなる生き物ですが、ちっぽけな尺度で計ることができないのが「自然」であり「他者」であると思いました。それと人間が牛や豚、魚、あるいは植物を殺して喰うのと、動物園でゴリラや象やライオンをただ人間が観るだけのために「喰いもしないのに」晒しものにするのとは話が全然違うでしょって思いました。

投稿: musataro | 2014年7月23日 (水) 11時35分

「A=A」
 論理。正しい。他者不在。
「A=notA」
 自然。難しい。他者。

 ほんとうの論理が要るのでしょうね。

投稿: 市川智 | 2014年7月23日 (水) 18時16分

酔った頭なので、思ったまま書いてみたいデース。ふにゃ。へたな鉄砲も数打ちゃ当たるだ。
1、おらぁー生まれる前に、なにも石川県金沢市の誰それの子として生まれたいなんぞとは、一回も思ったことはねえだ。知らぬ存ぜぬところに、産み落とされただ。

2、@iwatani
原発(国の金)で潤うよりも、自然の威力の中で多くの死が発生したことの方が・・・・
国の金=国民の労働から搾取した金(貨幣)で美味い汁を吸うことは、まんまと彼らの一味に取り込まれることではないか。そんなことよりは、純粋に個人として、汚れにまじわらず大津波によって逝った事の方が尊厳と純潔を守ったと言えるのじゃないか、とiwatani氏は言いたかったんじゃないだろうか。かってな推測ですけど。そのかってに上乗りするなら、私は当事者でも関係者でもないので、なにも言えません。(それなら、書くなよっ)

3、iwatani氏が、「他者不在」の方か、「生も死も他者である」の方か、どっちを検証する例題を求めているのか、あちきには読み取れませんでした。

投稿: ohiya | 2014年7月23日 (水) 20時57分

@ohiya
メール送りました。届いてますか?

投稿: bad | 2014年7月24日 (木) 21時05分

Sorry, I've got it.

投稿: ohiya | 2014年7月24日 (木) 23時32分

@市川
「A=notA]
自然、難しい、but普通or当然、他者だと思いました。

投稿: ohiya | 2014年7月25日 (金) 04時47分

自然って宇宙的天然であって、人(者)ではないでしょ、神的に擬人化していっているんでしょうか?
わたしには、それ(他者)は空虚に響きますが。

A でも 1 でもいいなら、それは、 自 でもいいでしょ。

[ 自 = not 自 ]

投稿: 分 | 2014年7月26日 (土) 07時54分

@分
どーも、自然を擬人化しているのではなくて、他者って言葉が擬人化された言葉というか。そんな使い方だと思いますよ。自然の本質はいろんな様態(ようたい)であって、それを擬人化・人格化しているのではないと、思います。
「他者」ってざっくり言ってしまえば、「別物」。自分の思いどうりにならない(貴重?愛すべきもの?嫌悪すべきでないもの?)みたいな感じですかねー。for me。

最後は[自=not自=異者=他者]でバッチリだと思いますよ。(これは言葉の遊びかなぁ。)

投稿: ohiya | 2014年7月28日 (月) 23時04分

お経に、

自他平等 即身成仏

とあったかもしれません。

投稿: 分 | 2014年7月30日 (水) 18時48分

「他者不在」=「制服」
あっしはこのところ会社からよく催事販売にいけと言われるん。それで岐阜県大垣市や静岡県清水市に行ったりするん。やはり人気商品の蒸し牡蠣を販売するん。その清水市には会社の会長が来ていたん。あっしは夏の外での販売だから、Tシャツに短パンサンダル、首巻きタオル、エプロンと言う合理的な超軽装で販売するん。
どうもその格好が、会長の気に召さなかったようである。急に催事用の制服を作ると言い出しよるん。なんといいますか、どうもグループのボスというのは、部下が好きなことをするのが気に食わないようである。どうも手下を、自分の思う色に染め上げて働かせたいのではないか。まぁ、うちの会長は~軍団というのをはばからない、義理人情を好む人だから。
だけど部下を制服を着せて働かせるというのは、会長にとって部下という他者の不在に該当するのではないか。自分色に染めたい、支配したいという。それより他者の自由にさせろよ。個性を出させてくれよ。なんだよ、その横暴ぶりは。くだらんことにこだわるんじゃねーよ、バカヤローよ。

投稿: ohiya | 2014年8月 9日 (土) 22時36分

自=他、自他平等であるとき、他者は不在です。
他者のこだわりは、自者のこだわりです。
征服着用の苦行が身に合わなければ、別の苦行を試すべきでしょう。

投稿: 分 | 2014年8月10日 (日) 23時44分

お盆の間ずっと留守にしていました。
@分
自=他というのは、その人一人に当てはまる比喩だと思います。そうでないと南さんの比喩があてはまりません。各人が各人にとって他者である。自分が自分にとって他者である。その意図するところは、自分への執着をずらすこと、たった一人の自分のために頑張らないこと、自分を良くするために生きないこと、自分を客観視・突き放して見ること、etc。
だからohiya=分でなくて、ohiya=not ohiya、分=not分の集まりが、社会になったほうが、ギスギスした執着の無い、風とうしの良い社会になるというイメージではないでしょうか。

投稿: ohiya | 2014年8月19日 (火) 02時48分

{変更}ギスギスした執着の無い→ギスギスした執着の少ない、

「オトコの嗜好」
先に長は制服を好むと書きましたが、どうもあれは勢い・パワーを好むと書き換えられそうである。なにか一塊りの集団になって売りにかかるのが有効と思っているのではないか。オトコって集団・軍団・パワーで制圧というのを好むのだと思う。
これからはそれよりも、繊細さが人類が生き残るために必要じゃないだろうか。資源をシェアしあわなければならない場面が多くなるのは当然だから。

投稿: ohiya | 2014年8月19日 (火) 03時24分

おいおい、誰も何も書かないというのは、寂しいねぇ。このまま消滅ですか。
ということで書いてみたい。上記の自己観念の件ですが元になっているiwataniさんの原稿を紹介してみたい。それは氏の奥さんである啓子さんのブログ「岩谷宏と一緒」の中のお題”ポール マッカートニー”である。一読あれ。そしてその中には他にも旬さんの感動したロキシーの「想い」・・この非現実の沃野と言う原稿もあったのである。

ところで金沢市には、有能な中古レコード屋さんがありまして、それはレコードジャングルという名であったりする。一昨年だったか在庫一掃バーゲンとかでLP一枚100円で売ったりしていた。なんとその時に、昔のrockin' onも売っていたのである。それもまとめて一冊100円で。という訳で我が家にはあの青春を過ごしたrockin' onが’76年から’79年まで完璧に揃ったのである。凄いでしょう。昔なんかのはずみで売り飛ばしてしまったのが揃ったのである。なにか思いの凄みを感じてしまったなー。

投稿: ohiya | 2014年8月23日 (土) 04時36分

あまり書きたくはないのですけど、先日北川景子がゲストの「ほんまでっかテレビ」で耳の痛いコメントを聞いてしまった。いわく、「人は自分の得意・優れていると思っていることについて悩む。」である。どうも身につまされる。
昔の私は、自分の自意識にすっごく悩まされていた。とにかく自分がどう思われているか、思われるかが怖くて自意識にがんじがらめ、閉じこもっていたとのである。自己嫌悪というのも、本当の自分はこんなのではないのに、怖くてウジウジグチグチしている自分というものが嫌いで仕方なかったのだろう。どっちに転んでも自己というものについて苦しんでいたのは間違いない。
ということは、自分は自分に人3倍の関心・自己愛、優れた自分だと自信を持っていたということである。例えば、上のテーゼの好例として「ジョンレノンは主夫時代、作曲できないと悩んでいた」なんてのはどうだろう。ジョンはかつては超絶の作曲家だったが長いブランクの時は本当に苦しんでいたと聞く。かように、人は自分の得意分野について悩むのである。
とすれば、私は私について一番執着していたのである。勿論、現在も絶対にそれは変わっていないと思う。変わったとすれば、自分と対象において若干距離を保てるようになった事かと思う。距離を意識できるようになって、ユトリを保てるようになったということか。上のコメントで「自=他者」なんてスカしたことを書いていたが、本当は自分が大好きでしょうがなかったのである。(bunさん、悪かった。)
なにが言いたかったかというと、一度あなたの悩んでいる点について再検証してみるといかが?と言う事を言いたかったのです。そのポイントが実は、あなたが自信・執着を持っている点ではなかろうか、ということです。駄文長文失礼しました。

投稿: ohiya | 2014年9月12日 (金) 23時04分

「自=他者」
当時若い頃、自分について悩んでいたから、それを変える見方を持とうとしていたのかもしれない。
また、上のテーゼは自分のチンケな悩みとは別次元で、コミュニケにとっては有能なテーゼにも思える。

投稿: ohiya | 2014年9月12日 (金) 23時43分

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